第9話:背伸びした純情と、月ではなく太陽の似合う君へ
日曜日、午前十時。
駅前の待ち合わせ場所に現れた淳志は、休日の三十四歳らしい、清潔感のあるジャケットに身を包んでいた。
「小林さん!……あ、いや、淳志さん!」
いつもはTシャツにエプロン姿のミクが、今日は少し背伸びをした大人っぽいワンピースを着て、ブンブンと手を振っている。
だが、その隣には見知らぬ女子高生と、茶髪の大学生とおぼしき若い男が立っていた。
「ミクちゃん。この状況は、一体……?」
「ご、ごめんなさい! ちょっとこっち来て!」
淳志の袖を引っ張り、少し離れた場所に移動したミクは、真っ赤な顔で両手を合わせた。
「実は……この前助けてもらった友達のリカが、『あのイケメン紹介して!』ってうるさくて。つい見栄を張って『あの人は私の彼氏だからダメ!』って言っちゃったんです。そしたら、前から私にちょっかい出してきてた先輩のダイキさんまで『じゃあ俺も行く』って言い出して……」
「なるほど。カオスだな」
状況は完全に理解した。
リカは淳志を狙い、大学生のダイキはミクを狙っている。そして当のミクは、引っ込みがつかなくなっている。
五億の資産を運用し、イタリアの裏契約までまとめる男の休日としては、あまりにも可愛らしくて平和なトラブルだった。
「わかった。今日一日、彼氏のフリをすればいいんだね?」
「うぅ……本当にごめんなさい……パパ活じゃないですからね!」
そうして始まった、奇妙な四人でのダブルデート。
映画を観て、ボウリングを楽しんだ後、一行はダイキの提案で少し高めのイタリアンレストランに入った。
「ここは俺の行きつけなんすよ。ミクちゃん、好きなもの頼んでよ」
ダイキは淳志に対抗心を燃やしているらしく、やたらとリードしようと必死だった。
しかし、お会計の段になって事件は起きた。
「えっ……ウソだろ、カード止まってる……?」
レジ前で、ダイキの顔面からサァーッと血の気が引いていくのが見えた。
どうやら限度額を超えていたらしい。財布の中身を見つめ、脂汗を流して震えているダイキ。後ろではミクとリカが不思議そうにこちらを見ている。
このままでは、ダイキは狙っている女の子たちの前で取り返しのつかない恥をかくことになる。
淳志は小さく息を吐き、誰にも見えない角度で、ダイキの手にスッと数枚の一万円札を握らせた。
「え……?」
「今日は楽しかったよ、ダイキくん。お店のチョイスも最高だった。ここは年長の俺に、カッコつけさせてくれないか?」
淳志は『言語理解』で読み取った「ダイキの崩れかけたプライド」を一切傷つけないよう、あくまで「自分が奢りたかった」という体裁で彼を救い上げた。
ダイキは握らせられたお札と、淳志の穏やかな笑顔を交互に見つめ、その瞳にみるみると涙を浮かべた。
「あ、兄貴……!! ありがとうございます……ッ!!」
その後、すっかり淳志に懐いてしまったダイキが、空気を読んでリカを強引に連れ帰ったことで、ダブルデートは解散となった。
すっかり日の落ちた帰り道。
淳志とミクは、二人きりで駅への道を歩いていた。
「淳志さん、今日は本当にありがとうございました。ダイキ先輩のことまで……大人ですね、やっぱり」
「いやいや。俺も若い頃はよくカード止まって焦ったからさ」
笑って誤魔化す淳志の横顔を、ミクは歩きながらじっと見つめていた。
スマートな振る舞い、誰のことも傷つけない包容力。隣を歩いているだけで、胸の奥がキュッと締め付けられるように痛い。
ミクは足を止め、俯いたまま淳志のジャケットの裾をギュッと握りしめた。
「……淳志さん」
「ん?」
「私……今日は、帰りたくないです」
静かな夜の道。
それは、女子高生である彼女が勇気を振り絞った、精一杯の「背伸び」であり、女としての誘いだった。
だが、振り返った淳志の表情には、焦りも、動揺も、そして欲情も一切なかった。
そこにあったのは、ひたすらに優しく、残酷なまでの「大人の眼差し」だった。
淳志は少しだけ身を屈め、ミクの茶色い髪をポンポンと優しく撫でた。
「……ミクちゃんは、まだ月よりお日様が似合うかな」
その言葉は、拒絶だった。
自分が彼女を「女」としてではなく、「守るべき日向の子供」としてしか見ていないという、明確な線引き。
夜の月明かりのような大人の世界には、まだ君を連れて行くわけにはいかないという、圧倒的な優しさだった。
「……っ」
ミクはハッとして、淳志の手のひらの温もりを感じながら、自分の「背伸び」がどれほど子どもじみていたかを悟った。
「……送りますよ、お姫様」
「……はい」
――その夜。
自室のベッドに倒れ込んだミクは、真っ暗な天井を見つめていた。
頭を撫でられた時の手の大きさ。ダイキを救った時の余裕のある笑顔。そして、自分に向けられた、子どもを見るような優しい瞳。
「あぁ……」
目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
戦うことすら許されなかった。最初から、自分は彼の隣に立つ選択肢にすら入っていなかったのだ。
「私……淳志さんのこと、本当に好きだったんだ」
ギュッと枕を抱きしめる。
これが恋だ。そしてこれが、失恋なんだ。
ミクは声を殺すこともできず、部屋の中で一人、子どものようにしゃくりあげて泣き続けた。
翌日。
淳志は、少し気まずい思いを抱えながら、いつもの焼き鳥屋の引き戸に手をかけた。
もし彼女が傷ついて店を休んでいたらどうしようか。そんな不安がよぎる。
ガラガラ、と扉を開ける。
「あ、淳志さん!!」
カウンターの奥から、元気な声が飛んできた。
目を少しだけ赤く腫らしたミクが、いつも通りの、いや、昨日まで以上に明るい、満面の笑顔で立っていた。
「今日、大将いないから……味噌おでん、ありますよ!」
失恋しても、打ちのめされても。
この人との温かい居場所だけは、絶対に失いたくない。
その健気で力強い笑顔に、淳志はふっと肩の力を抜き、いつもの指定席へと腰を下ろした。
「じゃあ、とりあえず生と……大根、もらえるかな」
「はーい! 喜んで!」
店内に、いつもと変わらない賑やかな笑い声が響く。
無敵の力を持つ男と、太陽のように笑う失恋したばかりの少女の、新しい日常がそこにあった。




