第378話:耳
「ほいっ」
軽いかけ声とともに風の精霊魔法で宙に浮いていたアーゼロッテは、フリルのついたスカートを手で押さえながら地面にふわりと着地する。
ピンク色のなんとも可愛らしい日傘をクルクルと回転させ、ニーナに向かって微笑む。
「すっごーく捜したんだよ」
ツインテールの毛先を指で弄りながら、アーゼロッテは不満そうに唇を尖らせる。
常人でも視認できるほど非常に強い魔力を身に纏うアーゼロッテの姿は一見したところ可憐な少女に見えるだけに、それが返って恐怖をもたらす――――のだが。
「今日は気分が悪いの」
ニーナはアーゼロッテを一瞥しただけで、それ以上は目を合わすどころか顔を見ることもなかった。
それどころか。早く失せろと言わんばかりに、不愉快なのを隠さず言葉をはく。
「えー。気分が悪いんだー。でも、そんなの私には関係ないよね?」
唇に人差し指を当てながら、アーゼロッテは首を傾げる。
明らかにニーナを怖がって――――いや、眼中にない舐めた振る舞いであった。
「あのね? 私――――」
「今日は気分が悪いの」
再び、ニーナは同じ言葉を口にする。
「それはさっきも聞いたよー。もしかして、あなたってバカなのかな? それなら――――」
「だから、見逃して上げる――――」
そこでアーゼロッテの言葉が途切れる。
表情は微笑んだままである。だが、身に纏う空気が明らかに変わったのだ。
「――――良かったね」
アーゼロッテのことを心の底から馬鹿にした眼で、ニーナは言葉を紡ぐ。
「私、あの子が嫌いなんだー」
唐突にアーゼロッテは話題を変える。
「だからー殺そうと思って、ここに来たんだよね」
日傘で顔が隠れているために、アーゼロッテが今どのような表情をしているのかは、ニーナからは見えない。
「上は殺すなって言ってるんだけど、やっぱり気持ち悪いもん。あっ、上って言われても、あなたはなにもわからないよね」
無視していたニーナの動きが止まる。
「だってあの子、獣人や魔落族やら堕苦族を拾い集めて、亜人の国を創ったんでしょ?」
そこで「ぷっ」とアーゼロッテは吹き出す。
「バカみたい」
手で口元を隠して「うふふっ」と、アーゼロッテは笑う。
「あなたもそう思うでしょ? どれだけ亜人のためだよって言い繕っても、それを言ってるのがよりによって人族っていうだけで台無しだよね」
「あーおかしい」と、アーゼロッテは日傘とともに、その場でクルクルと回る。
「なにが言いたいの」
ニーナが感情を押し殺しながら喋っていることに、アーゼロッテは気づく。そのことにアーゼロッテは笑みを深くする。
「蝙蝠って知ってる?」
返答はなかった。だが、その場から動かないので、逃げる気は――――少なくとも話は聞く気はあるのだと、アーゼロッテは話を続ける。
「ほら? 鳥と獣の寓話は知ってるかなー。
日頃から仲の悪い鳥と獣が争っていて、ずる賢い蝙蝠は鳥が優勢だと、僕は翼があるから鳥の仲間ですよーって、獣が優勢になると僕は全身に毛があるので獣の仲間ですよーってやつ。最後にはどっちからも信用されずに、悲しい最期になるんだよね。
でね? 人族のくせに亜人なんて蔑称で呼んでる種族を助けて、なにを考えてるんだろうね。どうせ人族にもすり寄ってるんでしょ?」
軽やかなステップでアーゼロッテは、ニーナを中心に周り始める。
「薄汚い蝙蝠、あの子に――――ユウ・サトウにそっくり」
意地悪な笑みを浮かべ、アーゼロッテはニーナに囁くように言葉を紡ぐ。
「あーそうそう。周りからは、厳重な警備だからって言われてたんだけど、大したことなかったよ」
ニーナの顔から、内面とは反して感情が抜け落ちていく。
「屋敷のことだよ」
アーゼロッテの実力ならば、ユウが屋敷に配してある罠やアンデッドの魔物など物の数ではないだろうと、なにをくだらないことを、とニーナが心の中で呟いたとき――――
「ふ、ふふっ。うふふっ」
我慢しきれないように、両の手で口を押さえながらアーゼロッテが笑う。
とても嫌な笑いであった。
人を馬鹿にするような、貶めるような。
そんな不快な笑いであった。
「最初はね? 噂なんてこんなものなのかなーって思ったんだ。でも、ふふっ。あの子、死にかけなんでしょ?」
パンッ、とアーゼロッテが軽く手を合わせる。
「聞いたんだよね。あの子って、もうすぐ死ぬんだよ? たださえ人族って寿命が短いのに、なにをしたのか知らないけどね。バカなことして、苦しんでるんだってー」
パチパチと手を叩いて、アーゼロッテは笑う。
「知らなかった? 死にかけだから、屋敷の警備に回す魔力に余裕がないんだよ。罠も、ゴーレムも、アンデッドの魔物も、ぜーんぜん大したことなかったんだから。
そっかー。知らなかったんじゃ、仕方がないよねー。あなたってゴブリンの糞みたいに、おんぶに抱っこで成長――――ううん。寄生してるんでしょ? それじゃ知らないのも無理はないのかな」
にっこりと底意地の悪い笑みを浮かべて、アーゼロッテは「仕方がない。仕方がない」「あなたはなにも悪くないよ。ただ寄生してただけだものね」と、ニーナに囁く。
「よーし。そろそろ――――」
完全に沈黙したニーナの姿に気が晴れたのか。
もう用はないと、ニーナを殺そうかとアーゼロッテが思ったとき――――
「あるところにエルフのお姫様がいました」
魔法を発動しようとしたアーゼロッテの手が止まる。
「エルフのお姫様は、それはそれは大事に育てられていました。親から、兄妹から、家臣から、エルフの民から、とてもとても愛されながら育っていきます」
アーゼロッテの指先が微かに震えていた。
「あるとき、お姫様は森の、それも結界の外に遊びに出かけます。皆が愛してくれるのは喜ばしいことなのですが、重い愛はお姫様にも負担となっていたのです。たまに結界の外へ出て遊ぶことでストレスを解消するのが、お姫様の密かな楽しみでした。もちろん、従者には内緒にしており、出かけるときは嘘をついて一人なのもお決まりです」
「………………て」
「お姫様にとってはちょっとした冒険でしたが、実は周りの者もそのことは知っていました。暗黙の了解というやつです。
皆から愛され、聞き分けの良いお姫様にも息抜きが必要だと、知らぬふりをしてくれていたのでした。
ある日、いつものように外出していたお姫様は、森の中で怪我をしている人族の青年を見つけます。青年の怪我は命に別状はないものの、このまま放っておくわけにはいかず、お姫様は回復魔法で治してあげました」
「…………めてっ」
「人族の青年は大喜びでお姫様に感謝の言葉を伝えます。
お姫様は言います。自分はやんごとなき者で、人族との接触は厳しく禁じられています。禁を破った上に、人族であるあなたを助けたことを知られるわけにはいきません、と。
青年は逃げるように去っていくお姫様に向かって叫びます。また会いたい、一目見てあなたに恋をしてしまったのです、と。明日ここでまた会いましょう。あなたが来るまでいつまでも待ち続けます、と」
ニーナの顔が醜悪に歪んでいく。反対に今度はアーゼロッテの顔から色が抜け落ちていった。
「世間知らずのお姫様はよせばいいのに、また同じ場所へと足を運び青年に会うのです。
それからはあっという間に、二人は恋仲へと発展していくのでした。
実はお姫様も情熱的な青年に恋をしていたのです。皆が姫と気遣い、遠慮がちに接するなか、青年のように積極的に好意を寄せてくる者、それも男性など初めてでした。
森の中に生きるエルフの生涯に疑問を抱いていたお姫様は、青年の語る様々な人族の国の話に胸が踊ります」
「……やめてっ」
アーゼロッテは無意識に拳を握りしめていた。
「馬鹿なお姫様は、青年の目的がエルフだと気づくことができません。そしてあろうことか。森に張られた結界の抜け方を青年へ教えてしまったのです。
さあ、ここからが大変。結界の抜け方を知った青年は、仲間とともにエルフの国へと攻め込みます。なんと恐ろしいことに青年の正体は奴隷狩りだったのです。
多くのエルフが狩られ、また多くのエルフが命を落とします。男性も女性も、老人も、子供も、奴隷狩りに捕まり次々と商品として運ばれていきます。
青年が檻の中のエルフたちに向かって、笑いながら話しかけます。親切なエルフが結界の抜け方を教えてくれたのさ、と。
皆が涙を流しながら口々に叫びます。誰が裏切ったのだ、と。そんな絶望の中、一人だけ逃げ延びたエルフがいました」
「あ、あぁ…………」
アーゼロッテの足が、全身が震えていた。
「そう! お姫様だけは、なんと逃げおおせたのです。王や后、兄妹を、家臣を、民を見捨てて、自分だけ国から逃げることに成功しましたとさ。めでたしめでたし」
アーゼロッテに背を向け、歩きながら語っていたニーナが振り返る。その笑みは、先ほどのアーゼロッテに負けず劣らず醜悪で、陰険な笑みであった。
「ねえ、どう思う?」
「黙れ」
「さっき蝙蝠がどうこう言ってるエルフがいたんだけど」
「黙れっ」
「よくもまあユウのことを蝙蝠なんて言えるよね。面の皮が厚いにもほどが――――」
風がニーナの左頬を撫でるように通り過ぎると、髪が宙に舞い上がった。そしてポトリと落ちる。
「聞こえなかったのかな? 私は黙れって言ったんだよ」
いつの間にか、アーゼロッテの手には杖が握られていた。
「落ちてるよ」
左手の人差し指で、アーゼロッテはそれを指差す。
「ほら、あなたの耳が落ちてるよ」
地面にニーナの左耳が転がっていた。
認識することで時が動き出したかのように、ニーナの左耳のあった箇所から血が流れ落ち始める。
「あははっ。だからかー。耳が落ちてたから、私の声が聞こえなかったんだよね?」
「気をつけないとダメだよー」と、アーゼロッテは、はしゃぐ。
「わざわざありがとう。でも、私のじゃないみたい」
ニーナの右手に黒竜・爪が握られていた。その切っ先には耳が――――人族のものではない長耳が突き刺さっているではないか。
ニーナに遅れるように、アーゼロッテの左耳があった箇所からも血が流れ落ち始める。
二人共、出血によって左半身が真っ赤に染まっていく。
「へえ……少しはやるんだぁ」
自身の傷口に触れたアーゼロッテは、血塗れになった手を見ながら呟く。
常に張り巡らしているアーゼロッテの『天雷結界』に、いつの間にか拳大の穴が空いており、バチバチと小さな雷鳴を立てているではないか。
「そう? あなたは大したことないみたいだけど」
ニーナが黒竜・爪をクルクルと回転させると、切っ先に突き刺さったアーゼロッテの左耳も回転する。遊ぶように回していた長耳を、ニーナは飽きたのか、まるでゴミでも捨てるように遠くへ投げ捨てた。
「あなた、楽には死ねないよ」
「蝙蝠が随分と大きな口を叩くんだね」
共に左耳が欠損した状態で、ニーナとアーゼロッテは微笑みを浮かべながら向かい合うのであった。




