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クレール 光の伝説

迷走の【吊られた男《ハングドマン》】

 広大な領土を有する大帝国、ギュネイ。

 それは、帝都を遠く三千里……小公国「ツォイク」で、()()()百年前に起きた話。

 

  

 ルイ・ワンは、忠臣(ちゅうしん)だった。

 少なくとも、彼自身はそう思っていた。

 諌言(かんげん)をよくし、主君の政を正している……と、自認していた。

 そして、主君はその注進を良く聴いてくれている……と、自負していた。

 確かに、主君は彼の言葉を良く容れていた。

 第十八皇子殿下が、ツォイクを訪れる以前は。


 時の皇帝の末息子で、利発だけれども何の権限も与えられられていない冷や飯食いを、何故か主君は厚遇した。

 それがルイ・ワンの癪に触った。

 歓迎の宴が、盛大に開かれた。重臣として列席せねばならなかったルイ・ワンの杯は、不満の大きさに比例して重なる。


臣籍(しんせき)に落とされることが確実の皇子などと()()()を結んで何の利があろう。むしろ、跡目争いの余波を被る不利のあるのみ』


 苦渋を酒で呑み下した丁度その時に、主君が彼に声を掛けた。


「ルイよ。親愛なる殿下に讃辞を」


 抑えつけていた感情の(せき)が、ぶっつりと切れた。


 直截な男は、溜まっていた鬱憤(うっぷん)を、思ったままに言った。


「偉大なる殿下が、寛大なる我が君の元へお越しになられた。軒先を借りて母屋を盗る為に」


 場が、凍った。


「ルイよ、酔うておるな? 失言を詫びよ」


 誰かが機会を与えてくれた。

 すると、一徹な男は、重ねていった。


「貧乏人には恋しかろう、まばゆい玉座の柔らかさ。似合わぬことを知らずに欲す、汚れた地べたに置く身の上で」


 思慮深い第十八皇子は、笑って聞き流そうとした。ところが、主君は許さなかった。


()が敬愛する殿下に、二度までも侮言を吐くとは言語道断!」


 殿下が、また家臣達が止めるのも聞かず、主君は彼に死罪を言い渡した。

 即座に刑は確定し、ルイ・ワンは城門の「軒先」に吊されることになった。

 第十八皇子殿下が「借りた」、その城の「軒先」に、だ。

 死の間際、彼は叫んだ。


「我が魂は見る、哀れな主家の最期を!」


 刹那、ルイ・ワンの身は紅の光を発し、消えた。


 そして、彼が吊された下の地面に、一つの輝石(きせき)が残された。





「……時は過ぎ、主君を(いさ)める家臣を失った殿様は、いつしか乱行を重ねるに到り、ついには主上(おかみ)から罰せられて、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)悶絶憤死(もんぜつふんし)

 空いてしまったツォイク大公の座は、それまで十戸の村すら領していなかった、冷や飯食いのあの殿下に回ってきた。

 ……といった具合に、ルイ・ワンの予言は皮肉なことにぴたりと当たってしまった……って訳ですよ」


 寂れた町の怪しげな骨董屋の胡散臭(うさんくさ)い女店主が、満面に笑みをみなぎらせた。……シワの中に埋もれた瞳だけは、まるで笑っていなかったけれども。

 しかし、いくら商人(うりて)が熱心になっても、客である二人の剣士達は、まるで話を聞いていない。店主の語る民間伝承(フォークロア)には興味が無いのだろう。


 大柄な一人は、百年前の安楽椅子……と、銘打たれた売り物……にどっぷりと座って、天井で鬼ごっこに興じる蜘蛛の子を眺めながら、節くれ立った指で頭を掻いている。

 名はブライト・ソードマンという。骨太の大柄だが、背が高いのですらりとした細身に見える。

 猛禽のような熱い眼光と、浮浪者じみただらしない無精ひげ、という見事なコントラストが、彼の実年齢を隠蔽していた。

 それでも、どちらかというと二枚目の部類ではあるだろう。

 ひねくれた所見で勘ぐれば、育んだ知性を酔狂にも放棄した……といった風体にも見えないことはない。


 小柄なもう一人は、目の前に出された薄汚く黒ずんだ宝石箱に施された、壁に張り付いた蔦の根っこのような飾りを目で追いながら、その中身……貴婦人の握り拳ぐらいの大きさの、真紅の宝珠……を、細い指先でつついている。

 エル=クレール・ノアールと名乗るハイティーンは、小柄で華奢な体つきをしていた。

 大人びた翡翠色の瞳と、童子のような柔らかな頬が、ブライトとは別の意味で年齢を判らなくさせていた。

 彼との最大の違いは、悩む必要性のまるでない美しさだ。

 素直な視点でうがてば、やんごとなきご身分を致し方なく放棄したのでは……と思わせる風姿をしている。


「で、ですね……」


 客が話を聞いていようがいまいが、どうやら女将の方には関係ないと見える。


「殿下はお国入りするとすぐに、ルイ・ワンが転じた宝珠を探させまして……政変のどさくさで行き方知れずになってましてね……どうにか見つけて、公都の大聖堂に納めた。今でもそれは祀られている……ンですが」


 にたり、と笑う。


「それは、偽物、なんですよ」


「ほぉ」


 刺々しい嘆息は、ブライトの口から発せられた。


「酒ですか、博打ですか、それとも商売女ですかね? 坊さんがお寺の至宝に手ぇ付けた理由は」


「いやいや、最初から、偽物だったンですよ。殿下が探し当てたそれが、そもそも偽物だったンです」


「へぇ」


 乾いた感嘆は、エル=クレールのものだった。

 途端、古物売りのシワの中の瞳に、商魂が燃え上がった。

 女将はエルが執心する宝石箱を取り上げ、繻子の切れ端で中の紅色の珠を摘み出す。

 そうして、それをエルのほっそりと通った鼻先へ、至極大仰に掲げ上げた。


「本物は、あたしのご先祖が拾ったンです。以来、代々伝わって、こうして店先を飾り続けてるンですよ」


「いくら、です?」


 クレールは、空になった宝石箱を持ち上げて、にっこりと笑った。

 古道具屋は顔全体をシワの中に埋没させて、上気した声を出した。


「若旦那、それだけは勘弁してくださいよ。ええ、売れません。家宝ですから」


「そう。残念ですね」


 クレールは眉をしかめた。小さく首をすくめるとプラチナ色の前髪が揺れ、同じ色の柳眉を覆った。

 骨董漁りには駆け引きがいるのだ。

 どうしても欲しい物でも、わざと要らないそぶりをしてみせるのが、コツらしい。

 仕草は諦め。

 声音は切望。

 女将はここぞとばかりに、声を裏返らせた。


「まあ若旦那のような色男が、ギュネイ金貨を百枚も積もうっておっしゃるのなら、考えもします。ええ、事と次第によっては、どーんとおまけだって致しますよぉ」


 頬が紅潮しているのは、どうやら商売がうまくいきそうな事への興奮からばかりではない様子だ。ニンマリと笑い、舌なめずりしながら、エルにすり寄ってゆく。


「はっ、吹っ掛けるなよ。一ギュネ金貨が一枚あれば、四半年は慎ましやかに暮らせるご時世だぜ!?」


 大声を上げたのはブライトだった。彼は乱暴に立ち上がり、出口に向かう。弟子であり相棒である若者が、その後ろについてくると信じていた。

 ところが、クレールは品物を諦めるどころか、腰袋の中をまさぐっているではないか。大男は慌てて取って返した。


「おまえさん、冗談はその綺麗なツラだけにしておけ。ンな石ッころにゃ一ギュネの価値だってあるものか。例えその万分の一、セギュネ銅貨一枚だって言われても、俺なら御免被るぜ。

 第一、お前さんが百ギュネなんて現生を持ってるのか!?」


「持ってやしません。ギュネイの金貨は、ね」


 クレールは微笑みながら、華麗な文様を彫り込まれた大振りな金貨……と、言うより小振りな金塊……を取り出した。


「二十年の昔に滅した前王朝、ハーン帝国の『大判』です」


 女将の目に強欲な光が宿った。

 同時に、ブライトの顔から血の気が引いた。


『莫迦野郎!』


 その言葉を、だが、彼は飲み込んだ……エル=クレールが、自信に満ちたウインクを彼に投げかけたが為に。


「ギュネイ金貨は、混ぜ物が多い……聞いたところによると、その純度は八金に満たぬとか」


 クレールの問いかけに、女将は生返事で応じた。

 花びらのような柔らかなカーブを描く唇が吐き出すのは、美しい真実。蠱惑の言葉。


「『ハーン大判』は二十四金、つまり純粋な金です。それ故、かつての権勢家達は、これを額面の十倍以上で取り引きしていたのです。しかし現在では、鋳潰せばギュネイ金貨を十枚ほど造れる金地、でしかありません……表向きは、ね」


 エル=クレール・ノアールの微笑みには、ぞっとするような艶があった。

 さながら、命を得た大理石の彫刻か、白磁の人形か。何であるにせよ、人のモノとは思えない。

 脂の抜けきった壮年の女将が、頬を紅に染め、エルと巨大な金貨とを見比べている。

 エルは、良く通る澄んだ声をわざと低く抑え込んだ。


「ですが、好事家達はこれをただの金地だとは思っていません。……造詣深いマダムなら、当然、ご承知でしょうけれど……」


 最後の一言が決定打になったようだ。

 女将は、純金の固まりを奪うように受け取り、赤い宝珠と古い入れ物とを客に押し付けた。


「またのお越しを!」


 晴れ晴れしくも粘っこい女の声を背に受けて、二人の剣士は店を出た。


 黒い雲の間から赤い陽光が仄暗く揺れる、夕暮れ。

 

 元より人口密度の高くないツォイクとはいえ、公都の目抜き通りであるというのに、人影がまるでない。

 町中に、何かにおびえる逃亡者がそこかしこで物陰に潜んでいるような、重い空気が満ちていた。

 湿った空気は街の中央、忠臣ルイ記念大聖堂を中心に渦巻いている。

 古い時代の角張った装飾の中に、比較的新しい曲線を多用する装飾が介入する、豪華で半端な大理石の固まりは、幾星霜もの時の果てに、陰鬱の具象と化していた。

 二人の剣士は、香と花と涙の匂いを発する門扉の前に立った。


「要りますか?」


 まるでリンゴでも勧めるように、エル=クレールは赤い宝珠をブライトの眼前に差し出した。

 彼は不機嫌丸出しでにらむ。


「はっ、そんな『高価』な物!」


「これはそんなに高い物ではありませんよ」


「なにぬかしやがるか、この箱入り世間知らずがっ」


 箱入りでない叩き上げの中年が、一(ダース)と三つばかり年下の相棒を怒鳴りつけた。


「いいか? 『ハーン大判』の相場は五,六十ギュネだぜ。お前がいま持っているそいつは……どうやら紅玉髄カーネリアンのようだが、それでもせいぜい……」


「高く見積もって五,六ギュネ……でしょうね」


 クレールは、剣の師の役も兼ねるパートナーの言葉尻を、あっさりとさらって、微笑んだ。

 それも、晴れやかに、にっこりと。

 世間知らず故の失敗を諭してやろうと意気込んだ、その鼻っ柱を折られた形のブライトが眉をしかめる。


「……分かってるなら、なんでこんなモンに大枚叩いちまったンだ?」


「私は、こんなものを買うほど、莫迦じゃありません」


 再度、にっこり。


「ほぇ?」


「大体、私が何時『この珠が欲しい』なんて言いました?」


 三度、にっこり。


「そりゃ『欲しい』とは言っちゃいなかったが、値段を訊ねて……」


「私は、これの値を訊いたんですよ」


 エルは古くさい宝石箱につもった埃を、愛おしそうに払った。

 そうして、微笑みながら宣うに曰く、


「前王朝第七代セリメーヌ女帝は、『群青と銀色』の組み合わせが大層お好きで、ドレスも家具調度も、その色合いで御揃えになった。中でも、瑠璃ラピスラズリ白金プラチナを象嵌した品がお気に入りで、臣民への下賜の品も、同様の細工の小物箱が多かったといいます」


 白い指が、宝石箱の底を指した。

 二百年昔の女皇帝のイニシャルが、深海色の貴石に刻まれている。

 ブライトは息を呑んだ。


「汚れはしても壊れてはいません。磨き上げてから解る人の前に出せば、五,六百ギュネの値が付くはずです」


 更に、にっこり。

 感心するやら呆れるやら。


「何と阿漕(あこぎ)な」


 ブライトがさっき呑み込んだ息を吐き出すと、エルは薔薇色の頬を膨らませた。


「暴利を貪るつもりはありません。差額は儲けではなく、名誉毀損の慰謝料です」


「慰謝……?」


「あのご婦人、私に向かって何と呼び掛けました?」


「さぁて、お前さんを怒らせるような事を、言ったっけか?」


 クレールは唇を曲げた。


「『色男』と」


 相棒の立腹顔をしげしげと見たブライトは、


「ソレがどうした? あの婆さんには、お前さんがむしゃぶりつきたくなるようないい男に見えたって事だろうよ。褒めて貰ったんだ。有難く思え」


 エル=クレールは益々口を尖らせる。


「褒められた気分になどなりません。あなたには私が破廉恥な好色漢に見えますか?」


「好色漢だって!?」


 ブライトは叫ぶように言うと、文字通り腹を抱えて下品なほど大げさに大笑した。

 クレール本人は、己を生真面目な若者と信じている。

 白金色の髪の絹のような艶やかさも、瞳が放つ翡翠玉の様にぬらぬらとした光も、唇の桜桃のような濡れた紅さも、頬の薔薇のような輝きも、見た者の男女を問わず、心を騒がせる美しさであることに、全く気付いていない。

 その無頓着さというか無知加減が、可笑しくてならないし、また愛おしくてならない。


「そのように嗤うことですか?」


 エル=クレール・ノアールは憤然として、右前合わせの上着に包まれた丸く豊かな胸を憤然と張り、前窓付きのズボンをはいた柔らかく細い腰に両拳を当てて仁王立ちした。

 ブライト・ソードマンは、目尻に浮かんだ涙と、口角を濡らした涎を乱暴に拭いた。


「たまらんね。おまえさんのその身形(みなり)がすでに猥褻物(わいせつ物)だ」


「物騒な世の中だから、男の服を着て男のように振る舞え、と忠告してくださったのは、あなたでしょう?」


 エル=クレールはあくまでも己の肉体そのものに「原因」があるとは思い至らないらしい。

 ブライトはニタリと笑った。


「ああ、そんな服を着てりゃぁ、誰だって……」


 ブライトは素早く相棒の背後に回り込み、男物の上着の下に隠された、柔らかな双丘を鷲掴んだ。


「こーでもしなきゃ、男じゃないって判りゃしないからな」





 宵闇(よいやみ)が、空を侵食する。


 忠臣ルイ記念大聖堂の裏手は、正面以上に重く暗い気体を(はら)んでいた。


「ほお、この墓場ときたら、随分と、新仏(にいぼとけ)の、多いこって」


 赤く腫れ上がった左頬を引きひきつらせたブライトが、口角ににじむ鮮血を拭いながら視線を注いでいるのは、大聖堂裏に広がる墓地だった。

 古い墓碑のくすんだ灰色の間に、真新しい墓石の白が、ぽつりぽつりと浮かんで見える。

 十指に余る白のはかなさが、辺りの闇を一層深く見せた。


「ツォイクで流行病が発生したとか、大きな事故があったとは聞きませんが」


 赤く腫れ上がった右拳をさすったエルが、袖口ににじむ返り血を気にしながら視線を注いでいるのは、大聖堂の裏口から出て来た葬列だった。

 重い足取りの先頭は、目が痛くなるくらいに白い僧衣をまとった、顔色の悪い司祭。

 次に、聖水の瓶を掲げ持つ、ひどく痩せた尼僧。

 続いて、白い布をかぶせられた三つの亡骸を六人掛かりで運ぶ、くたびれた表情の修道僧達。

 殿軍は、泣くことに飽いた様子の、年老いた遺族達。

 一行は押し黙ったまま、墓地の一画の、奇妙に開けた空間に陣取った。

 わずかに高い土の上に、亡骸が置かれた。

 司祭が、何かを詠ずる。

 尼僧は彼に、聖水の瓶を差し出す。

 受け取る左手が、わずかに強張っている。

 修道僧達が、白い布をまくり上げる。

 遺族とクレールは、一瞬目を背けた。

 逆に、ブライトは刮目した。

 見えたのだ。……継が当たってはいるが、昨日洗ったばかりの清潔なズボンと靴を履いている、朽ち始めた枯れ木のような足が。

 石畳の上に墜ちたヒヨドリの雛のように干上がった、人の形ををしたモノが。


「やれやれ、厄介だな。こんなイナカまで来てお仕事とは」


 ブライトは血の混じった唾を吐き捨てた。

 彼は嘆息で肺の空気を全部出し切った後、信じられないくらい真面目な表情を作った。


「行くかね」


 クレールと自分自身に言い聞かせるように呟くと、彼は、葬列に向かって呼び掛けた。


「教父よ!」


 司祭が土気色の顔をこちらに向けた。


「子等よ、何故そこに立っているか?」


「我らは天を父と仰ぎ、大地を母と慕う旅の児。兄弟達のために祈らせてください」


「来なさい。天に祝福され、大地に愛される、我が子等よ」


 ブライトと司祭の、礼儀にかなったマニュアル問答に、クレールは『慇懃無礼』という単語を思い出していた。

 


「お腰のモノを、お預けください」


 宿坊の入り口で、尼僧が言う。


「聖なる寺院では、人を傷付ける道具を禁忌としておりますゆえ」


「心得ております」


 クレールが己の細身の剣と師の幅広の剣とを、尼僧に差し出した。

 受け取った尼僧が、それらの軽さに怪訝な顔をする。

 ブライトは『営業用スマイル』を浮かべた。


「竹光です。我らも、人を傷付ける道具が嫌いでね」


「それは、良いお心懸け、ですね」


 背後から、しわがれた声がした。


「ツォイク教区を、任されておる、ヘルムス・モルトケ、です」


 司祭が満面に穏やかそうな笑みを湛えて立っている。

 大寺院の大司祭自ら客を客室に案内してくれた。……破格の待遇、であるらしい。

 ブライトとエルは宿坊で一番広いという部屋に通された。

 そこはどうやら、ここ数年使われていない様子だ。掃除は行き届いているのに、何となく埃臭く、火の気のあるはずが、どうにも寒々しい。

 そう思うと、膳の手配をする尼僧の仕草も、どことなく空々しく思えてしまう。


「御辺らは、いずこより旅出でて、いずこに向かわれるか?」


 司祭は、疲れた顔で微笑んだ。

 クレールはちらとブライトを見やった。

 彼は、テーブルに両肘を突き、祈るときのように両手を()んでいた。

 目玉が、『お前さんに任す』と言っている。


「我らに故郷はなく、行き先もございません。……と申しますのも、実は私ども、身内を全て失うたが故に、旅に身を投じた次第でして……」


 モルトケ司祭の顔が曇った。


「では、もしや……いや、まさか……。各地に、魔性の物があらわれ、村町を襲い、国を滅ぼしてい、と言う噂を…………聞き流しておったが、真実と思って、良いのでしょうや?」


 クレールは悲しげに小さくうなずいてから、聖職者の顔をじっと見た。


「あなたの言う【魔性の物】を、ギュネイ皇帝は【堕鬼(だき)】であるとか【オーガ】であるとか呼んで、見つけ次第誅殺せよとの勅令(ちょくれい)を発しています」


 司祭は力無く頭を振った。……否定、というよりは、否認の素振りだ。


「【オーガ】どもは、人の命が持つ『力』を食らうが為に町村を襲っている。そして命の抜け殻、つまるところ死体を操って、国を滅ぼしている。その死体のコトは、【グール】なんて呼んでるがね……帝都の玉座でふんぞり返っている旦那は」


 ブライトがつぶやく。周りの人間によく聞こえるような、小さな声で。

 ヘルムス・モルトケは、目をつむり、天を仰いだ。


「先ほどの葬儀……亡骸は、普通の死に様ではなかったように見受けられました」


 よく通るエルの問いかけに、司祭は再度頭を振る。


「若者ばかりが、命を失っておられるのでは?」


 モルトケ司祭はびくりと顔を上げた。怪訝な顔で、クレールを見つめる。


「……参列者が、ご老体ばかりでした。子や孫に先立たれたショックで、泣くこともできぬ程、憔悴しきっておられた」


 一瞬、モルトケ司祭の顔に厳しい嫌悪が現れた。

 が、


「良う、お気づきになる……」


 と、声を絞り出したときには、彼の「基本的」には柔和な顔が、その尖った感情をすっかり隠していた。

 ブライトは、乾いた皮膚を引きつらせて笑む大司祭殿を横目で見、またつぶやく。


「どうやら、世ずれしたマトンより、純なラムの方が、美味い上に扱いやすいってのを、やつも知ってるようだ」


 彼の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、司祭は目を堅く閉じた。唇と、肩と、指先と、脚とを、小刻みに震わせている。


「万一……あの子等の、命を奪った者が……その【オーガ】などという、人外の物で、あったとして……。その……【オーガ】……とは、何でしょう? いや、もし、そのようなモノが居たとして、ですが」


 モルトケ司祭の口振りは、否認を続ける罪人のようですらある。


「人間、ですよ」


 ブライトがくぐもった声を出した。

 エル=クレールが後を接ぐ。


「人はすべからく、心に闇を抱えているものです。心強き者は、その闇を信念の光で照らすことができます。ですが、脆弱な心にはそれができないのです。

 そのような弱い人々の、畏れと不安に満ちた心が、自身の中に渦巻く恐怖に取り憑かれ、堕ちてしまうのです。……【オーガ】になることが、恐怖を打破する術だと勘違いして」


 深いため息が、語尾を飾った。

 すると再びブライトが、拱んだ手の上に顎を乗せたまま、語る。


「……きっかけがありさえすれば、誰もが堕落の道を歩むでしょうな。大天使ですら慢心の末に堕ち、年経た蛇だの悪龍だのと呼ばれる。況や、人間をや……。弟子が師に教える事もないこってすがね」


 そして、あの鋭い目を、ちらと聖職者に向ける。干からびた青黒い顔に。

 モルトケ司祭は、唇を噛み締めていた。

 鋭く尖った犬歯の下から、黒紫の血が滲み出た。

 同時に、眼光が急激に険しくなった。

 だが、どういった訳か、瞳は濁り、淀む。

 その眼に、赤い光が映り込んだ。

 (あか)紅玉髄(カーネリアン)の珠。


「それは……?」


「きっかけ、に、なりうる物……とでも申しましょうか。ご存じでしょう?」


 エル=クレールの掌の上で、それは無機質に輝く。


「こちらの至宝、【ルイ・ワンの魂】。私どもは【吊された男(ハングドマン)】と呼んでおります。もっとも、これは、レプリカですけれど。……本物は、司祭様の手中にある筈ですから」


 新たな、そして決定的な物証を提示する検察官のように、彼女はそれを机の上に置いた。 そうして、微笑むのだ……総毛立つほどに冷ややかな、且つ熱い眼差しで。


「脆弱な心をそそのかす強い魂……。それが悪であると見抜けない間抜けと、独善を他人に押しつける愚か者とでは、どちらが悪いのでしょうね」

 

 モルトケの左手が、激しく机を叩いた。

 死人のように青黒い指が、小刻みに動いている。


『愚か者とは誰のことぞ?』


 左手の主の唇を震わせたのは、地の底から押し出されたような、黒い声だった。




『ビンゴ、か』


 ブライトの禽獣(きんじゅう)のような眼光が、モルトケの姿をしているモノの全身を射抜いた。

 何かを探している。

 目に見えない、何かを。

 その隣で彼の相棒が、同じように鋭い視線を、同じモノに向けていた。


「誰も、あなたのことだとは言っていませんよ。自称・忠臣のルイ・ワン殿」


 エル=クレール・ノアールは、立ち上がりざま、己の腰に手を伸ばした。


「それとも、少しは後ろ暗く思っておいでですか?」


 黒い声が、司祭の顔に嘲笑を作った。


『愚かはうぬであろう』


 司祭の左拳が、糸をもって引き上げられたマリオネットのそれと同様の動き方で、クレールの眼前に突き出された。


『うぬの剣はこちらにある!!』


 語尾が消える直前、それの拳が、赤黒い光を発した。

 無数の光の筋。

 意思を持った数多の鞭が、うなりを上げて突き進む。

 ブライトが、床に伏せた。

 テーブルの下を転がり、悲鳴をあげることすらできず立ちすくむ若い尼僧を抱き、彼女を部屋の隅に押し込めると、体を返した。

 視線は、上に向けられていた。

 天井と、禍々しく紅い「鞭」の隙間に、エル=クレール・ノアールが飛んでいる。

 羽毛のように軽く、彼女は司祭の姿をしたモノの背後に降り立った。

 振り向きざま、唱える。


「我が愛する正義の(もののふ)よ。赫き力となりて我を護りたまえ」


 クレールの腰から――そう、服の下の肉体から――紅い輝きがほとばしった。


【正義】(ラ・ジュスティス)!!」


 明けの陽光のような、暖かく澄んだ光が、一振りの剣となって、彼女の腰から引き抜かれた。


『うぬっ! 【魂】(アーム)か!?』


「そうですよ。これはあなたと同様の存在。現世に心を残して冥府に旅立った者の思念の結晶。心強く生きる者に力を与え、心折れた生ける屍を蠢かす輝石」


 花びらのような柔らかいカーブを描く唇が吐き出すのは、美しい真実。蠱惑の言葉。


「もっとも、私に力を貸してくれているこの【正義】(ラ・ジュスティス)は、あなたのような、人の弱味につけ込んでその心を操り、あわよくばその体を奪おうなどと言う、質の悪い出来損ないではありませんけれど」


 エル=クレール・ノアールの微笑みには、ぞっとするような艶があった。さながら、命を得た大理石の彫刻か、白磁の人形か。何であるにせよ、人のモノとは思えない。


 水分の抜けきった司祭の形をしたモノが、頬を赤黒く染め、エルと真紅の剣とを見比べている。


『出来、損ない……だとっ!』


 朽ちた血色の筋が、クレールに襲いかかる。

 一閃。

 しなやかな剣舞の前に、それらは形を保つ力を失って、床に散った。

 溶けた血のゼリーが、古びた床を濡らす。


『おおおっ』


 それが、膝を落とした。


『おのれっ、おのれっ、おのれっ! 貴様に何が解る!? 我の深慮、我の憂国、我の決断。青二才に、解るはずもなし!!』


「ええ。理解できませんね。モルトケ殿がなぜあなたなどに自身の心と体を奪われるなどという失態を演じ、また、あなたが多くの若者達の命と肉体とを奪うのを見逃すなどという失策をていしているのか」


『失態? 否! これは英断だ!! 失策? これも否! これまさに妙策なり!! モルトケも我もツォイク公国を護らんとしているっ! 無敵の兵団、不死の士に依って』


 人の姿をした、人ではないモノが、吠えた。同時に、部屋は破壊音で満たされた。

 鉛ガラスと、木枠と、日干し煉瓦の砕け散るその音。

 湿気たカビの胞子を吐き出す、腐った土をまとったその兵団は、声にならぬ咆吼とともに、壁を、床を、突き破って現れた。

 まだ新しいはずの死体達が、朽ち木のような腕を伸ばし、生きている者達ににじり寄る。

 クレールの身が、硬直した。

 予想外だった。彼女は敵が目の前の一体だけだと思いこんでいた。

 今まで、流れるような挑発を紡ぎだしていた唇が、突如として整わない言葉を発し始める。


「何ということを……。司祭殿、あなたはここまで望んだのですか? 死体を【グール】に堕とすなど……冒涜です! あなたはっ」


 言葉が、途切れた。

 赤黒い、腐った蛇の一軍が、彼女に襲いかかり、その身体を捕らえ、まとわりつく。


 瞬間のできごとだった。

 紅い剣を降る暇もなかった。

 断ち切った「鞭」が、復元したのか。あるいは、隠し球を繰り出したのかも知れない。

 モルトケ司祭の形をしたモノの肩口から不自然に生えた、幾筋も赤みを帯びた黒い筋が、クレールの細く柔らかな身体を締め上げる。


「あっ……ン……ああ、っく」


 苦痛の吐息が漏れる。身をよじり、足掻き、悶える。

 息を呑むほどにおぞましく、息を吐くほどに美しかった。

 その様子を、ブライトは、鼻の下を伸ばして眺めている。


「俺のクレールちゃんってば、相変わらずいい声で鳴くねぇ……。できれば俺様のテクで、ああ鳴かせたいんだがなぁ」


 悠長に、まるで危機感無く、むしろ涎を垂らさんばかりに凝視している。

 生ける者の肉を求むる死者の腕が、彼自身の足元にからみついてなお、この男はにやけ顔を崩さなかった。

 司祭を操るモノは、彼の肺腑の内の気体を全て押し出し、高笑いしていた。


『私の言を入れぬ者には、破滅が訪れるぞ。我が不滅の兵団は敵対する者全てから、この国を護ろうぞ』


 エル=クレールの紫に褪せた唇が、笑みを形作った。

 苦しみながら、彼女は言う。


「ふっ……不滅……? あれが、不滅……の兵団だ、と言うの……ですか……?」


 彼女の潤んだ、しかしハッキリとした視線を、よどんだ、しかもどんよりとした視線が追う。

 そこには無数の人影があった。

 大半は床に伏している。

 立っているのはわずか二人。

 ブライト・ソードマンと、尼僧。


「おたくの兵隊さん達、まるで日が経って湿気っちまったバケットみたいだぜ。外はバリバリ、中はグズグズでさぁ」


 ブライトは笑む。不敵に、大胆に。

 尼僧は失神しかけていた。


『何が起きた? 何時の間に、何をした!? まさか【グール】を……素手で屠っただと!?』


 司祭の姿をしたモノは、ピクリとも動かない彼の兵士達を、呆然と見た。


「中途にまじめなヤツは、これだからいけねぇや。自分は完璧だと思い込んで、前にしか進まねぇ」


莫迦(ばか)力ばかりの下郎が、聞いた口をっ』


 ブライトは手を拱むと、それを前に突き出した。


「莫迦はどっちだ? 俺の腕力で【グール】が倒れたとしか見えない……いや、見ようとしないおまえさんじゃねぇのか?」


『うぬっ!』


 司祭は拳を握った。左のそれの皮膚が、中から持ち上げられたように、もぞっと動いた。


「見つけたっ!!」


 掌に力を入れると、ブライトは叫んだ。


「我が親友(とも)よ! お前達の赤心(せきしん)、借りるぜ!!」


 ()まれた指の間から、炎のような赤がほとばしった。


『なにっ? まさか貴様も!?』


「正解!」


 結んだ指を解き放つ。

「出よ、【恋人達】(ラヴァーズ)!」


 叫びと共に、腕はこじ開けられたように広がる。

 掌から発する光が、二筋の紅い軌跡を描く。

 二つの紅蓮は、一対の剣と成った。

 ブライトは身を縮め、踏み込むと、低い弾道の跳躍で、グロテスクな人型に寄った。

 左腕を袈裟懸けに振り下ろし、同時に右腕を逆袈裟に振り上げる。


「死人の分際で、生きてる者の足を引っ張ってンじゃねぇ!」


 切っ先は、かの「鞭」と、司祭の肩口とを捕らえた。

 拘束していた「鞭」が切り落とされた拍子に、エルは膝を落とした。

 一方、司祭の肉体は猛烈に床に叩き付けられた。

 肩口からドロリとしたものを吹き出しながら、そいつがわめく。


『何故だ、何故だ、何故だ! 我の不死の兵が、我の不死の肉体が! 何故崩れる!?』


「自分の進む道は正しい。自分の考えは正しい。脇道や、他人の考えなど見向きもしない。だから行き詰まった。

 ……国を護るという遺志には同意したモルトケ殿が、【グール】を作り出すことには反対していたのを、自分の正面しか見えていないあなたは、気付けなかったから……」


 ブライトに助け起こされながら、クレールが答えた。


『我は……われ……わ……わたし……私は』


 床に叩き付けられた肉体が、うめく。


「私は……生きている?」


 モルトケ司祭は切り裂かれたはずの肩口に手をあてがった。

 傷口などなかった。

 衣服にはほつれもない。

 赤黒い液体で汚れたはずの床には、一滴の水気すらない。

 だが、身を起こし辺りを見回せば、そこは確かに戦禍の跡だった。

 見上げれば、二人の剣士が立っている。

 赫いきらめきを携え、微笑んでいる。


「最初に言ったはずですがね」


「我々は、人を傷つける道具は嫌いなんですよ」





 朝靄の食卓。


「ったく、危なっかしいヤツだぜ、お前は」


 しなびたリンゴをかじりながら、ブライトがぼやくように言う。


「油断するから痛い目に遭う。……ま、目の保養にはなったが」


 彼は網膜に前日の光景を焼き付けていた。男の形をした若い娘の肢体に、血管の浮いた長大で赤黒い「男の肉体の一部」がまとわりついているその様を思い出し、ほくそ笑んだ。


「私はあなたを信頼しているのですよ。あなたが必ず助けてくれると信じているから、油断もできる」

 エル=クレールの微笑み。

 それは大理石の彫刻の物でも白磁の人形のそれとも違う、一人の少女の笑顔だった。


「……その油断を夜中の寝室でもしてくれてりゃぁ、夜這いのし甲斐もあるのにさぁ」


 ブライトは、ようやく腫れの引いた左頬と、まだだいぶ腫れている右頬とをさすった


【このエピソード、了】


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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 王道的なコンビの事件解決物という感じで、 台詞には出てこない頬を叩いた腫れ痕などからわかる二人の関係性や戦闘描写、 なまめかしいヒロインのピンチシーンが魅力的でした。 …
[良い点] 細密な描写が素敵な作品です。エルの美しさ、骨董の美しさが余すところなく表現されています。 器となった人間は傷つけない対魔の力、というのがいいですね。遍歴の英雄ものらしい爽快感を感じました。…
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