第403話:模擬戦当日の朝
模擬戦当日の朝、いつものように少し遅れて起床したレナが居間に行くと、すでに食卓の上には朝食の用意がされていた。
「おはよ~」
朝から元気に挨拶するニーナ、それに対してレナは小さな声で「……おはよう」と返す。連日のユウとの稽古により隠しきれない疲労が顔に色濃く現れていた。
「大丈夫なの?」
「……私は最強」
前日くらい休養を取ればいいものを、レナは昨日もユウに頼み込んでギリギリまで稽古に励んでいたのだ。
基本的に強者同士の戦いとは、最初は削り合いから始まる。いかに相手の余力を――――『闘技』や『結界』といった防御機構を削り、終盤では強力な攻撃でダメージを与えるかを考えて戦闘を組み立てるのだ。
ユウクラスの戦いになると、受けた怪我を魔法やポーションで治しても、身体の深部に相手の魔力が残る。これは“魔力残滓”とも呼ばれる症状で、敵意や悪意のある他者の魔力は異物として身体が拒絶反応を起こすのだ。より多くの魔力残滓があれば、それは心身を蝕むほどの症状を引き起こすこともある。
ユウは当然、魔力残滓が残らぬように稽古をつけていたのだが、予想に反してレナが粘り強かったために、わずかだがレナの身体に魔力残滓の症状が出てしまっていた。
「……ユウとマリファは?」
朝食の時間なのに居間にいないなんて困ったユウと妹だと、遅れてきた自分のことを棚上げにして、レナは小さなため息をつく。
いつもなら喧しいくらいの居間は静かであった。
「ユウは冒険者ギルドに向かったよ」
「……もう?」
いくらなんでも早入りするにしても、早すぎないかとレナは首を傾げる。
「なんかね。ギルド長に呼ばれてるんだって、ほら? 変な噂も流れてるし、よそから来ている貴族とかの件もあるでしょ」
「……くだらない。そんなことしなくても勝つのは私」
「その調子だよ」
巷で流れている噂はレナも耳にしている。
ユウがそのような真似をするわけがないと、そもそもフーゴより自分は強いとレナは鼻息荒く席につく。
「それでマリちゃんとかナマリちゃんもついてったんだ。アガフォンくんたちは早入りして、レナを応援するための席を確保するんだって」
「……良い心掛け」
居残り組のポコリやアリアネなどは、いつもと変わらぬ様子で動き回っているのだが、メラニーなどは露骨に羨ましそうな顔でニーナの話に耳を傾けていた。
「はい。カツサンドだよ」
「……かつさんど?」
食卓に並ぶ食べ物を前に、レナは問いかけるような表情でニーナの顔を見る。
「豚肉を揚げて、パンに挟んだものだよ。これを食べて、試合に勝つんだよって、ユウが発破をかけてるんだね!」
「……そう」
むんっ、と両腕を掲げて力こぶを作るニーナに、レナは当然とばかりに頷いてカツサンドに食らいつくのだった。
※
「き、金貨一枚っ!?」
「そりゃねえよ!!」
「立ち見なのに高すぎだろっ?」
「バルバラ、なんとかなんねえのかよ」
模擬戦の開始まで、まだ3時間も前だというのに、冒険者ギルドの前にある大通りは人でごった返しになっていた。
事前に入場券を手に入れることができた者たちはいい。問題は欲しくても入場券を手に入れることができなかった者たちである。
冒険者ギルドの近くの路地でバルバラを取り囲む冒険者たちも、入場券を購入することができなかったのだ。
「あのねー。金貨一枚に文句を言ってるけどさ、これって正規の値段なんだからねっ!」
冒険者ギルドの受付嬢である兎人のバルバラは心外とばかりに、逆に冒険者たちを怒鳴りつける。
「そうだぞ。お前ら、ゴチャゴチャ言ってんじゃねえぞ」
ここにいるのは、普段からバルバラを贔屓にしている冒険者たちである。その中でも一番強い男が、興奮気味の冒険者たちを落ち着かせるように睨みつける。
「うっ。でもよ、いくらなんでも金貨一枚はないだろ?」
「不満があるなら、その辺でうろついてるダフ屋から買えばいいだろ。すでに金貨二枚どころか最低でも金貨三枚はするって話だぞ」
ダフ屋が高額で入場券を転売していることを知っているのだろう。冒険者たちの威勢は見る間に小さくなっていく。
「この入場券だって買い取りなのよ? 冒険者ギルドが――――ううん。エッダさんが、高騰するのが予想されるからって、ギルド職員にちょっとしたお小遣いになるからって、売ってくれた物なんだからね。それを小遣い稼ぎじゃなく、私を専属に選んでくれてるあなたたちに正規の値段で売ってあげようっていう私の優しさがわからないんだー」
「ち、違うんだよ。な、なあ?」
「あ? ああ、そう! 俺ら、バルバラには日頃から感謝してるって!」
「お、おう! そのとおり! 値段に関して文句を言う奴なんて、ここにはいねえよ」
「なら、入場券が欲しい奴はさっさと金を出すんだな」
立ち見で金貨一枚という法外な値段の入場券を、冒険者たちは奪うようにバルバラから購入する。
「毎度あり~。ああ、そうそう。偽物の入場券を売ってる連中もいるみたいだから、お友達に騙されないように伝えといてね」
無事に買い取りしていた入場券が捌けたバルバラは、ニコニコ顔で冒険者ギルドに向かおうとする。
「コレットちゃんも入場券を売ってるのかな? もしそうなら、俺のダチがまだ買えてねえから教えてやらねえと」
「あの娘って凄え金持ちなんだろ? 入場券もたんまり持ってんじゃねえの」
バルバラの長耳がそんな会話を拾う。
「言っとくけど、コレットは入場券を買い取りしてないわよ」
「ええ、なんで?」
「買えば買うだけ儲かるのにな」
間違いなく儲けが出るとわかっていて、さらにそれに投資するだけの金があるとすれば、誰でも飛びつくだろう。だから、コレットは入場券を買い取っていないと言うバルバラの言葉に、冒険者たちは信じられないといった顔で驚く。
「人のことはいいから、さっさと修練場に向かったほうがいいわよ」
「そりゃまたなんで?」
「近隣の貴族だけじゃなく、他国からも貴族やら商人が集まって来てるの。そのせいで衛兵もピリピリしてるから、つまんないことに巻き込まれて模擬戦を見ることができなくなっても知らないわよ」
数日前からカマー全体がピリついていることには気づいてた冒険者たちは、バルバラの言葉を聞くなり素直に冒険者ギルドに向かうのであった。
※
「こんなにも早く入る必要があったのか?」
「御身のためと、ご了承ください」
修練場に貴族や富裕層用に特別に設置された一角で、貴族の一人が護衛に愚痴るように呟く。
「ふむ。その方の杞憂ではないかと言いたいところだが、周りの面子を見ればそうも言ってはおれんか」
恰幅の良い六十代ほどの貴族の男は、自分と同格かそれ以上の貴族たちを一瞥して頷く。周囲には当然だが、騎士か冒険者なのか、または傭兵なのかはわからないが凄腕の護衛たちが周囲を警戒していた。
「どれも当家に匹敵する家柄かと」
「ふふっ。それほど警戒する必要はないかと」
声をかけてきたのは、顔見知りの貴族の男であった。
「周囲にはムッス侯爵の手の者から、ギルドに雇われたであろう冒険者もちらほらと」
手にした扇で、男は修練場の何箇所かを指す。
「カマーでの狼藉は許さないでしょう。もし、そのようなことが起きれば、侯爵家の名に泥を塗ることになりますから。ムッス侯爵も警備には手を抜かないでしょう」
扇を開くと、顔を扇ぎながら男はのほほんと語る。
「しかしムッス侯爵といえば、一時はバリュー派閥に好き勝手されていたではないか」
バリュー財務大臣からの派閥勧誘に首を縦に振らなかったムッスに対して、バリューは見せしめのように嫌がらせをしたのはウードン王国の貴族であれば誰もが知ることであった。また、そのようなムッスに関わることでとばっちりを食うことを恐れて、ムッスと交流を絶つ者たちも多かったのだ。
「当時のバリュー財務大臣の勢いは凄まじかったではないですか。そのバリュー一派から圧力をかけられても屈せずに、耐え抜いたところを評価するべきですな。事実、私もあなたもバリュー財務大臣を恐れて様子見していたではないですか。だからこそ、この機会にムッス侯爵と縁を繋ぎたいと、多額の金銭を使ってまでカマーに訪れている」
貴族の移動はなにかと金がかかる。
その辺の冒険者のように思いつきで行動するわけにはいかないのだ。
事前に公務の調整から移動に必要な物資の用意に、身の回りを世話する従者、護衛、馬に馬車から立ち寄る町の宿泊施設を押さえておかねばならない。移動に関するルートも他者に悟られぬように護衛と相談する必要がある。
「卿の言うとおりだ」
どれもが納得のいく言葉であった。
今やウードン王国のどの貴族もゴッファ家と――――否、ウードン王国だけではない。周辺国家の貴族家はムッスと縁を――――可能であれば娘か親族の女性を送り込みたいと考えている。
それほどゴッファ領の発展は目まぐるしいものがあるのだ。
カマーを中心にゴッファ領の経済を発展させている中心人物であるムッスと婚姻を結ぶことができれば、自領への恩恵は計り知れない。
それに、なにより貴族や商人たちの関心があるのは――――ユウである。ネームレス王国という聞いたこともない小国が、いまや五大国の一つであるウードン王国と対等の同盟関係を築いている。しかも、ユウと取り引きがある商人たちの稼ぎときたら、諜報からの報告書に記されている金額はおおよそであると理解していても、俄には信じられないと誰もが唸るほどの金額であったのだ。
誰もがムッス侯爵と縁を結び、そこからユウに繋がろうと考えていた。
ムッス侯爵の親族や一門衆は先代ワイアットの乱の件もあり、驚くほど少ないのだ。動いているのはなにも貴族だけではない。商人たちは用意した見目麗しい女性たちを、可能であればムッスの妾に、できれば親族や重臣の妻にしたいと目論んでいた。
「あちらを」
扇が指す方向へ視線を向ければ、なにやら胡散臭い連中が叫んで冒険者ギルドの職員に叱られていた。
冒険者に傭兵、さらには商人らしき姿の一団は、額にレナちゃんファン倶楽部と刺繍されたハチマキを巻く異様な集団である。
「そちらではありませんよ。その上です」
なんだ違うのかと視線を上に向ければ、冒険者ギルドの職員とは違う集団が忙しく動き回っている姿が目についた。特に燕尾服に身を包む老人は、集団の中で一番立場が上のようで、指示を出しては細かに確認をしているではないか。
「あの老人は?」
「殺し屋ですよ」
「卿、なにを言っておる?」
「殺し屋が今では侯爵家の執事――――いえ、家令なのですから、世の中わからないものです」
「ほう……。あれがムッス侯爵家の戦闘執事か。凄腕の暗殺者とも聞くが、とてもそうは見えんな」
「見た目に騙されないほうがよいかと、バリュー財務大臣が送り込んだ暗殺者の多くは、あの者の手によって返り討ちに遭ったと聞きます」
「あの者がいるということは、ムッス侯爵が来るのは間違いないようだな」
「私もあなたも無駄足にならなくて、一安心と言ったところでしょうか。それに例の御方も来るでしょう」
「ネームレス王か……」
何気なく呟いた主の言葉に、護衛の騎士たちに緊張が走る。
「自分のクランに所属する者がメインで戦うのですから、姿を見せないわけにはいかないでしょう」
「それも目的の一つではあるが、今は試合を楽しみたいものだ」
「武勇に優れた者たちが参加するそうです」
「ムッス侯爵を目の敵にしているかの伯爵家からも参戦するそうだ」
「あそこで武に秀でた者など――――まさかっ」
「そのまさかよ。わざわざ騎士に冒険者登録させたそうだ」
「そこまでして、なにがしたいのやら」
「通常の模擬戦の他に、特別試合が組まれておるそうな」
「私もその話は聞きましたが……なんでもムッス侯爵の『食客』が参戦すると」
「それよ! 侯爵の誇る『食客』を衆人環視の前で打ちのめしたいのであろう」
「馬鹿馬鹿しい。バリュー財務大臣亡きいま、そのような真似をしてもムッス侯爵を怒らせるだけではないですか」
若くして当主となったムッスを目の敵にしている伯爵の姿を脳裏に思い浮かべて、貴族の男は馬鹿にするように言葉をはいた。
「貴族としての責務を忘れた哀れな男よ。自領の、領民のことを考えて動くべきことをわかっていない――――否、わかっていながら感情をコントロールできずに暗躍する」
「私たちには理解できませんね」
「卿に言うまでもないことだが、間違っても関わらぬことだ」
「忠告、肝に銘じておきましょう」
真面目な顔で頷く顔見知りに、貴族の老人も同じように二度ほど頷いた。
「それにしても、この修練場の広さときたら。一冒険者ギルドが所有しているのが信じられんな」
「それだけ利益を上げているのでしょう。つい最近に修繕と改修をして規模を拡大したとも聞きます」
「問題はこれだけの規模で、貴人を護ることができるのかだな。此度の模擬戦は後衛も多数参加すると聞いておる。試合中に魔法が飛んでくるなど御免被りたいものだ」
冗談なのだろう。
たとえそのようなことが起ころうとも、警備に抜かりがあろうとも、自身の連れてきた護衛が護りきると全幅の信頼を置いているのだ。
「そちらも問題はないでしょう」
「ほう。それほどムッス侯爵の――――」
「いえ――――冒険者ギルドです」
それは意外な言葉だったのだろう。
興味深そうに顔見知りの貴族のもとへ、顔を寄せる。
「私も詳しくは知りませんが、試合中は冒険者ギルドの職員が結界を担当するそうです」
「それほどカマーの職員たちは優秀だと?」
「たちではありません。なんでも一人が最初から最後まで担当するとか申しているそうです」
「さすがに卿の言葉とはいえ、信じられぬな」
こういった大きな会場の結界は、複数の術者で担当するのが常識である。それとて、途中で交代をして術者を休ませてこなすのだ。それを最初から最後まで一人でなどと、貴族の老人が訝しげな顔になるのも無理はないだろう。
「ふふふ。それもあと数時間でわかりましょう」
「なるほどな。では、それも楽しみの一つとさせてもらおうか」
続々と観客が入ってくる様子を見下ろしながら、貴族の老人たちは笑みを浮かべるのであった。




