第15話:約束のモンサンミッシェル。千切れたリボンと、復讐の鎮魂歌
香織が海外プロジェクトで多忙を極め、なかなかデートの時間が取れない日々。
淳志は休日のたびに、リュックサックに愛猫のサラを入れ、『転移』のスキルを使って「世界遺産制覇」の気ままな旅を楽しんでいた。
イタリアのコロッセオ、エジプトのピラミッド、アメリカのグランドキャニオン。
各地の絶景と現地のグルメを堪能しつつ、香織には現地でしか買えない高級な香水やコスメを『収納』に入れて持ち帰る。
三十四歳の独身男と一匹の猫による、チートをフル活用した優雅な休日だった。
その日、淳志とサラが降り立ったのは、南アフリカのヨハネスブルクだった。
世界有数の犯罪都市として知られる場所だが、昼間の大通りや観光地は活気に溢れている。
淳志が広場の一角で休んでいると、リュックの隙間から顔を出していたサラに気づき、一人の少女が駆け寄ってきた。
「わあ、猫ちゃんだ! 可愛い!」
十歳くらいだろうか。
日に焼けた肌に、少しだけサイズの大きいTシャツ。そして、髪には可愛らしい赤いリボンを結んでいた。
屈託のない無邪気な笑顔を向ける少女に、サラは嫌がることもなく、静かに目を細めて喉を鳴らした。
『……ふん、悪くねえ撫で方だ。ミクのガキに似てやがる』
サラが純粋な子どもにだけ見せる、特別なお姉さんぶった態度だ。
少女の親も微笑ましそうにそれを見守り、淳志も『言語理解』を使いながら彼女と他愛のない言葉を交わした。
「お兄ちゃん、いろんな国を旅してるの? いいなあ」
「ああ。君は、どこか行ってみたい国はある?」
「うん! いつか、フランスの『モンサンミッシェル』に行ってみたいんだ! 海の上に浮かぶお城、すごく綺麗なんでしょ?」
目をキラキラさせて語る少女と、たっぷり一時間ほど遊んだ後。
淳志は「また明日も、ここに来るよ」と約束を交わし、笑顔で手を振る一家と別れた。
――翌日。
約束の時間に広場へと向かった淳志の足は、途中の路地裏でピタリと止まった。
周囲には黄色い規制線が張られ、野次馬たちが遠巻きにざわついている。
アスファルトには生々しい血痕が広がり、その傍らには、誰かが手向けた沢山の花束とお菓子。
そして、風に揺れる、千切れた赤いリボンが落ちていた。
『……おい、オッサン』
リュックの中で、サラが低く、震えるような声を出した。
淳志の耳には、周囲の野次馬たちのヒソヒソ話が『言語理解』を通して残酷なまでに鮮明に飛び込んでくる。
「可哀想に……昨日の夜、ギャングの抗争の巻き添えになったらしい」
「ああ。あの通りに住んでた一家、両親も娘さんも、全員撃たれて……」
淳志は無言のまま規制線をくぐり抜け、血溜まりのそばに落ちていた赤いリボンの切れ端を拾い上げた。
昨日、あんなに太陽のように笑っていた命が、理不尽な暴力によって紙屑のように奪われた。
手の中にある小さな布切れの感触が、淳志の心の中にあった「小市民としての平穏」を、冷たく、完全に凍てつかせた。
「……帰るぞ、サラ」
一度日本の2LDKに戻った淳志は、リビングのテーブルに千切れたリボンを静かに置いた。
サラをリュックから降ろし、いつものように頭を撫でる。
「サラ。お前はこれと一緒にお留守番だ。……少し、掃除してくる」
サラは淳志の瞳の奥にある、絶対零度の怒りを本能で感じ取っていた。
『……オッサン。絶対に、無事で帰ってこいよ』
愛猫の言葉を背に受け、淳志はアメリカに飛び身支度を整えた。
素性を完全に隠すための黒のバラクラバ(目出し帽)。動きやすいコンバットパンツに、頑丈なコンバットブーツ。
そして、タクティカルベルトに大量の「止血帯」をぶら下げた。
無敵のチート能力を、人を「殺す」ためではなく「壊す」ために使う準備だった。
「『転移』」
――ヨハネスブルクの夜。
裏路地の奥深くにある、麻薬と銃器の臭いが立ち込めるギャングのアジト。
薄暗い室内で、酒を飲みながら下品な笑い声を上げていた十数人の男たちは、部屋のど真ん中に「突然現れた」黒ずくめの男を見て、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
「な、なんだテメェは! どこから入りやがった!?」
男たちが慌てて銃に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
「あァァァァァァァァッ!?」
「腕が!? 俺の足がァァァァッ!!」
アジトの中に、地獄のような絶叫が木霊した。
発砲音は、ない。淳志が一歩も動かぬまま、視線を向けただけ。
ただそれだけで、室内にいたギャング全員の「右手首」と「左足首」が、一瞬にして『収納』、もしくは射出された石で破壊され、壁や床に血しぶきを上げて転がったのだ。
異空間の『収納』と、任意の場所へモノを飛ばす『射出』のコンボ。
銃を撃つための右手。逃げるための左足。
それらを物理的に、かつ一方的に切断された男たちは、大量の血を流しながら床をのたうち回った。
ギャングからすれば、突然現れたアジア人が得体の知れない攻撃をしてきて仲間が倒れていく。
銃で撃ったつもりが短距離転移でそこにはいない。
それどころか撃たれても「健康体」で何のダメージもなく淡々と攻撃してくる。
悪夢としか思えなかった。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中を、淳志はコンバットブーツで静かに歩き、彼らの足元に持参した止血帯のベルトを無造作に放り投げた。
「死にたくなきゃ止血しろ。死にたいなら、そのまま死ね」
バラクラバ越しに響く、感情の欠落した冷たい声。
淳志は彼らの息の根を止めなかった。警察に突き出すこともしない。
なぜなら、このヨハネスブルクの裏社会において、「手足を失ったギャング」がどうなるかを知っていたからだ。
敵対組織からの報復、これまで搾取してきた人間からの復讐。彼らは自らが撒き散らしてきた暴力のツケを、二度と抵抗できない体で、死ぬまで払い続けることになる。
それこそが、理不尽に命を奪った者たちに相応しい、最も残酷な絶望だった。
這いつくばって命乞いをする男たちを一瞥もせず、淳志は再び姿を消した。
――フランス、ノルマンディー地方。
潮の香りが混じる強い風が吹き抜ける中、淳志は、愛猫サラとモンサンミッシェルの海を前に立っていた。
海に浮かぶ荘厳な修道院が、静かに波音に包まれている。
いつもの穏やかな青年の顔に戻っている淳志は、ポケットから小さな「赤いリボンの切れ端」を取り出した。
指先から離れたそれは、吹き抜ける海風に乗って、高く、高く舞い上がり――やがて、美しい修道院の影と青空の彼方へと吸い込まれるように消えていった。
「綺麗だな」
誰にともなく呟いたその声は、波の音に優しくかき消された。




