第24話:ベルリンの迷い猫。老婦人に寄り添った気高き相棒
淳志と愛猫のサラは、休日のたびに世界中を『転移』して回るのが密かな楽しみだった。
その日、二人が訪れていたのはドイツの首都・ベルリン。歴史ある街並みを、淳志はペットショップで半ば脅迫と懇願されて迎えたサイベリアンのサラを肩に乗せ、のんびりと観光していた。
しかし、ふとした瞬間にトラブルは起きた。
広場で突然始まったストリートパフォーマンスの爆音と人だかりに驚いたサラが、淳志の肩から飛び降り、そのまま人混みへと紛れ込んでしまったのだ。
「サラ! おい、どこ行ったサラ!」
淳志は必死に周囲を探し回ったが、入り組んだベルリンの路地裏で、その姿はあっという間に見えなくなってしまった。
一方その頃。見知らぬ異国の路地裏に迷い込んだサラは、すっかり途方に暮れていた。
サイベリアン特有の分厚いトリプルコートの被毛のおかげで凍えることこそないが、どれだけ歩いても淳志の匂いは見つからない。喉も渇き、お腹も空いて、疲労困憊でうずくまっていたサラの前に、ふと温かい光が漏れる古いレンガ造りの家が現れた。
軋むドアが開き、中からゆっくりと姿を現したのは、深く皺の刻まれた一人の老婦人だった。
「おや……迷子かい? 大きくて立派な毛並みだね。可哀想に。お入りなさい」
彼女は重たいサラをよろけそうになりながらも優しく抱き上げると、暖炉の火が燃える暖かい部屋へと招き入れ、ミルクと少しばかりの食事を与えてくれた。
一心不乱にミルクを飲むサラの立派な背中を、老婦人は骨張った優しい手でゆっくりと撫でながら、誰にともなく語りかけ始めた。
「私にもね、昔は家族がいたのよ。1945年……私がまだ19歳で、結婚したばかりの頃。彼は兵隊として戦地へ行って、それきり帰ってこなかったわ」
老婦人は、壁に飾られた色褪せた白黒の写真を見つめた。
軍服姿の若い青年と、幸せそうに微笑む19歳の彼女がそこにいた。
「『必ず帰ってくる』……彼はそう言って出征したの。だから私は、彼が帰る場所をなくさないように、この家をずっと守ってきた。……気づけばもう、100歳になってしまったけれどね」
80年以上もの間、たった一人で。
言葉を持たないサラだが、野生の鋭い本能で「あること」を嗅ぎ取っていた。
(……この人間、もうすぐ死ぬ匂いがするな)
サラはミルクを飲み終えると、老婦人の細い膝の上にどっしりと丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らした。
普段は気高く、自分を「食物連鎖の頂点」だと疑わないサイベリアンが、自らの意志でこの孤独な老婦人に寄り添うことを決めた瞬間だった。
それから数週間。
淳志は日本の仕事をこなしながら、毎週末のようにベルリンへ『転移』し、血眼になってサラを探し続けていた。
そんなある日、街の小さな商店で聞き込みをしていると、店主から気になる情報を得た。
「大きくて毛の長い猫? ああ、そういえば……この先の通りに住んでいる、滅多に顔を見せない100歳になるご婦人が、この間珍しくキャットフードを買っていったよ」
淳志は急いでその家へ向かった。
古いが手入れの行き届いた家の窓辺。そこには、日差しを浴びて気持ちよさそうに眠る巨大な毛玉の姿があった。
「サラ……! よかった、無事だったか……!」
窓越しに声をかけると、サラはゆっくりと目を開け、「ニャァ」と短く鳴いた。
淳志の持つ『言語理解』のチート能力が、その鳴き声を正確な言葉として淳志の脳内に翻訳する。
『おせーよ淳志。迎えに来たのか。だが、私はまだ帰らんぞ。……この人間、もうすぐ死ぬ匂いがするからな。せめてその時が来るまで、私が一緒に居てやることにした』
サラの瞳に宿る、相変わらず不遜だが、どこまでも優しい決意。
淳志はその思いを汲み取り、静かに頷いた。
物音に気づいて出てきた老婦人に、淳志は優しく微笑みかけた。
「こんにちは。窓辺の猫がとても可愛らしくて、つい立ち止まってしまいました。……私が以前飼っていた猫によく似ていますが、どうやら違う子のようです。もしよければ、時々この子の顔を見に来ても良いですか?」
「ええ、もちろんよ。この子もきっと喜びますわ」
それから、淳志のベルリン通いが始まった。
週末になると老婦人の家を訪ね、時には香織や沙織も一緒に連れて行き、みんなで賑やかにお茶を飲んだ。天気の良い日には、老婦人を車椅子に乗せて、近くの公園までゆっくりと散歩に出かけたりもした。
孤独だった老婦人の最期の時間は、淳志たちとサラのおかげで、とても温かく穏やかなものになっていった。
ある日、老婦人がうたた寝をしている隙に、サラが「ニャーン」と淳志を見上げて尋ねた。
『なあ。お前、前にあの女(沙織)の病気を治しただろう。あの力で、この人間も元気にできないのか?』
真っ直ぐなサラの瞳から、淳志は辛そうに目を逸らした。
「ごめんな、サラ。……病気や怪我なら、俺の『収納』でなんとかできる。でも……『老衰』っていう、生命としての自然な寿命だけは、俺のデタラメな力でもどうにもしてやれないんだ」
神のような能力を持っていながら、目の前の命を救えない。
淳志の無力感と悔しさを理解したのか、サラは短く『そうか』とだけ鳴き、再び老婦人の傍へと戻って、そっとその手に顎を乗せた。
そして、数ヶ月後。
厳しいベルリンの冬が終わりを告げようとしていた頃。ついに、その日がやってきた。
ベッドの周りには、往診の医師と、淳志、香織、沙織。そして枕元にはサラが座っていた。
静かに息を引き取ろうとしている老婦人は、淳志たち一人一人に、微かな声で感謝の言葉を伝えた。
最後に、ずっと傍にいてくれたサラの豊かな毛並みを、力のない手で優しく撫でる。
「ありがとう……。あなたたちのおかげで、とても素敵な旅立ちになったわ」
ふと、老婦人の視線が、虚空の何もない空間へと向けられた。
その瞳に、信じられないほど若々しく、幸福な光が灯る。
「ああ……あなた。おかえりなさい……」
80年待ち続けた愛する夫の姿を見たのか。
老婦人は少女のように美しく微笑み、そして、静かに息を引き取った。
しんと静まり返った部屋の中。
サラは何も言わず、ただひたすらに、動かなくなった老婦人の手をペロペロと舐め続けていた。
数日後。
ベルリンの静かな墓地に、新しい墓標が立てられた。
淳志たちが見守る中、冷たい石の墓標の上に飛び乗ったサイベリアンは、冬の澄んだ空に向かって、長く、長く鳴き声を響かせた。
「ニャァァァァァァン…………」
それは、誇り高き食物連鎖の頂点が、80年の愛を貫き通した一人の気高い女性へと捧げる、最高の鎮魂歌だった。




