第8話:有能すぎる課長と、看板娘からの唐突なお誘い
イタリア出張から三ヶ月。
淳志の社内での立ち位置は「目立たないが、実は語学堪能な有能社員」としてすっかり定着し、平和な日常を送っていた。
だが、その一方で社内は別の噂で持ちきりになっていた。
「ねえ、桜井課長、絶対年下の彼氏とかできたよね!?」
「わかる! 最近エステとかそういう次元じゃないくらい肌ツヤいいし、なんかすごく……色っぽいっていうか」
給湯室で後輩の女子社員たちが興奮気味に囁き合っているのを、淳志はコーヒーを淹れながら背中で聞いていた。
彼女たちの言う通りだ。週に一度、淳志との秘密の逢瀬を重ねた香織は、不自然な若返りこそないものの、四十八歳という年齢における「細胞レベルでの最高コンディション」を完全にキープしていた。
だが、香織はその溢れる活力と女性としての余裕を、決して恋愛に溺れる方向には使わなかった。
『小林くん、この資料のイタリア語部分、少しニュアンスの確認をお願いできるかしら』
『はい、承知しました。課長』
彼女は本来持っていた実力を百二十パーセント発揮し、現在立ち上げ中の新規海外拠点のプロジェクトリーダーとして、激務を涼しい顔でバリバリとこなしている。
すれ違いざま、淳志にだけわかるように書類の影でフッと色気のある微笑みを向け、すぐに仕事の顔に戻っていく。
その「自立した大人の余裕」が、淳志にとっても最高に心地良い関係だった。
一方、淳志自身のプライベートも、着実に、しかし「彼なりのペース」で向上していた。
休日は『転移』を使って海外のカジノへ飛び、適度に負けを散らしながら小銭(と言っても数百万単位だが)を稼ぐ。
平日は『言語理解』のスキルを使い、パソコンの画面越しに株のチャートや世界中のニュースの「声なき動向」を読み取り、手堅く資産を増やし続けていた。
すでに普通預金の残高は億に届いていた。
株式や仮想通貨などの資産は5億を超えている。
だが、淳志は港区のタワーマンションになど引っ越さなかった。
今の彼には、見晴らしの良い高層階のラウンジも、コンシェルジュのサービスも必要ない。選んだのは、会社から徒歩十分の場所にある、少しだけグレードの高い新築の2LDKだ。
通勤の満員電車から解放され、広めのシステムキッチンと足を伸ばせる風呂がある。三十四歳まで平凡な営業マンとして生きてきた淳志にとって、それこそが地に足の着いた、最高の「贅沢」だったからだ。
香織が海外プロジェクトで多忙を極め、なかなかデートの時間が取れない最近の平日。
淳志の密かな楽しみは、退社後にふらりと立ち寄る、帰り道の路地裏で見つけた赤提灯の焼き鳥屋だった。
「いらっしゃい、小林さん! 今日もお仕事お疲れ様です!」
ガラガラと引き戸を開けると、元気な声が飛んでくる。
声の主は、この店でアルバイトをしている女子高生の『ミク』だ。茶髪を後ろで無造作に束ね、小柄ながらもよく動く彼女は、常連客たちのアイドル的な存在だった。
「おう、ミクちゃん。今日もとりあえず生で」
「はーい! あ、今日大将いないから、例のやつ出せますよ!」
ミクがカウンター越しに、いたずらっぽくウインクをする。
この店は焼き鳥屋だが、おでんも出している。淳志が足繁く通う最大の理由は、大将が不在の時や通常のおでんが売り切れた時にだけ、こっそりと裏メニューで出してくれる特製の『味噌おでん』の存在だった。
甘辛い味噌の香りが染み込んだ大根と牛すじをアテに、ビールを流し込み、ミクの他愛のない学校の愚痴や常連客の笑い声を聞く。
異能の力で億を稼ぐ男になっても、この安上がりで温かい時間が、淳志は何よりも好きだった。
――そんな平穏な日々が続く中、ある休日の午後のこと。
淳志が新しい部屋の家具を探しに都内の繁華街を歩いていると、少し先の路地で揉め事が起きているのが見えた。
「Hey, come on! Let's go drink!」
「いや、だから無理ですって! 英語わかんないし、手離して!」
見覚えのある茶髪。焼き鳥屋のミクと、その友人の女子高生が、体格の良い外国人観光客の男二人に強引にナンパされ、腕を掴まれていた。
ミクは必死に抵抗しているが、相手の男たちは「照れてるだけだ」と勘違いしてニヤニヤ笑っている。
淳志は小さくため息をつき、足早に彼らの間へと割って入った。
「Excuse me. They clearly said no. Let go of her arm.(失礼。彼女たちは嫌がっている。腕を離せ)」
淳志の口から出たのは、低く、しかし絶対的な圧力を伴ったネイティブの発音だった。
『言語理解』を通して相手の呼吸と脈動を読み切り、最も相手が「マズイ、こいつは本物のヤバい奴だ」と本能で警戒するトーンと声量で、言葉を叩きつける。
「Oh... sorry, man. We were just joking.(お、おう……悪かったよ、ちょっと冗談のつもりで……)」
淳志の凄みに気圧された男たちは、慌てて手を離すと、逃げるように人混みへと消えていった。
「大丈夫だったか? ミクちゃん」
「こ、小林さん……!?」
振り返った淳志を見て、ミクは目を丸くしていた。
いつもカウンターの隅で味噌おでんをつつきながらニコニコしている、地味で人の良さそうな常連のサラリーマン。その彼が、まるで映画俳優のような流暢な英語で、大柄な外国人を一瞬で追い払ったのだ。
ミクの瞳に、明らかに『尊敬』以上のキラキラとした光が宿ったのを、淳志はまだ気づいていなかった。
そして、週明けの月曜日の夜。
いつものように仕事帰りに焼き鳥屋の暖簾をくぐった淳志に向かって、カウンターの中からミクが身を乗り出すようにして、とんでもない爆弾を投げつけてきた。
「小林さん!! 今度の日曜日、私とデートしてください!!」
「……ぶっ!?」
飲んでいたビールを危うく吹き出しそうになりながら、淳志は激しく咳き込んだ。
常連客たちが「おおっ!?」と面白そうに囃し立てる中、淳志は三十四歳という年齢と、自分の社会的立場を必死にフル回転させた。
「い、いやミクちゃん。パパ活で捕まるとかはちょっと……」
「だーれーがパパ活ですかあああ!!」
バンッ!とカウンターに手をつき、ミクが淳志のワイシャツの胸倉を思い切り掴んでガクガクと揺らす。
「純・粋・な! お誘いです!! 日曜日、駅前で十時に待ってますからね!!」
「えええええええ……」
平和な日常を愛する無敵のサラリーマンの休日は、どうやらまたしても、平穏とは程遠いものになりそうだった。




