第7話:【月が綺麗ですね】美魔女課長の涙と、最強の健康バフ
会議室でのイタリア語の一件以降、淳志の社内評価は少しだけ、いや、劇的に変わった。
『実はお前、帰国子女か何かか!?』と詰め寄る課長や同僚たちに対し、淳志は用意していた長めの言い訳を披露した。
「いや、実は昔から英語なんかでもすぐにコツを掴めるタチでして。小学校の頃には結構いろんな言葉を片言で理解できてたんですけど、親や先生にバレて『そういう特別な学校に行け』とか言われるのが面倒で、ずっと内緒にしてたんです。でも最近はネットでいろんな国の言葉や動画を探せるから、趣味と実益を兼ねて独学で学んでるんですよ」
この「才能がバレて面倒なことになるのが嫌だった」という、いかにも事なかれ主義な淳志らしい理由に、周囲は妙に納得してしまった。
結果、淳志は「普段は目立たないが、実は語学の天才で超優秀な男」という、会社員として最高に居心地の良いポジションにすっぽりと収まることになったのである。
そして数週間後。淳志はあの大型契約をまとめた功績を買われ、イタリアの家具メーカー本社への視察と本契約の出張を命じられていた。
同行するのは、直属の上司である四十八歳の課長だ。
バツイチで子供はすでに独立している彼女は、社内でも有名な「美魔女」であり、仕事には厳しいが部下思いの優秀な女性だった。
だが、イタリアのメーカー本社に到着した二人が見たのは、歓迎の宴ではなく、ロビーで繰り広げられている激しい口論だった。
「どういうことですか! 我々が先に契約の打診をしていたはずだ!」
「ノー! だから、そのロット数では品質が担保できないと言っているだろう!」
中国系の商社マンたちが、イタリアの担当者相手に英語と中国語を交えて怒鳴り散らしている。どうやら、納期の認識とロット数の問題で激しい行き違いが起きているらしい。
課長がオロオロとする中、淳志の『言語理解』は、中国企業側の社長と部下がヒソヒソと交わしている焦りの本音まで正確に拾い上げていた。
(なるほど。あっちの中国商社も、本国の大口顧客を待たせてて引くに引けない状況なのか)
淳志はスッと両者の間に割って入った。
「Excuse me.(失礼します)」
滑らかな英語でイタリア側の担当者を落ち着かせると、今度は中国企業の社長に向き直り、完璧な北京語で語りかけた。
「社長、お困りのようですね。御社の顧客が求めているのは『最高品質のイタリア家具』であって、急ごしらえの粗悪品ではないはずです」
「な、君は……! なぜ北京語が……!」
「もし納期でお困りなら、我々が押さえているコンテナの空き枠を一部融通することも可能です。その代わり、今回のロット調整には応じていただけませんか?」
さらに、横で不満げな顔をしていた広東省出身の部下には、流暢な広東語で「あなたの上司の顔を立てるためにも、ここは引くべきだ」と説得を重ねる。
英語、北京語、広東語。
三つの言語を一切のラグなくシームレスに切り替え、それぞれの文化に合わせた絶妙なニュアンスで交渉を進める淳志の姿に、その場にいた全員が圧倒された。
結果として、両者の顔を立てる見事な落とし所が見つかり、トラブルは嘘のように雲散霧消した。
「マンマ・ミーア……君は魔法使いか?」
一部始終を見ていたイタリアメーカーのCEOが、感嘆の溜息を漏らす。
そして淳志のずば抜けた手腕と誠実さに惚れ込み、「君の会社になら任せられる」と、これまでイタリア国外には一切出していなかった最高級の限定チェアの独占輸入権まで付与してくれたのだ。
営業として、これ以上ないほどの大金星だった。
その日の夜。
宿泊している高級ホテルのバーで、課長はワイングラスを傾けながら、ひどく酔っていた。
「……私の出る幕、全然なかったじゃない」
自嘲気味に笑い、グラスの縁をなぞる彼女の指先が微かに震える。
淳志は優しく彼女を宥め、酔い潰れかけた身体を支えながら最上階の彼女の部屋へと連れて行った。
ベッドに寝かせようとした淳志の袖を、課長が弱々しい力で掴む。
「私は……母親としても、仕事でもダメで……女としても終わった人間だわ……」
ポロリと、化粧の乗った頬を涙が伝った。
普段の厳しい上司の顔が崩れ、そこにあるのは、一人の孤独で脆い女性の姿だった。
泣きじゃくる彼女を見て、淳志は静かに部屋の照明を落とし、カーテンを少しだけ開けた。
イタリアの美しい月明かりが、部屋の絨毯に銀色の道を作る。
淳志は彼女の前に膝をつき、まるで映画のワンシーンのように、優雅に手を差し伸べた。
「課長。……踊りませんか」
「えっ……?」
戸惑う彼女の手を引き、淳志は月明かりの中でゆっくりとステップを踏む。
三十四歳の逞しい腕に抱かれ、穏やかな鼓動を聞いているうちに、課長の涙は不思議と止まっていた。
窓の外を見つめながら、淳志はふと、誰に言うともなく囁いた。
「……月が綺麗ですね」
課長はハッとして、淳志の顔を見上げた。
教養のある彼女が、その言葉の意味を知らないはずがなかった。夏目漱石が英語教師時代に『I love you』をそう訳したという、あまりにも有名な、そしてロマンチックな愛の言葉。
女として終わっていると嘆いた自分に、目の前の有能で若い部下は、最上級の敬意と愛情を持って答えてくれたのだ。
課長の瞳から再び涙が溢れ、今度は嬉しそうに微笑んだ。
「……私もよ」
背伸びをして、淳志の唇を塞ぐ。
月明かりの下、二人は重なり合うようにして、広いベッドへと倒れ込んだ。
翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ました課長は、隣でスヤスヤと眠る淳志の寝顔を見て、昨夜の情熱的な記憶に頬を染めた。
そっとベッドを抜け出し、バスルームの鏡の前に立つ。
「あれ……?」
鏡を見た瞬間、彼女は小さく首を傾げた。
あんなに泣いて、お酒もたくさん飲んだのに、身体が羽のように軽い。
それに、いつもなら気になっていた目尻や口元の小ジワが、驚くほど薄くなっている気がする。肌のハリも良く、化粧水が吸い込まれるように馴染んでいく。
(なんだか今日、すごく調子がいいかも……)
不自然なほど劇的な変化ではない。だが、間違いなく昨日までの疲労感は消え去り、女性としての自信を少し取り戻せるような、心地よい変化だった。
淳志という規格外の「怪物」と交わり、その体液(生命力)を取り込んだことで、彼女自身に凄まじい「健康バフ」がもたらされ始めていることなど、知る由もない。
これが週に一度の逢瀬を重ね、三ヶ月も経つ頃には、社内で「課長、彼氏でも出来たのかな? 最近すごく綺麗だね」と噂されるほどの『四十八歳女性としての細胞レベルの最高コンディション』に仕上がっていくのだが、それはまた別の話である。
「おはようございます、課長。……いや、今は名前で呼んだ方がいいですか?」
バスルームのドアに寄りかかり、淳志が優しく微笑んでいる。
課長は胸の奥が甘く締め付けられるのを感じながら、満面の笑みで彼のもとへと駆け寄った。
イタリアの朝日は、少しだけ若返った彼女を優しく照らしていた。




