第6話:平和な職場で平穏に過ごしたいのに、チートが隠しきれない件
五連休が明けた、月曜日の朝。
都内にある中堅商社のオフィスに、小林淳志が出社した瞬間、フロアの空気がわずかに止まった。
「おはようございます」
淳志がいつものように挨拶をして自分のデスクに向かうと、周囲の視線が一斉に突き刺さるのを感じた。
「……えっ、ちょ、小林さん? なんか今日、めちゃくちゃカッコよくないですか……?」
隣のデスクの後輩女子が、目を丸くして身を乗り出してきた。
さらに斜め向かいの同期の男までもが、持っていたコーヒーカップを置いてまじまじと淳志を見つめる。
「お前、休み中に何があったんだよ。肌ツヤ良すぎだろ。それにそのスーツ、前から着てたやつか? なんかオーダーメイドみたいにビシッとしてるぞ」
(……来たか)
淳志は内心で冷や汗をかきながらも、休日の間に用意しておいた「言い訳」を、営業スマイルと共に引き出しから引っ張り出した。
「いやいや、大げさだな。連休で北海道の実家に帰ってたんだけどさ、元エステティシャンの姉貴に捕まって、新しいマッサージの練習台として文字通り揉みくちゃにされたんだよ。おかげで顔のむくみも取れて、姿勢まで強制矯正されたみたいでさ」
「へえー! お姉さんすごい! ゴッドハンドじゃないですか!」
「なるほどな、どうりで毒気が抜けたような爽やかな顔してると思ったわ」
周囲は「そういうことか」と納得し、笑い声と共に日常の業務へと戻っていった。
淳志はホッと息を吐いてPCを立ち上げる。
(危ない危ない。とりあえず誤魔化せたな……)
この会社には、ドラマに出てくるような陰湿な派閥争いも、理不尽に怒鳴り散らすような上司もいない。
給料もそこそこで、人間関係も良好。淳志はこの居心地の良い職場を結構気に入っていた。だからこそ、自分の「異常性」でこの平穏な日常を壊したくはなかった。
だが、手に入れてしまった『言語理解』のスキルは、淳志の意思とは無関係に、周囲の「声なき声」を拾い上げてしまう。
(ん……?)
少し離れた席にいる課長が、眉間を微かに抑えている。
普通の社員なら気にも留めない些細なしぐさだが、淳志の脳には『軽い頭痛・昨夜の深酒による疲労』という情報が、まるで字幕のようにハッキリと読み取れた。
淳志はさりげなく給湯室へ向かい、温かいお茶を淹れて課長のデスクに置いた。
「課長、少しお疲れのようだったので。濃いめのお茶です、どうぞ」
「おっ、サンキュー小林。いやあ、実は昨日飲みすぎちゃって頭が痛くてな。お前、よくわかったな。助かるよ」
さらに、資料作成に行き詰まってため息をついている後輩には、相手がどこで悩んでいるか(PCの画面上のわずかな視線の動きで)瞬時に把握し、「ここの数字、昨年のデータ引っ張ってくると早いよ」と的確にアドバイスを送る。
「小林さん、神ですか……! ありがとうございます!」
(いかん。目立たないようにするつもりが、無駄に好感度を上げてどうする)
スペックが高すぎるが故に、無意識のうちに完璧な立ち回りをしてしまう。
淳志は苦笑いしながら、なんとか「気の利く中堅社員」の枠に収まるよう、適度に力を抜きながら午前中の業務をこなした。
そして午後。
淳志たちの部署は、イタリアの老舗家具メーカーとの大型輸入契約を結ぶための、重要なオンライン会議に臨んでいた。
画面の向こうには、恰幅の良いイタリア人役員。
こちら側には課長、担当の淳志、そして会社が手配した外部の通訳が同席している。
交渉は順調に進んでいるように見えた。
だが、契約の最終確認の段階で、イタリア人役員が笑顔で流暢なイタリア語をまくしたてた時だった。
『――というわけで、品質保証の期間についてはこの条件で。初期不良の対応は我々が全面的にバックアップしますよ』
通訳の女性がそう日本語に訳し、課長が「素晴らしい、それでいきましょう」と頷きかけた瞬間。
淳志は「ちょっと待ってください」と、課長の言葉を手で遮った。
(……今のは、違うぞ)
淳志の『言語理解』は、イタリア人役員の言葉の裏に隠された、極めて巧妙な「ニュアンス」を正確に翻訳していた。
通訳は「初期不良の対応は全面的にバックアップする」と訳したが、実際のイタリア語の言い回しは『製造上の明らかな欠陥が(イタリア側の基準で)証明された場合に限り、部品の提供のみを行う』という、極めて限定的でこちらに不利な条件へのすり替えだったのだ。
「小林? どうしたんだ急に」
怪訝な顔をする課長を横目に、淳志はマイクに向かって口を開いた。
「Scusi, signore.(失礼します)」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
淳志の口から飛び出したのは、ネイティブすら舌を巻くほど完璧な発音とイントネーションを持った、洗練されたビジネス・イタリア語だった。
「品質保証の件ですが、今の表現ですと『部品の提供のみ』に限定される余地が残りますよね? 我々としては、日本の顧客を守るためにも、代替品の即時発送までを含めた包括的な保証をお願いしたいのです」
『な、なんだと……!? 君、イタリア語がわかるのか!?』
画面の向こうで、イタリア人役員がギョッと目を見開く。
淳志は営業スマイルを崩さず、相手の微細な表情筋の動きと脈動を読み取った。
相手は焦っているが、決してこの取引を破談にするつもりはない。妥協の余地は十分にある。ここが、押し込み時だ。
「御社の素晴らしい製品を日本市場で展開するために、我々も全力を尽くします。だからこそ、お互いにリスクを共有する、この条件でいかがでしょう?」
淳志は『言語理解』で読み取った相手の「絶対に譲れないライン」のギリギリ手前を突く、完璧な折衷案をイタリア語で提示した。
数秒の沈黙の後、イタリア人役員はふっと表情を和らげ、画面越しに深く頷いた。
『……ブラボー。君のような優秀な交渉人がいるとは驚いた。わかった、その条件でサインしよう』
会議が終わり、通信が切れた直後。
日本の会議室には、重い沈黙が降りていた。
課長、後輩、そしてプロの通訳までもが、幽霊でも見るような目で淳志を見つめている。
「……こ、小林」
「はい」
「お前、いつの間にあんな……マフィアの交渉人みたいな、完璧なイタリア語ペラペラになったんだよ!?」
課長の叫び声に、淳志は頬を引きつらせた。
やらかした。会社への不利益を見過ごせなくてつい前に出てしまったが、ただでさえ「肌ツヤが良くなって垢抜けた」と騒がれていたのに、これでは完全に別人と疑われてしまう。
「あ、いや……その」
淳志は必死に脳を回転させ、口から出まかせを放った。
「五連休、ちょっと暇だったんで……イタリア映画とか見て勉強してたら、なんかスッとコツを掴みまして」
「五日で掴めるコツじゃねえだろ!!」
課長のツッコミが会議室に響き渡る。
どうやら、最強の力を持った男の「目立たず平穏なサラリーマン生活」は、初日から前途多難のようだった。




