第376話:最弱の力
「最弱の力?」
不満そうにドリムが問い返す。
「そう! 自然界で働く四つの力で一番弱いのが重力なの」
黒髪の少女が、自信満々の顔でドリムに向かって言ってのける。
「ぬうっ。妾の力を最弱と申すか!」
「でもね。何物も重力を妨げることはできないの。その影響力は無限遠まで作用する。それが最弱にして最強の力“重力”。まさに獣人の王であるドーちゃんにピッタリの能力だよ~」
「よっ!」「やったね!」「最強だよ~」と黒髪の少女に煽てられると、ドリムは満更でもなさそうに顔を綻ばせた。
※
(妾に気づかれず忍び込み、さらにそのまま部屋にいよるとは)
ドリムは嗅覚や索敵系のスキルの他に、常に微弱の重力を全方位へ放ち、警戒を怠っていないのだ。
それなのに、ニーナはドリムに気づかれることなく、部屋に居座り続けていたことにドリムは警戒度を一段階あげる。
(この者は、おそらく妾たちと同時に部屋へ入ってきたはずじゃ)
自分で言っておいて、ドリムはそんな離れ業ができる者が存在するのだろうかと自問自答する。
「ユウの……なにを見たの?」
これまで味わったことのない気味の悪い圧力が、ドリムの全身を覆っていく。
(ふむ。妾が存在に気づけたのも、ユウの記憶を読んだ際にどういうわけか此奴の隠形が乱れたため……。どうやら此奴はユウに執着しておるようじゃ)
両者がじわりじわりと間合いを詰めていく。
(それにしても、なんとも気持ちの悪い圧力をかけてきよるわ)
千三百年という長き時の間で、ドリムは様々な強者と戦いを繰り広げてきた。
龍や古の巨人、高位の天魔など数え上げればきりがない。その者たちと比べてもニーナの放つ圧力はなんとも異様で、薄気味の悪いものであった。
単独で自分に挑んでくる者など久しく見ていなかったドリムは、自然と口の端が上がっていく。
(妾を前に気負いも緊張もなしとは、随分と舐められたものよ)
目の前のニーナからは一切の感情の乱れが感じられない。異様な圧力を放ちながら、一方で顔は無表情なのである。
「まあ――――」
すっと、ドリムがニーナに向かって右腕を伸ばす。
「――――妾の敵ではないがの」
それが合図のように、ニーナの全身に巨大な岩でも伸し掛かったかのような重みを感じる。
ドリムの重力魔法である。
一般人であれば5~6Gほどの重力で、全身の血が駆け巡らなくなる。やがて脳に血液が届かなくなった結果、意識を失うのだ。
訓練を受けた者で、さらに耐Gの装備で耐えられるのは10Gほどと言われている。
このとき、ニーナにかかる負荷は1000Gを優に超えていた。それも一瞬ではなく現在進行で負荷を受けているのだ。
とても常人が――――いや、生物が耐えられる負荷ではない。
だが――――
「なんとっ」
ドリムの口から驚愕の声が出る。
先ほどまでと変わらぬように、ニーナが距離を詰めてきているのだ。 1000Gとは、ニーナの体重が仮に50キロとすれば、5万キロもの高重量で押さえつけられているのと同義である。ドリムが驚きを隠せず動揺するのも無理はないだろう。
(面妖な……)
ニーナの足元を見て、ドリムは心の中で呟く。
ドリムが重力魔法を放ったのは――――対象はニーナのみ。本来であれば、ニーナは全身の骨を砕きながら床に、絨毯を巻き込みながら潰れて挽き肉と化しているはずなのだ。
仮にニーナが高重量に耐えられたとしても、絨毯にニーナの足が沈み込んでいなければおかしい。なのに、ドリムがニーナの足元を見ても、重力魔法を放つ前と変わらぬ状況なのだ。
(妾の重力魔法を防ぐことなど、何物にもできぬ。つまり――――)
歴戦の兵であるドリムは、自身の重力魔法が効かなかったにもかかわらず、冷静に現状を分析していた。
「貴様、重力を無効化しておるな」
重力魔法を放った瞬間、確かにニーナの身体は負荷で崩れそうになったのだ。だが、ニーナは一瞬にして崩れかけた体勢を立て直していた。
一瞬とはいえ、重力魔法の効果があったことから、ドリムはニーナが重力魔法をなんらかの方法で無効化したと判断する。
「闖入しておいて、妾の問いかけを無視しよるか」
ゆっくりと、ドリムの間合いを侵食するかのように、ニーナは距離を詰めていく。
「なにを見たのかと聞いている」
「問いかけておるのは妾のほうだというのに、なんとも我が儘な者よ」
もし、この場にユウたちが居れば、ニーナの口調の変化に驚いていただろう。
「よかろう」
獣人の王に相応しい振る舞いでドリムは鷹揚に頷くと、じわりじわりとした間合いの詰め方から一転して、滑らかな動きで一気にニーナまでの距離を潰す。
「ほれ」
ニーナの頭部にドリムの手が触れた瞬間――――
「ぎゃ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ!?」
ドリムの手から逃れるように後ろへ飛び退きながら、あまりの頭と眼球に走る激痛に、ニーナは絶叫する。
どれほどの痛みかといえば、その痛みから逃れるために、思わず自身の眼球を抉り取ろうとするほどであった。
ニーナの両の眼からは血が流れ落ち、絨毯に赤い染みをいくつも作り出す。
「な、なにを……した」
自分で言っておいて、ニーナは愚かな問いかけだと思う。敵の攻撃に説明を求めるなど。
「知りたかったのであろう? あの者のことを」
「ユウの……こと? これ……が?」
いまだ残る頭と眼の痛みに、ニーナの全身は汗塗れである。
痛みがあまりにも激しいと、人は気絶することもできないことがあると言われるが、まさに今のニーナがそれである。痛みで気を失い逃げることすらできないのだ。
「これでも今日はマシなほうじゃ。このような痛みが絶えず続くとは、なんとも不憫なことよ。これでは満足に寝ることもできまい」
ドリムの言葉を聞きながら、ニーナはその意味を理解――――いや、認めることができなかった。
「ユウには『並列思考』がある」
固有スキルに『並列思考』があるから、たとえ絶えず痛みがあろうとも思考を休めることが、寝ることは可能だとニーナは言いたいのだろう。
「ふん」
ニーナの言葉を馬鹿にするように、ドリムは鼻を鳴らす。
「それではなにか? 昔サクラが言っていたイルカとかいう哺乳類が、脳を交互に休ませる半球睡眠のように、一方の思考が働いている間はもう片方の思考は休む、あるいは寝ているとでも申すのか?」
心の底から馬鹿にするような視線で、ドリムは蹲るニーナを見下ろす。
「このたわけめ。
仮に貴様の言うように『並列思考』とやらで、それが可能であったとしても、このような痛みが続く中、寝られるわけがあるまい」
ごく当たり前の指摘を受け、ニーナは露骨に動揺する。
「そんな……それじゃ…………ユウは」
「長くはあるまい。本人もよく自覚しておるわ」
今なら隙だらけのニーナを仕留めるのは容易い。にもかかわらず、どういうわけかドリムはニーナを殺す気が湧かないのだ。
「貴様、どこの手の者じゃ? いや、その顔を妾によく見せて――――」
なにが気になるのか。
ドリムは蹲るニーナへ近づこうとする。
「他の記憶は?」
信じられないことに、ニーナは先ほどまでの醜態が嘘かのように、平然と立ち上がっていた。
「その能力――――どこで手に入れた? 生来のモノではあるまい」
「記憶を見せて」
ドリムの問いかけを無視し、ニーナはユウの記憶を求める。
あまりのニーナの不気味さに、ドリムの腕から背中にかけて毛が逆立っていく。
「早く――――記憶を」
ゆらりと全身を大きく揺らしながら、ニーナがドリムへ迫ろうとしたそのとき――――部屋の扉が開く。
「は、覇王様っ」
「静かにせぬか」
慌てた様子で部屋へ駆け込んできたのは、ドリムの配下であった。
「実は――――」
配下からの報告を聞くなり、ドリムの眼が見開く。
「貴様の正体も気になるが、所用ができたわ」
※
彼らは元々、山や森――――あるいは洞穴などを根城に、近隣一帯を支配する主であった。
そんな支配者層であった彼らは、見下していた人族との種族争いに負けた敗北者でもある。
脆弱と侮っていた人族は、年月を重ねるごとに凄まじい速度で成長し、まるで群れ全体が一つの生き物のように規則正しく動き、支配者であった主やその眷属たちを次々と駆逐していく。
それが当然であるかのように支配者層であった種族が駆逐された山や森は、人族の手によって管理されていくこととなる。
どれほど個の力が優れていようと、人の持つ軍事力――――それに残虐性や自分たちに都合の良くなるように改善する能力には敵わなかったのだ。
「いつまで我慢するつもりだ? それとも臆したかっ!!」
青い肌のオーガが、巨大な拳を振るう。
これで何度目であろうか。血飛沫とともに、クロの一部であった肉片が飛び散る。
「情けねえっ」
それはクロへの侮辱であったのか。それとも惨めにも人族から逃げ落ちることとなった自分自身へにだろうか。
ドリムの配下は多くが支配者層の主であった。
種族戦争に負けたあと彼らに待っていたのは、過酷な逃亡の日々であったのだ。
彼らの常識では考えられないことに、人族は違う群れとも連携を取り、彼らとその眷属を執拗に追い詰めていく。
族滅――――人族の目的は決まっていたのだ。支配者層を一匹たりとも生かしておくわけにはいかない。雌であろうが、生まれたての赤児であろうが、容赦をしなかった。
「おら! これでもかっ! 死ね!! 死ねっ!!」
命からがら逃げ出せたのは、一番強い個体――――つまり主と呼ばれていた者たちであった。
眷属を人族によって皆殺しにされた彼らの怒りは、強者として君臨していた彼らの打ち砕かれた誇りは、いかほどのものだろうか。
たとえ、敗北者である自分たちを拾ってくれた大恩あるドリムの命とはいえ、よりにもよって人族を客人としてもてなすなど、それが彼らにとってどれほど屈辱的な命であっただろう。
「薄汚い人族に従いやがって!! 恥ずかしくねえのかっ!!」
人族に手を出せずとも、その人族に付き従う従魔を痛めつけるくらい許されるだろう――――否、許されるべきである。自分たちにはその権利がある、と。
なんとも浅はかで稚拙な行動であるが、彼らの心情を知る者ならば、やむを得ないと同意しただろうか。
「このままくたばっちま――――っ!?」
約三メートルを誇るオーガの巨体が、動きが止まる。その大きな身体の動きを阻害するように木の根が覆っていた。
「……しつこい」
見かねたレナが精霊魔法第2位階『バインド』によって、オーガの動きを止めたのだ。
「客人……戯れの邪魔はせぬようお願いします」
執事服のコボルトが指を鳴らすと、オーガを拘束していた木の根が弾け飛ぶ。
「助けてもらえると思ったか?」
オーガが醜悪な笑みを浮かべ、クロの頭部を鷲掴みする。トドメを刺す気なのだ。
しかし、それを許さない者たちがいた。我慢の限界なのはレナだけではなかったのだ。
マリファが、コロやランが、ナマリやモモが――――そしてラスがレナに続いて参戦しようとしたそのとき――――
「あっ、来た!」
ナマリが突然ソファーから立ち上がり叫ぶ。
「ナマリ、誰が来たのですか?」
訝しげに問いかけるマリファであったが、ダークエルフの長い耳が周囲を探るようにピクピクと反応する。
残念ながら部屋の防音性が高いのか、または遮音の魔法処理が施されているのか。音を拾うことはできなかったのだが、すぐにナマリの行動の意味を理解することとなる。
「お、お待ちくださいっ! 私共が案内いたし――――ああっ、お前たちも、もっと力を入れぬか!!」
部屋のドアが開くと、騒がしい声がマリファの耳へ届く。
姿を現したのは、オーク数匹を引きずるユウであった。
「ちっ……なにしてやがる」
事前にユウが戻ってくる際は連絡するように言いくるめていたのだろう。ドリムの配下たちが、ユウを足止めできなかったオークたちへ、厳しい視線を向ける。
「どういうことだ?」
室内を一瞥したユウは、クロの無惨な姿を見て誰彼構わず問いかける。
「はっはっは。これはこれは」
コボルトが流れるような動きで、配下たちの間からユウの前へ飛び出る。
「なにやら誤解をされているようですが、客人が戻ってこられるまでの時間つぶしといいますか。そう、戯れです」
愛想笑いを浮かべながら、コボルトはそう嘯く。
「戯れ?」
「ええ、ええ! 戯れですとも」
「そうか。戯れなんだな?」
「ご理解いただけたようで、私共も安心し――――」
そこでコボルトの言葉は途切れる。
なぜなら底冷えするようなユウの眼を見てしまったのだ。




