第二十一話
「サバイバルには三つの三が重要になります。
酸素が無ければ三分、水が無ければ三日、食料が無ければ三週間で人体は活動を停止するでしょう」
どこかで聞いた、どこかの知識。
この知識は俺の体にも適用されるのかな――、と自嘲気味に考えながら暗い海底に引きずり込まれていく。
見た目は刺胞生物や棘皮動物、もしくは軟体動物な俺だったら水の中で呼吸出来ても良さそうなものなのに、現実はそれを否定している。
スキュラさんの触手から逃れる術の無い俺にできることはあまりない。
こっそりと触手を一本ご主人とアビーの近くに転移させ、俺の位置を差し示す。
このままスキュラさんに引き寄せられれば、ご主人とアビーに位置を知らせることができるはずだ。
ついでにもう二本、ご主人とアビーにセクハラするために触手を転移させる。
「んふっ、捕まえたっ」
スキュラさんの眼前まで引き寄せられた。
水の中でもスキュラさんは声を出せるんだな――なんて呑気なことを考えてしまう。
思考がパニックに陥ってるわけではないが、今出来ることも思いつかない。
とりあえずスキュラさんの胸の感触や、どこが弱点なのかをチェックしよう。
俺は動かせる触手の全てで以て、スキュラさんの柔肌を狙う。
生存が危ぶまれる事態に陥り、俺の性衝動はいつもより激しい。
種族を遺すことはまだできないが、俺のDNAはこの世界に根付くことを望んでいるに違いない。
ご主人の太ももはまだまだ女性特有の柔らかさが足りないなー。
「責められるのは好きじゃないの」
俺の触手とスキュラさんの触手が絡み合う。
数は圧倒的に俺の触手の方が多いのだが、スキュラさんの触手は一本一本が太く、逞しい。
俺のヤワな触手では十本がかりでも、スキュラさんの一本の触手に力負けしてしまう。
だが力に任せて責めるだけではいけないと、ダリアさんが言っていた。
相手を蹂躙して屈服させるのでなく、相手を優しく抱擁して満足させるのだ。
触手から余計な力を抜いていく。
そしてスキュラさんの触手を優しく撫でる。
骨のない触手にしかできない、柔軟な責め。
太く逞しいスキュラさんの触手を、俺の大量の触手で包み込み、時には吸い付く。
「なっ、こんなっ」
スキュラさんは触手で責められたことはなかったようだな。
かつてダリアさんは、ご主人の指を舐め、吸い付くだけでご主人を高まらせた。
俺の全触手を使えばダリアさんを超えることはできなくとも、近いことができるに違いない。
そう思い触手を触手で責めてみたが、効果覿面だったようだ。
暗くてスキュラさんの顔はよく見えない。
だが俺にはわかる。
上気した顔、呼吸が荒くなり激しく上下する肩、求めるように動いてしまう腰。
スキュラさんは今、俺の愛に溺れている!
そして俺は今、息が切れて溺れそう!
「ばびびょぶばっ! ぼぼばっ!」
イルカか、シャチか――、それともクジラなのか?
猛スピードで海中を泳ぐ何かが、スキュラさんの太い触手を切り落とす。
アビーの脇に触手が挟まる。この状況に焦ってるのかな、少し汗ばんでるぞ。
「クッ!?」
俺と愛し、愛されたスキュラさんの触手が解体されていく。
少しだけ寂しさを感じながら、自由になった俺はスキュラさんと距離を取った。
このまま海上に脱出するのも良いが、それでは沈んでいるアニキを助けられない。
アニキを助けるためにも奇跡を――、俺のエロスで奇跡を起こすしかない。
一本の触手を伸ばし、エロスにより溜めた力を迸らせる。
エロスの力により触手は神々しく輝く光の柱となった。
スキュラさんとの、ご主人との、アビーとの行いで溜め、死の淵に追いやられたことによって生まれた生存本能が増幅させたこのエロスの力。
エロスの力と愛の心にて、暗き海水を断つ……。やってやるぜ!
輝く光の柱を振り下ろす。
振り下ろされた光の柱を避けるように海水は左右に割れていく。
途方も無い水量の海水が、洞窟の外へと一気に排出される。
光の柱が海底まで届くと、全ての海水が洞窟から消えていた。
洞窟の入り口から再び流れ込もうとする海水は、葦によって防がれる。
「なっ……、どういうことなの?」
スキュラさんの問いに、答えられる者は俺以外にいない。
空中に浮いているご主人も、アビーも、そして銛を持って大地に立っているアニキも状況を理解していなかった。
「これが愛の力です。一瞬でも愛し合った俺と貴女で作り上げた奇跡」
「愛……ですって?」
「その通りです。
男女の交わりとは、ひと時の快楽を求めて行うものではありません。
心と心が通じ合い、生まれるコミュニケーション。
即ち、ONE LOVE COMMUNICATIONなのです!」
「そ、そうだったのね……!」
俺の言葉に心打たれたのだろう、スキュラさんは膝を折る。
既に戦意は無い。
心と心が繋がった俺だからわかる。
この暗い洞窟で行われた戦いは終わったのだ。
「ほ、ほんきで何を言っているのかわからんぞ……」
「神のお言葉は深いですね」
「フッ、成長したなソーマよ」
また一つ、生物として高みに昇った俺を、皆が祝福する。
「さあ、貴女が捕えた人魚さんの雄を解放してください」
「ええ……、わかったわ」
スキュラさんと共に洞窟の奥へと進む。
そこには、魚に人間の手足を生やしたような生物がいた。大量に。
「ここにいるので全員よ」
人魚さんたちはあんなに美しかったのに、この生物たちは何というか……。
「うむ、こやつらを連れて行けば人魚たちから謝礼がガッポガッポじゃな」
「ご主人、人魚さんの雄たちを連れて、先に船に帰ってもらっても良いですか?」
「何でじゃ?」
「スキュラさんと話したいことがあるんです」
「そんなこと言って、わしのいないところでイヤらしいことをするつもりじゃな! エ……むぐぐ」
アニキがご主人の口を押さえ、そのままご主人を担ぐ。
「男女の仲には色々とあるだろう。
それはたとえ主従の関係にあったとしても、口出ししてはならん」
「ムググ~!」
それだけ言い残し、アニキはご主人と共に去っていった。
そしてアビーも人魚さんの雄たちを引きつれ、洞窟から出て行く。
「まだ何か用があるの?
あなたたちの目的は人魚だったのでしょう?」
「そうです。結果的には貴女を傷つけることになってしまいましたが――」
「それは仕方ないわ、私から仕掛けたんだもの。
殺されてないだけマシってものでしょう?」
「ですが……」
そっとスキュラさんに近づく。
スキュラさんは本質的に悪というわけではないのだと思う。
ただ、彼女は寂しかっただけなんじゃないだろうか。
彼女との触れ合ったとき、彼女の心は寂しさで一杯だった。
「ですがやはり、貴女を傷つけたまま去るのは良くないと思いまして」
「治癒術でも使えるの? だったら、皆を先に帰らせるなんてことしなくても――」
「治癒術は使えませんが、俺にもできることがあります。
この洞窟から海水を引かせたときと同じことをする必要がありますが……」
「それはつまり……」
「そういうことです」
触手でスキュラさんの顔を撫で、唇を弄る。
スキュラさんの下半身から顔を覗かせる犬たちが不安そうな顔をしていたので、こちらも撫でてやった。
「私は負けたんだから、文句は言えないわね」
「嫌なら――」
「あなたのしたいようにして」
―――
「ありがとうね」
スキュラさんの触手は、俺が治療した。
にょきにょきと伸びていく触手が少しだけおかしくて、俺たちは笑った。
「いえ……」
恐らくスキュラさんの触手を斬りおとしたのはアニキだったのだろう。
ご主人もアビーも、海水が引いたときはまだ空中にいた。
アニキが俺を助けるためにスキュラさんの触手を斬ったのだから、俺が治してあげるのは当然のことだ。
「……」
「……」
もう用はない。
俺は船へと帰らなければいけない。
だが言い出せない。
ここで彼女と別れたら、次はいつ会えるかなんてわからない。
「一緒に――」
「それはできないわ」
「なぜですか?」
「……」
スキュラさんは口を閉ざした。
唇を噛み、今にも泣き出しそうな彼女。
そんな顔をした彼女から、話を聞き出そうなんて思えるはずがない。
「わかりました、話せないなら聞きません」
「そう……」
「でも、いつかきっと迎えにきます」
「……」
俺は船に向かって歩き出した。
彼女が一緒に来れないのは重大な理由があるのだろう。
人魚の雄をさらうことはできるのだから、ここから動けないというわけではないはず。
スキュラさんの口から言うのが躊躇われるのなら、自分で調べるしかない。
まずは人魚さんたちから話を聞くべきか。
「不潔じゃ! 不潔なのじゃ!」
船に戻った俺は、ご主人から延々と罵倒された。
「ですからご主人、スキュラさんの触手を治しただけです」
「その前にいやらしいことをしたんじゃろ! イカ臭いぞ!」
「あむあむ、アタシがイカを食べてるからじゃなイカ?」
ダリアさんの口からはゲソがはみ出ているでゲソ。
「それより人魚さんたちはどこですか?」
「それよりとは何じゃ! ご主人であるわしの言葉を聞けぇ!」
「人魚たちなら海へ戻って行ったぞ。
何か用でもあったのか?」
「実は人魚さんたちに聞きたいことがありまして」
「ほう、言ってみろ」
アニキが自信満々に両腕を掲げ、手首を曲げる。
ここまでインテリジェンスを感じさせるオリバーポーズなど、俺は見たことが無い。
マッチョはインテリゲンツィアが多いという話は真実だと確信した。
「実はスキュラさんに、一緒に来ないかと誘ったんです」
「何を勝手なことを! このパーティーのリーダーは……むぐぐ」
話の腰を折ろうとするご主人の口を、アニキが押さえる。
「ですが断られてしまって……。
彼女の表情から、言えない事情があるとは思うんですが……」
「成程。その理由が知りたいのだな?」
「はい」
「うむ、オレにもわからんッ!」
アニキにもわからないことがあるなんて。
となればこの船のクルーに聞き込むしかないか。
「気を落とすな、ソーマ。
ここは海だ、ならば海の男たちに聞けばきっとわかるに違いない!」
アニキの頼もしい言葉に勇気付けられた俺は、クルーたちへの聞き込みを開始した。
「聞いたことねえなァ……、ところであのおっぱいの大きな姉ちゃんは一緒じゃないのか?」
「わからん! そんなことより予定の航路からかなりズレちまったからな……、航路の修正が大変なんだよ」
「アニキとは何もねェよ! 俺はノンケだって言ってんだろ!」
収穫はゼロだった。
何だかんだ言っていたご主人、それにダリアさんやアビー、アニキも手伝ってくれたのだが、何の情報も聞き出せなかった。
そもそも今俺たちがいる海域は、あまり探索が進んでいないらしい。
そのため、この海域に棲んでいるスキュラさんのことを詳しく知る者がいなかったのだ。
「申し訳ありません、神のお役に立てないなんて……」
「いや、アビーは悪くないです。
俺のわがままにつき合わせてしまってすみません」
「港に着けば他の船の乗組員にも話を聞けるでしょうし、まだ諦めることはないんじゃない?」
だが旅の本来の目的はご主人の呪いを解くことだ。
あまり俺のために時間を割くというのも……。
「でも――」
「良い。急ぐ旅でもない、それくらいの寄り道は問題ない」
ご主人には敵わないな。
俺の考えなどお見通しのようだ。
「それにソーマが自発的に動いたのはこれが初めてじゃからな。
わしはその成長を嬉しく思うよ」
ご主人が俺の頭に手を乗せる。
「ふふーん、これは恋ねっ! 恋は人を成長させるわ」
「ダリアさん、俺は人じゃないですよ……」
「こまけえことはいいのよ!」
「うむ、恋の一つや二つ、経験しておかねば男としての成長は見込めんからな」
「アニキさんのような方でも、恋の経験があるんですね」
「オレの恋愛話が聞きたいのか?
よし、今晩たっぷりと聞かせてやろう、このオレの熱い話を」
「勘弁しとくれ……、聞いてはいけないものまで聞かされそうじゃ……」
きっと、みんなは俺を元気付けようとしているのだろう。
だから明るく振舞っている。
みんなの優しさはわかるのだが、俺の心は晴れない。
「そういえば、アタシが釣ったお魚を捌いてもらってるのよ」
「ほほう、それは良いのぅ」
「お刺身ですね!」
「さ、さしみじゃと……? ナマで食べるのか……?
な、なんと恐ろしいことを言うのじゃ……」
「リュドミラさんはお刺身を食べたことがないんですか?」
「あるわけないじゃろ! そんなモノ!」
「ふーん、これは面白いことになりそうね」
「イヤじゃあ……、さしみなど食いとうない……」
嫌がるご主人をダリアさんとアビーが拘束し、ずるずると引きずっていく。
「ソーマくん? 食堂に行きましょ」
「はい」
ダリアさんに呼ばれ、歩き出す。
俺の心を重くしているのは、スキュラさんの事情がわからないということだけじゃない。
いくら考えても答えの出ないこの思考の沈殿を、俺はどう処理して良いのかわからなかった――。