第26話:熱いキスの美女と、絶対零度の美魔女
世間は三連休。しかし、中堅商社の課長である桜井香織は、海外でクライアントを相手にした重要なオンライン会議のため、深夜のオフィスで一人、コーヒーを片手にパソコンの画面と睨み合っていた。
(はぁ……疲れたわね。こんな時、小林くんが『転移』でひょっこり顔を出してくれたら、どんなに癒やされるかしら……)
凝り固まった肩を揉みながら、香織はふとそんな甘い妄想を抱く。
だが、すぐに首を横に振って気合を入れ直した。
(駄目駄目。小林くんもきっと、日本で一人寂しく、私のために仕事や自己研鑽を頑張ってくれているはずよ。私がここで弱音を吐いてどうするの)
愛する年下の恋人の顔を思い浮かべ、香織は再び凛とした表情でキーボードを叩き始めた。
――しかし、彼女は知らなかった。
その頃、彼女が信じて疑わない『寂しく頑張っているはずの恋人』と『自分の実の娘』が、地球の裏側でとんでもないバカンスを満喫していることなど。
「いやー! オーストラリアの星空、最高だな!」
「本当ね。ワインも美味しいし、最高の気分よ」
香織が深夜の会議で疲労困憊していた頃。淳志と沙織の二人は、南半球のオーストラリアにいた。
かつて関わった裏組織に作らせた精巧な偽造パスポートを使い、出国記録をごまかしての極秘の弾丸旅行である。
昼間はカジノのVIPルームで大人の遊びを満喫し、夜は淳志の『転移』を使って、広大な荒野にそびえ立つ赤茶けた岩山の上へ。周囲には人工の光が一切ない完全な暗闇の中、満天の星空を独り占めしながら、二人は高級ワインのグラスを傾けて身を寄せ合っていた。
「お母さん、今頃お仕事頑張ってるわよね。……私たちだけこんな贅沢して、ちょっと悪い気もするけど」
「香織さんには内緒で、帰りに極上のキャビアでも買って帰ろう。……それにしても、今日の沙織、いつも以上に綺麗だな」
「ふふっ、淳志さんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいわ」
星明かりに照らされる沙織の横顔は、息を呑むほど妖艶だった。
かつて末期のすい臓がんに侵されていた彼女だが、淳志の『収納』による細胞レベルのスクリーニングを受けたことで、病巣が消えただけでなく、細胞そのものが最適化されていた。28歳の女性としての美しさと生命力が完全に引き出され、今や彼女は文字通り「最高のコンディション」にあった。
そして翌日。
二人は、どこまでも青い海と白い砂浜が広がる美しいビーチへと足を運んだ。
「淳志さーん! 早く早く! 海がすっごく気持ちいいわよ!」
「おう、今冷たいトロピカルジュース買っていくから、ちょっと待っててくれ!」
眩しい太陽の下、大胆なビキニ姿で波と戯れる沙織。
健康体そのものに引き締まったプロポーションと、弾けるような笑顔。すれ違う男たちが皆、釘付けになって振り返るほどの圧倒的な魅力に、淳志は内心でドヤ顔を決めながらビーチの売店で飲み物を受け取った。
――事件が起きたのは、その直後だった。
「キャアアアアアッ!!」
「Shark! Shark!!(サメだ!!)」
突然、ビーチに悲鳴と怒号が響き渡った。
淳志がジュースを放り投げて海を振り返ると、浅瀬の海面に巨大な三角形の背びれが浮かんでいた。ホオジロザメだ。迷い込んだのか、あるいは獲物を求めてきたのか、その巨体が一直線に砂浜へと向かっている。
「沙織!!」
淳志の視線の先には、逃げ遅れた地元の小さな子供の腕を引き、必死に砂浜へと走る沙織の姿があった。
しかし、水の中でのサメのスピードは圧倒的だった。大きく開かれたジョーズが、沙織たちの背後に迫る。
パニックに陥る群衆。
だが、淳志は一切の焦りを見せずに、頭の中に座標を描いた。
『転移』。
次の瞬間。サメの巨大な顎が沙織に食らいつくコンマ数秒前、その間に淳志の姿が忽然と現れた。
突如目の前に現れた獲物に、サメが容赦なく牙を剥く。
「悪いな。俺の女に手を出そうとしたんだ、エゾシカの時より少しだけエグいぞ」
淳志は、迫り来るサメの鼻先に向けて、鋭い右ストレートを放った。
しかしその拳は、物理的な打撃を与えるものではなかった。拳が触れた瞬間、淳志はチート能力『収納』を発動。サメの鼻先から脳髄に至るまでの円柱状の肉体組織を、一瞬にして異空間へと隔離した。
脳を丸ごと消失させられ、即死状態となったサメ。しかし、その巨大な質量と突進の勢いは止まらない。
淳志はすかさず、空洞となったサメの頭部に向けて、二発目の拳を叩き込んだ。
同時に、先ほど『収納』した数十キロにも及ぶサメの肉体組織を、その空洞の中に凄まじい勢いで射出する。
ドゴォォォォォンッ!!!
内部からの質量爆発。
巨大なホオジロザメの巨体は、まるで大砲の弾を撃ち込まれたかのようにひしゃげ、凄まじい水柱を上げて浅瀬へと吹き飛ばされた。完全にピクりとも動かない。
「……あ、淳志さん……!」
「怪我はないか、沙織」
腰を抜かした子供を助け起こした沙織が、荒い息を吐きながら淳志を見上げる。
絶対絶命の危機から、文字通り一瞬で自分を救い出してくれた最強の男。極限の恐怖からの安堵と、爆発するようなアドレナリンが、沙織の理性を吹き飛ばした。
「淳志さんっ!!」
沙織は濡れた体で淳志の首に抱きつくと、周囲の目も憚らず、ビーチの波打ち際で熱く、深いキスを交わした。
太陽の光の下、まるで映画のワンシーンのような情熱的なキス。
『Oh, my god...』
『Hey, look at that guy! Did he just punch a shark?!(おい見ろ! あいつサメを殴り倒したぞ!?)』
ざわめきと共に、遠巻きに見ていた観光客たちが、一斉にスマートフォンのカメラを向け始めた。
「ヤバい、目立ちすぎた! 帰るぞ沙織!」
淳志は沙織を軽々と横抱き(お姫様抱っこ)にすると、群衆の視線を誤魔化すように猛ダッシュで岩陰へ入り込み、そのままホテルのスイートルームへと『転移』した。
「あはははは! びっくりしたー! サメを素手で倒すなんて、やっぱり淳志さんは私の最高のヒーローね!」
「ははっ、俺も焦ったよ! でも無事でよかった!」
ベッドの上に並んで倒れ込み、アドレナリンの余韻で顔を見合わせて大笑いする二人。
極上のバカンスは、最高の盛り上がりを見せていた。
――一方、その数時間後。イタリアの支店にて。
「ふう……やっと会議が終わったわ……」
深夜のオフィスで、香織は限界を迎えた体を椅子に沈め、息抜きにスマートフォンを開いた。
ふと、SNSのトレンド欄に流れてきた一つの動画が目に留まった。
『【衝撃】オーストラリアのビーチに現れたサメを、謎のアジア人男性が素手でワンパン!? その後の美女との熱烈キスが映画みたいだと世界中で話題に!』
遠くから撮影された荒い画質の動画。
だが、香織の目は、どんな高性能カメラよりも正確に「真実」を捉えていた。
「…………は?」
サメを殴り飛ばした男の、見慣れた背中の骨格。
そして、その男に抱きついて熱烈なキスを交わしている、はち切れんばかりのプロポーションを持った見覚えのあるビキニ姿の美女。
たとえ世界中の誰も気づかなくとも、彼の上司であり恋人であり、そして美女の「母親」である香織だけが、その正体に気づいてしまったのだ。
「フーン……」
誰もいない深夜のオフィス。
香織の口から、絶対零度を遥かに通り越した、地獄の底から響くような声が漏れた。
「私が寝る間も惜しんで働いている間に……随分と、楽しそうねぇ……」
オーストラリアのスイートルーム。
ベッドの上でイチャイチャと笑い合っていた淳志と沙織のスマートフォンが、同時に、けたたましく鳴り響いた。
画面に表示されたのは、香織からのメッセージ。
『【動画リンク】
随分と派手なアクション映画ね。
帰ってきたら、たっぷりとお話を聞かせてもらうわ(笑顔の絵文字)』
「「…………ッ!!」」
二人の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
熱く火照っていたはずの体温が、急速にマイナスまで冷え込んでいく。
「さ、沙織……! ど、どうしよう! オーストラリアの限定コスメとか、最高級のジュエリーとか買えば許してくれるかな!?」
「わ、わからないわ淳志さん! とりあえず、地球上で一番甘いスイーツを『収納』に入れておいて!!」
世界を揺るがす規格外のチート能力を持ちながら。
最強のポンコツ共犯者たちは、たった一人の怒れる美魔女の機嫌を取るため、ベッドの上で青ざめながら震え上がるのだった。




