第3話:【検証】北の大地と、一線を越える覚悟
三ノ宮のステーキ店で最高級の神戸牛を堪能したあと、淳志は店を出てすぐの路地裏で大きく息を吐いた。
美味いものを食べれば幸せになれると思っていたが、胃袋が満たされるほどに、頭の隅にある「現実味のない万能感」が重くのしかかってくる。
「……一回、ちゃんと向き合わないとダメだな」
淳志の出身は北海道だ。
道民にとってシカは珍しいものではない。野良猫よりも頻繁に見かけるし、実家の近所でも農作物を荒らす害獣として日常に溶け込んでいる。
だから、検証の相手に選ぶことに、最初はそれほど抵抗はなかった。
――転移。
肺に流れ込む空気が、一瞬で鋭く冷たい北の大地のそれに変わった。
日高山脈の麓。見渡す限り人間などいない原生林。
淳志は『言語理解』を無意識に使い、周囲の気配を拾う。
……いた。
五十メートルほど先、若木を齧っているエゾシカだ。
淳志は収納の中の小石を射出するつもりで、指先を向ける。
だが、そこから先が進まない。
「…………っ」
指が震える。
視界の中では、ただ生きているだけの生命がそこにある。
これを、思考一つで「モノ」に変える?
商談で神を丸め込んだ時の度胸はどこへ行ったのか。
喉が渇き、心臓の音がうるさいほどに耳に響く。
結局、淳志は十分以上も構えたまま、ついに一度も排出することはできなかった。
「……無理だ、俺には。やっぱり、向いてない」
情けなさと安堵が混ざったような溜息を吐き、膝をついた。
自分はただのリーマンだ。殺し屋じゃない。
そう思って帰還しようとした、その時だった。
――ガサッ!!
背後の藪が、爆発したような音を立てて弾けた。
淳志が振り返るよりも早く、強烈な獣臭が鼻を突く。
「ッ!?」
そこにいたのは、巨大なヒグマだった。
冬眠明けなのか、その眼光は血走っており、圧倒的な殺意を放って淳志へ突進してくる。
「あ、が――」
逃げる間もない。
三十四歳の理想的な肉体にアップデートされていても、精神が追いつかない。
死の恐怖が全身を縛り付けた瞬間、淳志の脳が、生存本能だけでスキルを叩き起こした。
(来るな、来るな来るな来るなッ!!)
無茶苦茶に腕を振り回し、意識にある『収納物』を、ありったけの速度で、目の前の空間にぶちまけた。
ドシュッ、ドカァァン!!
凄まじい衝撃波。
淳志が目を開けると、そこには無惨な残骸と、抉れた地面しかなかった。
焦って排出の『座標』をクマの体内に設定してしまったのか、あるいは亜音速の石が直撃したのか。
そこにあったはずの「脅威」は、一瞬で文字通りの「モノ」と化していた。
「はっ、はぁ、はぁっ……!」
膝の震えが止まらない。
もし、この力がなかったら。
もし、神様との商談で『速度』や『座標』の変更を勝ち取っていなかったら。
俺は今頃、ただの肉塊になっていた。
淳志は荒い呼吸を整えながら、グシャグシャになった地面を見つめた。
……自分が襲われた恐怖は、やがて自分の能力がもつ危険性に対する恐怖へと変わっていった。
「……これ、使いこなせなきゃ死ぬぞ。俺だけじゃなくて、加減を間違えれば無関係なやつまで……」
さっきの自暴自棄な攻撃。もし街中であんなことをしていれば、ビルの一棟くらい吹き飛んでいたはずだ。
このデタラメな力を持ってしまった以上、もはや「普通の青年」で居続けるためには、誰よりもこの力の「凶悪さ」を理解し、制御できなければならない。
建物や物体に対する検証以外にも、生物に対する攻撃や手加減を覚えなくては、何かあった時に周りへの被害が大きすぎる。
淳志は顔を上げ、再び別のシカを探した。
見つけたシカに向けて狙いを付ける。
「ごめんなぁ……、ちゃんと役に立てるからなあ」
砂粒を撃ち出し、貫通力を測る。
収納内で解体を命じ、その精密さを確認する。
心臓だけを収納し、生命が「停止」するプロセスを脳に刻み込む。
一つ、また一つ。
自分の手の中に握られた「死」の感触を確かめていく。
二度とあんな無茶苦茶な暴発をさせないための、人としての責任であり、安全管理だった。
「…………よし」
数時間の検証を終え、淳志は血の匂いのする森で一人、静かに呟いた。
座標指定、速度制御。そして、内部干渉。
そのすべてが、自分の意思ひとつで完璧にトレースできるようになった。
痕跡は残らないように収納する。
シカやクマの肉もちゃんと食べるつもりだ。
……何年かかるかなあ
淳志は『転移』を使い、東京の自室へと戻る。
シャワーを浴び、鏡の中の自分を見る。
その瞳には、昨日までの迷いはなかった。
「さて……。明日は、海外に行ってみるかな」
淳志の、本当の意味での「二度目の人生」が、ここから動き始めようとしていた。




