第375話:謀略
“産まなければよかった”
それがユウの持つ、もっとも古い母親の記憶であった。
そして――――その言葉と同時に二階のベランダより放り投げられる。
幼いユウは落下する最中、自分になにが起きたのかわからない様子で、母親を見つめていた。
女は恐ろしく冷たい目で、ユウを見つめる。二階からの落下による痛みよりも、その視線がなによりも怖く。震えながらユウは痛みに耐えた。
自我が目覚めたばかりの子にとって、母親とは一番の理解者であり、保護者であり、無償の愛を注いでくれる存在である。
その母親から見捨てられたユウの心境たるや、想像を絶するだろう。
ベランダからユウが投げ捨てられた件に関しては、目を離していた隙にベランダから滑り落ちたという女の証言によって、事件性はないと処理される。
その後の人生は端的に言うと、地獄であった。
物心がつく頃から父を名乗る義父より振るわれる理不尽な暴力。おもしろ半分に行われる拷問といってもいいような虐待。
満足な食事も与えられず、いつも腹を空かしながらユウは耐えていた。感情を出せば、その分だけ殴られるからだ。
「がっ……こ、これは…………なんた、る」
ユウの記憶を――――固有スキル『人追心随憶験』で、記憶を追体験したドリムの口より苦悶の声が漏れ出る。
爪と指の間に針を通されたかのような痛みに、背中に熱した鉄の棒を押しつけたかのような熱さを感じる。
(何年……何年このような虐待をっ)
身体に傷がつく端から、ドリムの肉体は再生を繰り返す。
他者の記憶という、膨大な情報を短時間で追体験しながら、ドリムは本命の記憶を探す。
(もっと先の記憶かの)
目当ての情報はないと、ドリムはこちらの世界に来たユウの記憶を探る。
しかし、碌な記憶ではなかったのだ。
排他的な田舎の村でも迫害され続けるユウの姿は、他種族のドリムからしても同情を禁じえないものであった。
(なんとも不憫な子よ)
これまでユウが受けてきた心と肉体の傷を追随しながら、ふらつく身体と心を立て直す。今一度、気を入れ直さねば、受けきれないほどの壮絶な人生であったのだ。
「ぎっ…………」
だが、それでも一瞬、気が遠くなるような激痛がドリムを襲う。
それはユウが『腐界のエンリオ』に潜り始めた頃の記憶に触れたときである。
あまりの眼の痛みに、頭痛に、ドリムは咄嗟に己が右眼を抉り取ってしまう。
(い、いかん……)
パッシブスキル『再生』の上位『高速再生』――――そのさらに上位に存在する『復元』を所持するドリムでも間に合わないほどの傷と痛みが身体を蝕む。
(な……なぜ耐えられる…………この痛みに)
爪が剥がれ落ち、皮膚が捲れ、肉が剥き出しに、傷がないところを探すのが難しいほどドリムの身体は傷つき、流れ落ちる血が絨毯に染み込んでいく。
次は迫害される魔人族に獣人、堕苦族や魔落族などの記憶がドリムの脳裏に流れるのだが、あまりの激痛に一つ一つを精査する余裕がない。
(飛ばし飛ばしにっ……読まなければ…………妾の身体がもたぬっ! あやつに頼まれていた件を早う――――ぐぅっ)
十五年という人生――――千三百年を生きるドリムからすれば、あまりにも短い生である。
だが、その短い生を受けきれないほど、ユウの人生は壮絶であったのだ。
「へえ……死ななかったのか」
息も絶え絶えに、ソファーへ倒れ込むように座り込んだドリムを見下ろしながら、ユウが呟く。
嫌味で言ったのではない。
心の底から驚き、出てきた言葉であった。
この短い時間で、自分の人生を追体験すればどうなるか。まず死ぬとユウは思っていたのだ。
「妾は誰よりも美しく、強いからのう」
身体に刻まれた傷は復元して――――眼を抉り取ってぽっかりと空いていた右の眼窩も元通りになっているのだが、ドリムの声音からは言葉とは裏腹に余裕がない。
「それよりも、お主はなかなかに壮絶な人生を歩んでおるの」
「目当ての情報は手に入ったのか?」
「うむ」
手についた血を振り払いながら、ドリムは鷹揚に頷く。
「お主が外で戦った龍は八大龍王『鬭龍』に血を連ねる者と知っておったか?」
「外で戦った龍? ああ、あいつか。それは知らなかったな。道理で強かったわけだ」
「戦うのがなによりも好きな鬭龍の子孫じゃ。お主が持つ魔玉を必ず奪い返しにくるであろう」
くれぐれも気をつけよと助言するドリムに対して、ユウは興味なさそうに聞き流す。
そのあんまりなユウの態度に、ドリムの眉間に皺が寄る。
「あと外から連れてきた巨人――――古の巨人族の巫女が産んだ子と知ってか?」
「巫女? あいつ、それなりの身分のガキだったのか」
「ふーん」と、こちらに関しても興味がない素振りのユウに、さらにドリムの眉間に皺が寄る。
「知らずに拾ってきよったのかっ。
あれは古の巨人族の巫女と隷属である巨人との間にできた不義の子と聞いておる。巨人は処刑され、子には腐敗の呪いをかけられたと聞いていたが、まさか生きておったとはなっ」
詳細を知りたかろうと、ドリムは鼻息を荒くするも。
「あいつ、だから生きながら腐ってるのか」
それ以上はユウが聞いてくることもなく、会話が続かない。
「知りたくはないのか」
思わず、ドリムのほうから尋ねてしまうのだが。
「別にあいつがどういう人生を送ってようが、俺には関係ない。そもそも自分から喋らないんだから、知られたくないんだろ」
「ほ、ほう。そういうものか。
しかし、子が持っておった世界樹の苗木を、よくも見事に育て上げたものよ。
で、知りたかろう?」
「別に」
「ふむ。ほお……う。そうか」
余裕があるように振る舞うドリムであったのだが、まぶたが小刻みに震えており、動揺が隠せていない。
「お主が『悪魔の牢獄』の最下層で戦った天魔じゃが!」
「うるさいな。そんな大声を出さなくても聞こえてる」
「そ、そうじゃな。大きな声を出さずとも聞こえておるの!!」
「だから、うるさいって」
すでにまぶたのみならず、ドリムは全身を小刻みに震わせていた。先ほどから主導権を握ろうとしているのに、ユウが食いついてこないからである。
「魅入られておる」
それまでの狼狽が嘘のように、真剣な顔であった。
「彼奴は必ず、お主の前に現れるぞ」
「参ったな……」
心底、面倒くさそうにユウは呟く。
「今から魔玉を返しても、ダメかな?」
「駄目じゃろうな。あれはお主に執着しておる」
「だから女難の呪いは鬱陶しいんだよな」
悪いのは自分ではなく、呪いのせいだとユウは煩わしそうに呟く。
「どう責任を取るつもりじゃ。あれが地上に出てくれば、世界は終わるかもしれんのじゃぞ」
「俺の知ったことじゃないな」
「お主がしでかしたことじゃろう」
「そんなに世界が心配なら、お前が戦ってこいよ」
「なぜ妾がそのような真似をせねばならん」
「最強なんじゃないのか? まあ、出てきても古龍と同じように倒せばいいんだろ」
「お主は自らの実力で古龍マグラナルスを倒せたと思っておるのか?」
「いいや」
ドリムからの問いかけを、ユウは即座に否定する。
「あの龍はボケてたからな」
「ボケていたのではない。天魔の半神に“忘却”の呪いをかけられておっただけよ。そうでなければ、お主が生きてこの場におることはなかったじゃろうな」
これに対しても、ユウは否定せずに受け入れる。
古龍の耐久力と破壊力は文字通り桁外れであったからだ。息吹一つとっても、ユウの結界をものともせずに貫通し『悪魔の牢獄』の大地を広範囲に渡って沸騰させるほどの高熱を誇り、強固な鱗はユウが剣や魔法を駆使しても傷一つすらつけること叶わず。その強靭な肉体に強固な鱗――――さらには結界まで纏っているのだ。
ボケてなければ、最初の接敵時にユウたちが逃げ果せることはできなかっただろう。それほどの相手であったのだ。
(あやつが懸念しておったことが、当たるとはのう)
顎に手を当てながら、ドリムはどうしたものかと悩む。
「用が済んだなら帰るぞ」
「待たぬか」
ドアへ向かうユウをドリムは止める。
「お主が手に入れた本を譲ってくれんか?」
「なんの本だよ」
「『異邦人異聞録』のほうではない――――もう一つのサクラについて書かれたほうじゃ」
「断る。馬鹿な女について書かれた本は持ってるけど、誰かに譲るつもりも売る予定もないからな」
「サクラは馬鹿ではない」
「良いように人族に利用されて、最期は処刑された馬鹿な女だろうが」
歩みを再開するユウの背に向かって、ドリムは言葉を連ねる。
「サクラは知っておったよ」
「知っていた?」
「自分がやがて邪魔になって、人族から排除されるであろうことをな」
「知っていたのなら、なおさら馬鹿じゃないか」
「お主がそれを言うのか? 」
怒りではない。
憐憫の感情を込めて、ドリムは口にする。
「誰よりもサクラの気持ちを理解できるお主が、その言葉を口にするのか?」
ユウの記憶を読んだ――――追体験したドリムが、問いかける。
「言っている意味がわからないな」
「いいや、わかるはずじゃ。誰よりも愛を求めるお主ならば」
「愛?」
「気づいておらんのか。それとも気づかぬフリをしておるのか」
「そんなもん存在しない。馬鹿らしい」
「いいや。お主は知っておるはずじゃ。言っておくが、お主が見せられていたモノなど、愛のある営みではないぞ」
「愛のある営みってなんだよ」
そこでドリムは笑みを浮かべる。
「よかろう。妾直々に愛を教えてしんぜようではないか」
「本当に馬鹿なんだな」
「怖いか?」
「付き合いきれない」
ドアノブに手をかけたユウは、ふと思い出したかのように振り返ると。
「なにを頼まれたのか知らないけど、大賢者には気をつけたほうがいいぞ。碌な奴じゃないんだからな」
「それは――――」
ソファーからドリムが立ち上がるのと、ユウが部屋から出ていくのは同時であった。
「ふむ。ちと、刺激が強すぎたか」
静かに閉まったドアの音とともに、ドリムは室内を見渡す。
「気をつけたほうがいいぞ、か。確かにお主の言う通りよ。今回は危うく謀略によって死ぬところであったわ」
『悪魔の牢獄』に封印されている天魔の半神について、ユウの記憶を読み取り確認してほしいと請われて、安易に了承したものの。死んでもおかしくないほどのダメージをドリムは負っていたのだ。
「妾が死ねばどうなるかわかっておるであろうに――――それとも、それが狙いではなかろうな」
先ほどと同じようにドリムは室内を見渡す。
獰猛な肉食獣のような鋭い瞳で、なにもない空間を射抜くように。
「さて、そろそろ姿を見せぬか」
己以外、誰もいないはずの室内に向けて、ドリムは話しかける。
当然、なんの反応もないのだが。
「出てきいや!」
室内の空気を震わす声量であった。
力の込められた声に反応したのか。それとも諦めたのか。
その者は姿を現す。
「誰の人形かの?」
隠れる場所など、なかったにもかかわらず。なにもない空間から姿を現したニーナに向けて、ドリムは好戦的な笑みを向けて問いかけるのであった。




