第29話:貴方の涙と砂漠の月と銀の絨毯
中国での誘拐事件から帰国後、社内の勢力図と人間関係は劇的な変化を遂げていた。
極秘プロジェクトの最中に単身で乗り込み、ギャングから香織を救い出した淳志の武勇伝(※表向きは「空手と古武術の達人」という噂になっている)は瞬く間に社内に広まり、彼の株はストップ高状態に。
淳志と香織が恋人同士であることは暗黙の了解だったが、「相手は48歳の課長。若さと勢いで押せば勝てるかもしれない」と踏んだ20代の女性社員たちからの猛烈なアタックが、連日のように淳志に降り注いでいた。
さらに、中国から持ち帰った『キャラクター型携帯』のプロジェクトが大成功を収めたことで、二人は異例のスピード出世を果たす。
香織は、海外事業部長を経由して『初の女性取締役』に就任。
淳志は『海外渉外課長』というポストを与えられたが、これは実質的に彼のチート能力である言語理解をフル活用するための「人間翻訳機」としての役職だった。
本格的に役員としての激務が始まる前に、二人は会社から与えられた金一封と二週間の特別休暇を使い、偽造パスポートでの『10日間の世界弾丸旅行』へと飛び立った。
旅行のプランニングは淳志が張り切って担当した。
しかし、チート能力を得る前は社員旅行くらいでしか海外に行ったことのない男である。
彼が知っている「海外の高級リゾート」といえば、能力の検証がてら荒稼ぎに行った各国のカジノ併設ホテルばかりだった。
それでも、モナコやマカオでのカジノや観光、夜の甘い時間を心から楽しみ、順調に二人の愛を深めていた――はずだった。
事件は、旅行の終盤。淳志が最もよく足を運んでいた、ラスベガスの巨大カジノで起きた。
「少しお手洗いに行ってくるわね」
香織が席を外した、ほんの数分の出来事だった。
「Hi, handsome! また会えたわね!」
突然、淳志の右腕に、豊満な胸がむぎゅっと押し付けられた。
見れば、チートを得た初期の頃、ベガスで遊んだラテン系のコールガールだった。
「うわっ!? ちょ、ちょっと待って、今は連れが……!」
「あら、久しぶり。相変わらず羽振りが良さそうね」
テンパって体をかわそうとした淳志の左腕に、今度は別の柔らかい感触がぶつかる。
そちらを見れば、これまた以前ワンナイトの火遊びをしたことのある、妖艶な白人の奥様だった。
「ヤ、ヤバいヤバいヤバい! 離れて、お願いだから……!」
「あら? 随分と楽しそうだけど……どちら様かしら?」
背後から、地獄の底から響くような、絶対零度の声がした。
振り返るとそこには、こめかみに青筋をヒクつかせながら、夜叉のような笑みを浮かべる香織が立っていた。
その夜のホテルのディナーは、お互いに一言も発さないまま、ただカトラリーが皿に当たるカチャカチャという音だけが響く、地獄のような時間だった。
最上階のスイートルームに戻っても、重苦しい沈黙は続いていた。
窓の外には、ラスベガスの毒々しいほどにきらびやかなネオンの海が広がっている。
ソファに座り、じっと俯いている香織の前に立ち、淳志は深く頭を下げた。
「……香織さん。本当に、ごめんなさい。あれは俺がまだ……」
「……違うの」
淳志の謝罪を遮るように、香織がポツリと呟いた。
「別に、昔の火遊びを責めているわけじゃないの。私だって、色んな過去があるわ。……ただ、自分の余裕のなさが、嫌になっただけ」
香織はゆっくりと顔を上げた。
いつもは完璧なメイクと大人の余裕でコーティングされている彼女の瞳が、今はひどく揺れ、潤んでいた。
「あなたと出会ってから、私の世界はずっと色鮮やかよ。仕事も楽しいし、毎日が輝いているわ。……沙織とあなたの事を知った時は、そりゃあ驚いたし怒ったけれど、あなたの優しさを知っているから、それもありかなって思えるようになったの」
「香織さん……」
「結婚だって、考えていないわ。沙織だってそうでしょう。本当は、小林くんとの子供が欲しいなんて夢を見てしまう夜もあるけれど……でも、あなたが結婚するなら、ミクちゃんみたいな、若くて未来のある可愛らしいお嬢さんとするべきだって、頭ではちゃんと分かっているのよ。……分かっているのに……っ」
ポロリと。
香織の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、会社では絶対に誰にも見せない、取締役でも完璧な美魔女でもない、ただの一人の『恋する女』の涙だった。
「そんな『物分かりのいい大人の女』のフリをして、自分を守っているだけなの……。本当は……あなたの可能性とか、将来のこととか、全部どうでもいいって思ってる。会社も、役職も、全部捨ててもいいから……小林くんを、私だけのものにしたい……誰にも渡したくない……っ。私、本当に……浅ましくて、嫌な女なのよ……」
両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き崩れる香織。
年齢へのコンプレックス。若い女性たちに向けられる嫉妬。そして、淳志への深すぎる愛情。
そのすべてを受け止め、淳志は何も言わずに、そっと彼女の手を取った。
「――っ?」
淳志が頭の中に座標を描いた瞬間。
ラスベガスの喧騒とネオンの光が、ふっと視界から消失した。
香織がそっと目を開けると、そこは完全な静寂の世界だった。
見渡す限りに広がる、広大な砂漠の真ん中。
空には、圧倒的な存在感を放つ巨大な満月が浮かんでいる。その清らかな月明かりが、なだらかな砂の波紋を照らし出し、まるで世界全体が『銀の絨毯』で覆われているかのように美しく輝いていた。
「小林、くん……ここは……」
「あなたには、ベガスの人工的な光よりも、こっちの方がずっと似合う」
淳志は、銀色の砂の上で、香織の前に静かに跪いた。
そして、まだ涙で濡れている彼女の手の甲に、誓いのように優しく口づける。
「あなたと見る月は、いつも綺麗で特別です。……踊っていただけませんか?」
タキシードもドレスもない。音楽すらない、砂漠の真ん中。
けれど、香織は涙を拭うと、吹き出してしまうのを堪えるようにふわりと微笑み、その手を取った。
「ええ。喜んで」
二人は、銀色の絨毯の上で、ゆっくりとステップを踏み始めた。
砂に足を取られ、決して優雅とは言えない不器用なダンス。無音の世界で寄り添って回っているうちに、やがてどちらからともなく「ふふっ」「あははっ」と笑い声が漏れ始めた。
気がつけば、淳志は香織をひょいとお姫様抱っこで抱き上げ、砂漠のなだらかな稜線をゆっくりと歩き出していた。
腕の中にすっぽりと収まった香織が、淳志の胸に頬を寄せながら小さく呟く。
「私って、面倒なの」
「うん」
「男運も、悪かったの」
「うん」
「でも……若い頃は、結構モテたのよ?」
「うん」
ポツリポツリとこぼれる香織の言葉に、淳志は夜風のように優しい声で、一つずつ相槌を打っていく。
「でも……もう、とっくに賞味期限切れだった」
「うーん。そこは、NOだね」
淳志のきっぱりとした否定に、香織は目を丸くして彼を見上げた。
「でも……あなたに会えた」
「僕も同じですよ」
「え?」
淳志は足を止め、腕の中の香織の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたに会えて、デートする時はいつもウキウキで……あなたのことが、どうしようもなく好きなんです。だから……」
銀色の絨毯の上。満月に見守られながら、淳志は極上の微笑みを浮かべた。
「これからも、俺と一緒に、同じ綺麗な月を見てください」
「……はいっ」
香織の目から、再び涙がこぼれ落ちる。
しかしそれは先ほどまでの悲しい涙ではなく、世界で一番幸せな女の涙だった。
月明かりの下、二人のシルエットが重なり、深く、甘いキスを交わす。
やがて、再び『転移』でホテルのスイートルームへと戻ってきた二人。
ラスベガスの夜景を見下ろす大きな窓のカーテンが引かれ――そっと、部屋の灯りが消された。




