卓
それはある日の日曜日の事だった。立冬のせいか透き通るような冷たい風とキンモクセイの匂いが微かに町を漂わせていた。
この日、彼は黒色のポリ袋を片手に路地を全速力で走っていた。
「何が、『お前は一生引きこもりでいいのか?』だよ!いいに決まってんだろ。これが俺の生きる道なんだよ」
彼の名は卓。その顔は今まで彼女という存在に恵まれた事のなさそうな、弱気な顔をしており、自宅に帰ってはパソコンでオンラインゲームなどをしたりして、いわゆるオタク系の半ひきこもり状態だった。
卓は自宅に到着し、玄関を勢いよく開けた。
「ただいま」
「母さん、帰ってきたぞ、引きこもりが!」
「うるせえ! 俺は今それどころじゃないんだよ」
父親に聞かせんばかりの大きな足音を立てながら階段を上がり、一人呟く。
卓は部屋に到着すると鍵をしっかりと掛け、黒いポリ袋を破きながらパソコンの電源を入れる
「やばい、やばいっすよ先輩。可愛いすぎるだろう。こんな可愛い子がこの世に存在していいのか!」
卓は完全に自分の世界に入りこんでしまっているようで、部屋の明かりは点けず、小さなスタンドライトの明かりだけがパソコンのキーボードを照らしていた。
「っていうか冬なのになぜこんなに暑い。それにしても本当にこんな可愛い子が現実に現れたら、もう俺は3,4日メシいらないぞ」
「卓、ご飯よ!」
「だからいらないってば」
「え? ご飯いらないの?」っと1階にいた母親が大声で2階にいる卓に声を掛ける。
卓は小声で
「......間違えた」と呟いた。
すると今度は自分の部屋から大声で
「後で食べるから!」と強く叫んだ。
卓は着ていた上着を脱ぎ捨て、黒いポリ袋に入っていたDVDパッケージのような物を目にしながら怪しげな笑みを浮かべている。
パソコン機器からはディスクが高回転する音が鳴り響き、画面上には『女の子の名前を入力してください』という表示があった。
「ん~こうゆうの一番悩むんだよな。 そうだ、昨日の夜に見たあの女優さんの名前でええじゃないか。 えっと、なんだっけ、あっ! 菜々だ。菜々~!」
......結局この日はご飯も食べず、明け方まで少女ゲームに明け暮れていた。
次の日の朝、寝不足だった卓は目を擦りながら、制服のボタンを掛け間違えている事も気づかず登校していると。
「っよ!卓」
そこにいたのは卓の中学校の同級生の元気の姿だった。
「——お、おはよう! 久しぶり。 あれ、元気だよな? あれ、お前東高じゃなかったっけ? ここ通学路?」
「いや、通学路じゃねーよ! それよりお前ボタン掛け間違えてるし。 相変わらずオタク丸出しだな」
「そうゆう元気もオタクだろ」
卓は元気の肩を叩きながら突っ込む。
「いやいや、俺はもうとっくに卒業したから。 今はリアルの女しか興味ないぜ」
卓は振り向きざまに足を止めた。
「まじかよ。2次元以外で好きな子がいるって事?」
「あたりまえだろ!つか二次元ってなんだよ。実は今日も学校終わってから逢う予定なんだけどな」
卓は自分と同じ価値観を持っていたはずの元気がどこが遠くへ行ってしまった気がしたのか、とても切ない表情をしていた。しかし、無理やり作り笑いをしながら
「おいおい、どんな女の子だよ。 会わせてくださいよ先輩! 」
「やだよ、見てどうすんだよ」
「じゃあ一目でもいいから見せて」
「つうか、今日だけは俺一人じゃないとダメなんだって」
「——なんだよそれ」
卓は元気に見せるかのように、ため息を小さくつきながら再度歩き出した。
「わかったよ。 じゃあ一目見るだけな。 とりあえず学校終わったら連絡するから」
「本当? ありがとう、じゃあ連絡まってる」
卓は朝の眠気が嘘のように目をしっかりと開け、学校へと走り出した。しかし、その後は少し落ち着かない様子で授業を受け続ける。
最後の授業を終えるとすぐさま走り出し、近くの公園で元気からの連絡を待つ。するとスマートフォンから通知音が鳴った。
<今学校終わった。とりあえず今から新宿駅に来て>
卓は勢いよくスマートフォンの画面上に指を動かす。
<了解>
卓は切符を親指で強く握りしめながら走り、電車に乗った
「いったいどんな子なんだ。 とんでもなく可愛いかったらどうしよう。 いや、でもまだ付き合ってないんだろ。 何が俺をこんなに不安にさせるんだ」と周囲に聞こえないように呟きながら電車を降り、早歩きをしながら待ち合わせ場所へ急ぐ。
すると、遠くからでもわかる程の存在感を放つ元気に、卓は嫉妬をしたのだろうか、早歩きだった足を止め、ゆっくり歩きだした。
「ごめん、お待たせ。 つか私服に着替えたのか。 なんか服のセンス変わったな。」
「遅せぇよ、あたりまえだろ! 今はこうゆう服がモテるんだよ! さぁ早く行くぞ」
「......おう、っでどこに?」
「まぁとりあえずついて来いよ」
卓は元気の後をついていくように歩き始めた。それから約1,2分過ぎた時だった。
「一応、ここなんだけど、お前はとりあえず店の入り口から先は入ってくるなよ」
卓の目の前にあったのは駅前の4階建てのカラオケ店。
「——え? ここ?」
「そうだよ! お前はここから見てろ。 それでもって、俺が10分しても戻ってこなかったら、お前は帰れ。 わかったか? じゃあ行ってくる」と元気は卓の返事も聞かず店内に入ってしまった。
卓は周囲を確認しながら怪しまれないように必死でスマートフォンを触ったり、自分の制服のボタンを掛け直す。
「佳奈ちゃん! 先週の約束通り今日は一人で来たよ」
そこには佳奈の姿があった。
「......あ、いらっしゃいませ。先週の約束?」
「え、約束したじゃんか!人が大勢いると嫌だからって」
「あぁ。 本当に一人で来たんだ」
「そうです! 」
元気は胸を張り、受付に両手を乗せる。
「......ごめん、実は私」
「え? なに?」
「......あのね、同じ学校のありさって知ってるでしょ? 実はこないだありさと一緒にカラオケしたの。 そしたら意外に一人じゃなくても大丈夫かなって思って」
「えぇ、約束と違うじゃん。 じゃあこの近くに住んでるツレがいるんだけど、そいつ連れてくるわ。 ちょっと待ってて」
「——え、ちょっと」
元気は慌てて店内を出て、卓の元へ向かう。すると卓は、扉越しに佳奈を見ながら呆然と立っていた。
「卓、お前に俺の人生を預ける! とりあえずちょっと来い」
元気は、もたついて歩かない卓を無理やり佳奈の方へ連れていく。
「お待たせ! こいつ俺の中学校時代のツレの卓」
「—あ、はい。初めまして」
「そんで、この子が俺と同じ高校の佳奈!」と元気は堂々と卓に言った。
佳奈が首を小さく傾げ
「えっ、なんでいきなり呼び捨て?」
しかし卓は黙ったままだった。
「おい、黙ってないであいさつしろよ! 」
すると呆然と立ちすくんでいた卓が小さく呟いた
「......菜々ちゃん?」
「——はい? いえ、私、佳奈ですけど。」
つづく