第5話:完璧な身分偽装と、震え上がる裏組織
ラスベガスでの「検証」から帰還した淳志は、六畳一間のアパートでノートパソコンを開いていた。
証券口座で運用している資金が約一千万円。すぐに動かせる普通預金が二百万円。
大学を卒業して中堅商社に入り、三十四歳まで独身で営業をやっていれば、まあこれくらいは貯まる。
家賃の安い部屋に住み、趣味や遊びにはそれなりにお金を使ってきたが、無駄遣いさえしなければ順調に資産は増えていくものだ。
だが、これからは「資金」の稼ぎ方も桁も根本から変わってしまう。
それに、金がいくらあっても現代社会では「身分」と「記録」が追いつかなければ意味がない。
「……万が一の時に使える『他人名義』の履歴が必要だよな」
『転移』を使えば、パスポートコントロールを完全に無視して世界中どこへでも行ける。
だが、もし海外のホテルで身分証の提示を求められたり、現地の警察に職務質問されたりした時、データ上もパスポート上も「入国記録がない」となれば、一発で不法入国者として拘束されてしまう。
いくら無敵の力があっても、社会的なコンプライアンス違反で捕まるのは御免だ。
淳志はブラウザを立ち上げ、以前からネットサーフィンの延長で覗き見していた「裏のネットワーク」へとアクセスした。
これまでは物見遊山で眺めるだけで、英語やロシア語のスラング、暗号化されたハッシュタグの羅列に手出しはできなかった。
しかし今は違う。
(……読める。めちゃくちゃハッキリ読めるぞ)
『言語理解』のスキルは、高度に暗号化された裏サイトの隠語すらも、まるで日本語のビジネスメールのように翻訳して淳志の脳内に届けてくれた。
詐欺サイトの巧妙な嘘もテキストのニュアンスから見抜き、淳志は東南アジアを拠点とする、確実で腕の立つ裏組織のフォーラムへと辿り着いた。
発注したのは、実在しない架空の人物名義の精巧な偽造パスポート(日本と韓国の二カ国分)と、各国の出入国管理で使われるスタンプの印章データ、および専用の特殊インクだ。今はスタンプを押さない電子ゲートの国も増えているが、アナログな記録を持っておいて損はない。
『納期は三日だ。代金は指定のウォレットへ振り込め』
『了解した。三日後、直接受け取りに行く。代金はキャッシュで払う』
掲示板での短い商談を終え、淳志はパソコンを閉じた。
さて、納期までの三日間。家でじっとしている手はない。
「スタンプが要らない国で、カジノがある場所……マカオか、韓国あたりで時間を潰すか」
淳志は『転移』を使い、まずはマカオへと飛んだ。
きらびやかな巨大カジノで、ベガスと同じように「ハウスとの勝負」に徹する。言語理解でディーラーの呼吸を読み、適度に負けを散らしながら、一回十万から二十万円の勝ちを拾っていく。
夜は、高級ホテルのラウンジで出会った艶やかな中華系の美女とグラスを傾けた。
彼女の流れるような広東語も、甘い囁きも、淳志はすべて理解し、完璧な発音とトーンで応えながら、マカオの夜を満喫した。
翌日は韓国・ソウルへ転移し、外国人専用カジノでさらに資金を増やしつつ、夜の街へ。
ハングル文字の看板も、若者が使う最新のスラングも母国語のように使いこなし、江南のクラブで知り合ったモデル風の女性と、韓国語で他愛のない冗談を言い合いながら、ムフフな時間を過ごした。
あっという間に過ぎた「納期」までの三日間。
淳志は指定された取引場所――タイのバンコク郊外にある、廃工場を改装したアジト――の座標を、送られてきた画像データから読み取った。
「よし。受け取ったら、明日からいよいよ仕事だな」
淳志は部屋着のTシャツにパーカーという、休日のコンビニにでも行くような格好のまま、アジトから少し離れた『監視カメラの死角になる路地裏』へと『転移』を発動した。
――バンコク郊外、裏組織のセーフハウス。
そこは、赤外線センサーと数頭の番犬、そして重武装した男たちが常に見張りに立つ、絶対に部外者が立ち入れないはずの空間だった。
コン、コン。
アジトの最も奥にある鉄扉が、控えめにノックされた。
「――ッ!?」
「な、誰だテメェ!! どこから入ってきやがった!?」
中から血相を変えて飛び出してきた男たちが、一斉にアサルトライフルを構え、怒号を飛ばす。
淳志は内心(うわ、やっぱり本職の裏社会の人たちは怖いな、撃たれたら痛そうだし)と冷や汗をかきながらも、三十四歳の営業マンとして培ったポーカーフェイスと、完璧なタイ語で愛想良く口を開いた。
「お疲れ様です。先日発注していたパスポートとスタンプ一式、受け取りに上がりました。小林です」
ぺこり、と四十五度の角度で美しく会釈する。
武装した男たちは、完全にフリーズしていた。
何重にも張り巡らされた外周のセンサーは一切反応していない。凶暴な番犬たちも吠えなかった。
それらを完全にすり抜け、どうやってこの最奥の密室まで辿り着いたのか。しかも、銃を向けられても全く動じないこの男は、一体何者なのか。
(……こいつ、ヤバい。国家の極秘エージェントか、伝説の暗殺者か何かか……!?)
(撃つなよ、絶対に撃つな! 少しでも敵対行動を取れば、俺たちが一瞬で殺されるぞ……!)
淳志の『言語理解』は、男たちの過剰なまでのパニックと恐怖を正確に読み取っていた。
(あれ、表から普通に歩いてきただけなのに、なんか勝手に勘違いしてビビってくれてるな。話が早くてラッキーだ)と内心で安堵しつつ、淳志はリュックから約束の現金の束――マカオで稼いだドル紙幣――を取り出し、テーブルにコトリと置いた。
「あ、あの……品物は、こちらになります……」
「ありがとうございます。助かりました」
組織のリーダー格の男が、血の気を引かせた顔で震える手を伸ばし、ジュラルミンケースを差し出す。
中身を『言語理解』で素早く鑑定し、完璧な出来栄えであることを確認すると、淳志は満足げに頷いた。
「良い仕事ですね。また入用の際は、発注させていただきます」
淳志が踵を返し、ゆっくりと扉の外へ歩き出す。
男たちは誰一人としてその後ろ姿を追おうとはしなかった。廃工場には、武装した男たちの腰を抜かしたようなへたり込む音だけが響く。
淳志はアジトの敷地を出て、再び監視カメラや人目のない路地裏へと入ると、ふうっと息を吐いて東京の自宅へと『転移』した。
――東京、六畳一間のアパート。
五連休の最終日の夜。
最強の肉体、絶対的な資金源、そして完璧な「身分偽装」。
すべてを整えた小林淳志は、明日からの出社に向けて、スーツのシワを丁寧に伸ばし始めた。




