婚約者を隠すのはお断りです
オデリアの婚約者には、婚約者がいないことになっていた。
茶会へ来たイネスが廊下で足を止めていたので、オデリアはその背へ回った。
「お襟が裏返っていますわ。少し失礼しても?」
「まあ。ありがとうございます」
襟を直すと、イネスがほっと笑った。
「鏡の前では大丈夫だったのに」
「馬車はお帽子にも意地悪ですもの。わたくしも降りたら確かめることにしていますの」
オデリアが腕を差し出すと、イネスもその隣へ並んだ。二人で広間へ入ったところへ、アルマンがやって来た。
「こちらはメルロー嬢。僕の遠縁に当たる方なんだ」
オデリアは差し出しかけた手を止めた。
両家で取り決めた婚約がある。婚約指輪は彼が選び、彼女の両親へも彼自身が挨拶をした。公表はよい時期を選びたいと頼まれて、待つと答えたのは先月だった。
「では、レセル様にはまだお決まりの方はいらっしゃらないのですね」
「いないよ。そういう話には縁がなくてね」
「アルマン様」
顔を上げた彼の袖を引き、オデリアは廊下へ戻った。
「今のお返事は違いますわ。わたくしは親戚ではありません」
「似たようなものだろう? いずれ家族になるんだから」
「その家族が、婚約者はいないとおっしゃるのは困ります。もう合わせませんわよ」
アルマンは彼女の指輪を見てから笑った。
「次の茶会では僕から話すよ。それならいいだろう?」
待たせたイネスの方を見て、オデリアは頷いた。
「わたくしがご紹介します。次はお名前だけで済ませませんからね」
翌朝、隣家のブレントが犬の綱を返しに来た。
ただし綱の先には犬がいない。彼の腕の中に、上着にくるまれた大きな包みがあった。
「モップはどちらですの?」
「ここにいるよ。僕の上着の中だけど」
襟の間から小さな鼻が出た。オデリアが屈むと、包み全体がもぞもぞと動く。
「まあ。ずいぶん立派なお荷物になりましたわね」
「呼んでも戻ってくれなくてね。上着を広げてみたら乗ったんだ」
「それでお包みになったの?」
「起きるまで待つつもりだったんだけど、僕までここへ座り込みそうだったから」
彼は庭の椅子に包みを下ろした。ぬくぬくと寝ていたモップが前脚を伸ばす。ブレントの上着は、その下ですっかり毛だらけになっていた。
オデリアは笑いながら綱を受け取った。隣家へ入り込む愛犬を返してもらうのは初めてではないが、上着ごと届くのは初めてだ。
「わたくしにも貸していただけるのかしら。その上着」
「君も呼んだら戻ってこないつもりかな」
「ここまで運んでいただくのはお気の毒ね。お茶を飲んで待ちますわ」
「それなら僕も座れるな」
犬を下ろしたブレントが、すぐには腰を下ろさなかった。モップが彼の靴に鼻先を押し付けたのだ。
「まだ僕と遊びたいみたいだね」
少し得意そうな顔を見て、オデリアは犬と彼を交互に見た。
「上着まで差し上げたのに、お靴も欲しいそうですわ」
「靴は困るな。君からも言ってくれないかな」
「モップ。そちらはお帰りになる時に必要ですのよ」
綱を短く持ち直すと、犬はようやく彼の足を放した。ブレントが肩の毛をつまむ。手が届かず、同じところを撫でていた。
「少しお待ちになって」
オデリアはそばへ寄り、彼の肩から毛を取った。
「こちらにも。動かないでくださいまし」
肩へ添えた指の下で上着が張った。顔を上げると彼がこちらを見ている。
「これでよろしいかしら」
「……ああ。ありがとう」
「まだ付いていました?」
「いや、もう取れているよ」
彼は自分の袖を確かめてから、茶会の招待が来たと話した。アルマンの屋敷で開かれる次の茶会だ。
「ではお会いできますわね。今度はアルマン様の隣からご挨拶したいの」
ブレントは招待の話を止め、彼女の顔を見た。
「婚約を皆にも話すことになったのかな」
「ええ。昨日お約束してくださいましたわ。あなたも見つけたらいらしてね」
「分かったよ。挨拶に行こう」
オデリアが笑うと彼も笑った。犬はもう椅子の下に寝そべっていた。
茶会の前日の朝、アルマンが明日の出迎えを頼みに来た。
「バロウ嬢の家との縁談の始まりなんだ。君にも手を貸してほしいんだよ」
「わたくしとの婚約は、お話しになったの?」
「その話はあとでいいよ。まずは仲良くしてくれるだろう?」
彼が帰ると、オデリアは母へ書いた。婚約者はいないと答えたことも、明日は別の令嬢の縁談を手伝ってほしいと言われたことも省かなかった。明日の前に母から彼へ連絡し、イネスの家へ婚約を知らせるよう促してほしいと頼んだ。
書き損じを避けていたら、便箋はすぐに埋まった。
引き出しには、母の字で宛名を書いた婚約祝いの封書が残っていた。母は挨拶の日、彼女の手を握って喜んでくれた。その手なら頼めると思って使いを出した。
夕方、同じ町の出先から母の書付けが届いた。見慣れた筆跡で娘の名が記され、差出人にも母の名があった。
母は明日の前に連絡するつもりはなかった。婚約を公表する順番は先方に任せ、娘から先に話を広げないよう求めていた。別の縁談の話があっても、アルマンが紹介すると約した茶会までは待つべきだという。娘の訴えより、家同士の面目を先に置いた返事だった。
オデリアは書付けを卓上へ広げたまま、茶会の招待状を隣へ置いた。
「イネス様には、わたくしからお話しします」
返事をもう一通頼むための便箋は出さず、明日持っていく手袋を選んだ。
手袋を重ね終えた頃、アルマンが再び訪ねてきた。翌日の出迎え順を確かめたいという。
オデリアは母の書付けを引き出しにしまい、向かいに座った。
「バロウ嬢が着いたら君から話しかけてくれるかな。前にも一緒にいたし、その方が気楽だろう?」
「何をお話しすればよろしいの?」
「僕のことだよ。君なら良いところもよく知っているだろう。気難しくないと教えてあげてほしいな」
オデリアの指が手袋の端を押さえた。
「わたくしが、あなたとの結婚をお勧めするの?」
「そんな大げさなことじゃないよ。庭の方へ案内して、僕と話せるようにしてくれればいいんだ」
「お二人だけにするために?」
彼女が笑っていないことに気づくと、アルマンは声を和らげた。
「その顔はやめてくれよ。君まで機嫌を悪くしたら困るだろう? 婚約者なんだから手を貸してくれてもいいじゃないか」
その呼び名を人前でも言ってほしかった。
オデリアは手袋から指を離した。母の返事を彼へ見せるつもりも、もう一度だけ待ってみるつもりもなかった。
「今のお願いは聞きました。お返事は、明日わたくしからします」
「頼むよ。皆のいる場所では明るくしていてくれよね」
彼は彼女の返事を待たずに立った。オデリアは見送りを済ませ、手袋を招待状の隣へ置いた。
茶会当日、モップは実家の庭に残った。門まで追ってきた犬が引き返すのを見届け、オデリアはブレントと歩きだした。
隣家の子爵家の跡取りである彼も、同じ会に招かれている。二人で歩ける道なのに、彼女はこれまでアルマンの屋敷へは別々に出掛けていた。
「あら。そちらにも付いていますわ。これではお二人でいらしたようね」
彼の肩に残った毛を取ると、ブレントも彼女の袖を指した。
「僕より目立たないといいけど。君の方にも来ているよ」
「まあ、いつの間に」
袖を差し出して取ってもらう。犬は庭へ戻ったのに、二人とも少しずつ連れて歩いていた。
「今日はイネス様へ、わたくしから名乗ります」
オデリアは前を向いて言った。
「婚約のことも?」
「ええ。先にお伝えしたいのです。途中で黙ってしまったら、待っていてくださる?」
「待つよ。僕はどこにいればいいかな」
「同じ広間に。ご挨拶には自分で行きますわ」
彼は歩幅を彼女へ合わせた。門が見えてきても先へ出なかった。
広間には既に客が集まっていた。庭へ続く扉のそばにイネスが座っている。オデリアが近づくと、彼女は卓上に置いた手を引いて場所を空けた。
「メルロー様。先日はありがとうございました。襟を直していただいて助かりました」
「今日は綺麗に収まっていますわ。わたくしもお帽子を確かめてから参りましたの」
イネスが自分の襟へ触れて笑った。
「今日は少し伺いたいことがあるのです。わたくしがこちらへ参ったのは——」
アルマンが二人の間へやって来た。イネスの話を待たず、庭に席を用意したと告げる。
「バロウ嬢、先に庭を見てみようか。メルロー嬢も案内を手伝ってくれるよね」
オデリアは彼の袖へ指を添えた。こちらにも話があると知らせるためだった。彼は頷いたが、振り向かなかった。
アルマンが手を差し出した。イネスを庭へ案内するつもりらしい。
オデリアはその間へ入った。
「わたくしがご紹介します」
「助かるよ。バロウ嬢も緊張しているようだからね」
「オデリア・メルローと申します。アルマン様とは両家の承知で婚約しております」
イネスの手が止まった。差し出された男の手には重ねず、膝の上へ戻した。
「ご親戚ではなく、婚約者でいらっしゃるのですか」
「ええ。ご存じでしたら申し訳ありません。ただ、わたくしの前でも婚約者はいないとお答えになるので」
隣の卓で椅子を引きかけた客が腰を戻した。庭へ続く扉の前で、使用人が盆を持ったまま足を止めている。
「オデリア。まだ公表しないと決めただろう?」
「わたくしはもう他人のふりは嫌だと申し上げましたわ」
「だから今日だけだよ。バロウ嬢のお父上との話もあるんだ。君ならうまく説明してくれるだろう?」
その顔を見て、オデリアは肩の力を抜いた。
好きだった人に縁談の世話を頼まれている。引き受けたまま横に立つほど、彼女は器用になりたくなかった。
「わたくしには最初、新しいお友達を迎える茶会とおっしゃいましたわね。イネス様には、どのように?」
「婚約者のいない方との顔合わせだと伺いました」
イネスがアルマンへ向き直った。
「今日のお話はお断りします。父へはわたくしから伝えます」
「待ってくれ。家同士のことだよ。ここで決めるような――」
「わたくしとの婚約も終わりにしてください」
オデリアは彼の袖から指を離した。
さっきまで自分の位置を知らせるために、そっと触れていた。もう引っ張って振り向かせなくていい。そのことが思ったより寂しくて、それ以上に腹立たしかった。
「本気なのかい? 君は僕と結婚したかったんだろう」
「ええ。でも、ほかの方とのお見合いを手伝いたかったのではありませんわ」
イネスが立ち、庭へ続く扉から離れた。
アルマンはもう一度オデリアの方を見た。彼女は隣の卓へ椅子を運び、イネスと向き合って座った。
男の手が、二人分の空席の間へ下がった。「待ってくれよ。せめて僕の口から説明させてくれないか」
アルマンは卓の端まで来て、二人を呼び止めた。
「そのお口から伺ったのですわ。わたくしにもイネス様にも、別のお話をなさいましたね」
「だから君のご両親には、僕が先に——」
「父と母には、わたくしから伝えます。あなたから先に頼まれても変えません」
オデリアが彼を見ると、アルマンは言いかけた口を閉じた。
隣卓の客が、自分の卓へ椅子を引き戻した。彼のために空けていた場所が埋まる。アルマンは立ったまま、庭の扉へ目をやった。
イネスはそちらを見なかった。
「メルロー様にお話しできてよかったです。何も知らないままお返事をするところでした」
「お引き止めしてよかったわ。お茶はこちらでよろしいかしら」
オデリアが空いた杯を示すと、イネスはそれを自分の方へ寄せた。
ブレントは別の卓にいた。彼女が顔を上げると、挨拶を待って小さく会釈した。
帰宅したオデリアは、両家へ婚約の解消を申し入れる手紙を書いた。公表を待っていた事情と、茶会で何が起きたかも自分で記した。
書き終えると指輪を外した。先月は彼と歩く日のために選んだ服もあった。その楽しみまで嘘だったことにはしたくない。
手紙に署名をして使いへ託した。
数日後、レセル家から解消を了承する書状が届いた。オデリアは署名と日付を確かめ、控えの手紙と一緒に保管した。もう返答を待つ婚約はなかった。
その日の午後、イネスが訪ねてきた。
庭へ案内すると、モップがオデリアの裾から顔を出す。イネスは足を止め、まず彼女へ確かめた。
「撫でてもよろしいでしょうか」
「もちろん。モップですの。お靴はよく守ってくださいね」
「お靴を?」
「お気に入りを見つけると、そのまま遊びたくなるようですわ」
鼻先を寄せられたイネスが、靴を引かずに笑った。
「今度の茶会は我が家で開きます。メルロー様にもいらしていただきたいのですが」
「ぜひ伺いたいわ。ご一緒に行きたい方がいるのですけれど、お誘いしても?」
「どなたでしょうか」
オデリアは隣家へ使いを出した。しばらくして庭へ来たブレントは、いつものように先に犬を見つけた。
「モップはもう挨拶を済ませたのかな」
「ええ。今度はあなたの番ですわ」
オデリアはイネスへ向き直った。
「わたくしがご紹介します。ご一緒に来ていただきたい方ですもの。ブレント・ウォード様です」
「ウォード様にもご都合を伺ってよろしいでしょうか」
イネスの問いに、彼はオデリアを見た。
「僕が? 犬の付き添いなら、茶会には……」
「あなたをお誘いしているのよ。わたくしがご一緒したいのです」
言ってみると、頬が熱くなった。彼の上着の毛へ目を逃がしかけ、オデリアは自分で顔を上げた。
「ブレント様はいかが?」
「僕も君と行きたいよ。モップは留守番でも」
「まあ。先に二人で出掛けて、お許しをいただきましょうか」
彼も笑った。モップは足元で欠伸をしていた。
イネスは二人の返事を受け取り、日取りを確かめて帰っていった。
庭に戻るとブレントが椅子へ手をかけた。
「こちらへ寄せてもいいかな。服の色を相談したくてね」
「わたくしも同じことを考えていましたの」
オデリアは自分の椅子も動かした。隣り合って座ると、肘を少し動かすだけで彼の袖に触れた。
「青い服にしようと思うの。あなたの上着には合うかしら」
「それなら僕も青にしようか。濃い方の上着があるから」
「モップの毛が目立ちますわよ」
「そこは出掛ける前に取ってもらえるかな」
「ご自分でも確かめてくださいまし。わたくしばかりでは不公平ですもの」
「君の袖は僕が見るよ。それならどうかな」
オデリアはブレントの肩に残った毛を一つ取り、自分の袖へ付けて笑った。




