第18.5話:ギョギョギョな言語検証と、アリよさらば
愛猫のサラをペットショップから迎え入れ、淳志の生活はすっかり賑やかなものになっていた。
だが、あの日、ショーケースの前で「チュウチュウ!」「ワワンワン!」と奇行を繰り広げて周囲からドン引きされたにも関わらず、淳志の知的好奇心(という名のアホな探求心)は未だに燻り続けていた。
(……哺乳類や鳥類とは、鳴き真似でなんとか意思疎通ができた。じゃあ、他の生物はどうなんだ?)
神様から貰った『言語理解』のチート能力。
これがどこまで通用するのかを確かめるべく、淳志は香織とのデートがない平和な休日を利用して、一人で都内の動物園へと足を運んでいた。
まずは手始めに、ライオンの檻の前。
『あー、今日の肉、なんか筋張ってて美味くねえな』
「ガオー、ガウガウ(野生を忘れてるな、百獣の王)」
周囲に人がいないタイミングを見計らい、低く唸ってみる。
『あ? なんだオッサン、なんか文句あんのか?』
(よし、通じた! やっぱり哺乳類は発声のニュアンスでいけるな)
気を良くした淳志は、次に「爬虫類館」へと足を踏み入れた。
ガラスケースの中には、立派なニシキヘビがとぐろを巻いている。
『……腹減った。ネズミ食いてえ……』
(よし、言葉はちゃんと翻訳されて聞こえるぞ。じゃあ、こっちからのコンタクトは……)
淳志はガラスケースに顔を近づけ、周囲を警戒しながら、極めて小声で囁いた。
「にょ? にょろ、にょろ……?(お腹、空いてるの?)」
ニシキヘビが、スッと鎌首をもたげた。
『……は? 何言ってんのこのニンゲン。キモッ』
(ヘビにキモッて言われたぁぁぁぁっ!!)
流石に「にょろにょろ」という擬音語は、ヘビの言語体系には存在しなかったらしい。
爬虫類からの冷ややかな視線と容赦ない罵倒に、淳志はそそくさと爬虫類館を後にした。
気を取り直して、淳志が次に向かったのは併設されている水族館だった。
巨大な水槽の中を、色とりどりの魚たちが泳ぎ回っている。
『狭いなぁ』
『あっちにエサあるぞー』
水の中でも『言語理解』は健在だった。魚たちの単純な思考が、テレパシーのように淳志の脳内に流れ込んでくる。
では、魚にはどうやって話しかければいいのか。
口をパクパクさせるだけでは音が出ない。淳志は三十四歳の知能をフル回転させ、導き出した「魚類との最適コミュニケーション言語」を口にした。
「……ギョ、ギョギョギョ〜?(エサ、美味しい?)」
完璧なまでの、某有名お魚博士のモノマネである。
『えっ? なに?』
『外のニンゲン、なんか変な音出してるぞ?』
「ギョッ、ギョギョ!(こっちおいで!)」
ガラスに張り付き、満面の笑みで「ギョギョギョ〜!」と連呼する三十代男性。
魚たちが不思議そうに集まってくるのを見て(通じた!)と淳志が感動していた、その時だった。
「パパー、見て! あのおじさん、さかなクンの真似してるよー!」
「シッ! 見ちゃダメだ。目を合わさないようにしなさい」
「えー、でもギョギョギョって……」
「いいから! 早く行くぞ!」
背後を通りかかった親子連れの、残酷なまでの会話。
淳志の動きが、ピタリと止まった。
ゆっくりと振り返ると、足早に立ち去っていく父親が、淳志のことを『完全にヤバい不審者』を見る目で一瞥していった。
(うわッ、またやっちまった。……さて、逃げるかな)
淳志は顔から火が出るほどの羞恥心に襲われ、逃げるように水族館から退出した。
すっかり日が傾き始めた帰り道。
淳志は近所の公園のベンチに座り、自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめながら、深く項垂れていた。
(俺は一体、休日に何をやっているんだ……。三十四歳にもなって、ヘビに「にょろにょろ」言ってキモがられ、水族館で「ギョギョギョ」と叫んで不審者扱い……。俺が持ってるの、世界を滅ぼせるチート能力なんだぞ……)
だが、淳志の探求心はまだ死んでいなかった。
(待てよ。……もし、虫ともコミュニケーションが取れるなら? 例えば、夏場に遭遇するあの黒くて素早い『G』……。あいつらと不可侵条約を結んで、家から駆逐することができるんじゃないか!?)
それは、一人暮らしの男にとって、億の資産を稼ぐことよりも実用的なチートの使い道かもしれない。
淳志は閃きに目を輝かせると、缶コーヒーを置き、公園の花壇の前にしゃがみ込んだ。
足元では、アリの行列がせっせとエサを運んでいる。
『急げ急げー』
『女王様のためにー』
(おおっ、聞こえる! アリの言葉も分かるぞ! じゃあ、挨拶は……触覚を合わせる感じか? いや、無理だ。じゃあアゴの音?)
淳志は地面に顔がつきそうなほど深くしゃがみ込み、アリの行列をジッと見つめながら、真剣な顔で「チチチッ」「カチカチカチ」と、口で小さなクリック音を鳴らし始めた。
その姿は、客観的に見れば『休日の夕暮れの公園で、地面のアリを死んだような目で見つめながら、謎の呪文を唱えている三十路の男』である。
末期だった。完全に、心が折れて人生に絶望しているようにしか見えない。
「……おい。小林、お前……何やってるんだ?」
不意に、背後から声をかけられた。
ビクッとして振り返ると、そこにはスーパーのレジ袋を提げた、会社の同僚の男が立っていた。
「あ、いや……これはその、アリの生態を観察というか……」
「…………」
同僚は、淳志の顔と、地面のアリの行列を交互に見つめた。
社内において、淳志と桜井課長が『親密な関係』にあることは、公然の秘密として噂されている。
そして最近、桜井課長は海外拠点のプロジェクトで多忙を極め、淳志とはほとんど顔を合わせていないことも、周囲は知っていた。
「小林。お前……(桜井課長にフラれたのか?)」
必死に弁解しようとする淳志だったが、同僚は同情の涙を浮かべながら、ポンッと力強く淳志の肩を叩いた。
「……よし、今日は俺が奢ってやる! 駅前の赤提灯、行くぞ!」
「えっ? いや、でも俺はアリと……」
「いいから来い! ほら、立つ!」
同僚の強引な優しさに引っ張られ、淳志は公園を後にすることになった。
(……まあ、タダでビールと焼き鳥が食えるなら、いっか)
動物との意思疎通には失敗し、社会的な尊厳はまたしても大きく削られた。
だが、事なかれ主義のタラシの男は、「タダ飯」という目の前の利益にあっさりと屈し、同僚の奢りという名の哀しき生態系へと、大人しく飲み込まれていくのだった。




