第14話:明かされた秘密と、貴方と月を見る素敵な夜
「……ばか。こんな朝早くに、月なんて出てるわけないじゃない……っ」
スイス・ジュネーブの高級ホテル。
絶望の淵から救い上げてくれた部下の胸に飛び込み、香織はひとしきり安堵の涙を流した。
だが、ふと冷静になった時、優秀なプロジェクトリーダーである彼女の頭に「ある疑問」が浮かび上がった。
「ねえ、小林くん」
「はい」
「あなたが日本で午後の半休を取ってから、まだ半日も経ってないわよね。……どうやって、ジュネーブの朝に間に合ったの?」
香織の真っ当すぎる指摘に、淳志はピタリと固まった。
三日後のタイムリミット(再契約の場)に「表向き」間に合わせるため、日本で一週間の有休をもぎ取ってきたのは完璧な手順だった。
しかし、いくらなんでも到着が早すぎる。直行便だろうと経由便だろうと、物理的に絶対に不可能な時間軸なのだ。
(しまった……香織さんのピンチに焦りすぎて、到着時間の偽装まで頭が回ってなかった)
淳志は小さく息を吐き、香織の肩をそっと抱き直した。
この聡明な女性に、下手な嘘は通用しない。何より、自分のために涙を流してくれた彼女に隠し事をするのは、もう嫌だった。
「……香織さん。実は、俺には誰にも言っていない秘密があるんです」
淳志は静かに、自分が『転移』という空間跳躍の能力を持っていること、そして地球上のあらゆる言葉をネイティブレベルで理解・発声できる『言語理解』の能力を持っていることを打ち明けた。
非常識極まりない、SF映画のような告白。
気味悪がられて引かれるかもしれない。淳志はわずかな緊張を抱えながら香織の目を見た。
しかし、香織の瞳に浮かんでいたのは、恐怖でも軽蔑でもなく、底知れないほどの深い愛情だった。
「……私のために。そんな、世界がひっくり返るような重大な秘密を使って、飛んで来てくれたのね」
「香織さんが、一人で泣いてるんじゃないかと思ったら、居ても立っても居られなくて」
香織はふわりと微笑むと、背伸びをして淳志の首に腕を回し、その唇を熱く塞いだ。
引かれるどころか、彼女からの好意と信頼は、この瞬間に決定的なものとなったのだ。
「フライトの時間は合わせなきゃね。……三日後の商談まで、二人きりでカンヅメよ。覚悟しなさい?」
「望むところです」
それからの二日間、二人はスイートルームから一歩も出ずに過ごした。
淳志は『言語理解』をフル活用し、フランス語で書かれた分厚い契約書を瞬く間に読み解き、相手企業が仕掛けていた巧妙な不利の条件やトラップを次々と洗い出していく。
仕事が片付けば、ルームサービスで極上のワインを開け、ベッドで甘く、濃厚な大人の時間を貪り合った。
そして夜。
バルコニーに出た二人は、肩を寄せ合いながら、スイスの夜空に浮かぶ美しい月を見上げていた。
「本当に、月を見に来ちゃったわね」
「ええ。最高の月です」
淳志は香織の肩を抱き寄せ、静かに微笑み合った。
――そして迎えた、運命の三日後。再契約の商談の席。
スイス側の企業は、フランス語の契約書を前に困惑している(と勝手に思い込んでいる)日本のスタッフたちを見て、どこか見下したような余裕の笑みを浮かべていた。
彼らが「この条件でサインを」とフランス語で急かしてきた、その時だ。
「Attendez une minute.(少しお待ちいただきたい)」
会議室に響き渡ったのは、完璧で格式高い、ネイティブのフランス語だった。
声の主は、香織の後ろで静かに控えていた淳志だ。
「こ、君は……?」
驚く相手企業の役員たちを前に、淳志は涼しい顔で契約書の不備や、こちらに不利な条項をフランス語で次々と指摘し始めた。
さらに、相手側のスタッフ同士がこっそりドイツ語で交わした「マズい、こいつ何者だ」「誤魔化せ」というヒソヒソ話にも、間髪入れずに流暢なドイツ語で反論を叩き込む。
言語の壁を利用して出し抜こうとしていた相手企業は、淳志の圧倒的な語学力と交渉術の前に完全に沈黙した。
結果として、当初の予定よりもさらに日本側に有利な条件での契約が見事に成立したのだった。
――それから数日後。帰国した淳志は、一週間ぶりの本社に出社していた。
「おーっす、小林! スイスで大活躍だったらしいな!」
「まさかお前がフランス語とドイツ語までペラペラだったなんて、誰も知らなかったぞ!」
「ていうかさぁ……急な一週間の有休って、絶対桜井課長のために飛んだんでしょ〜?」
「ひゅーひゅー! 愛の不時着!」
急な長期休みに最初は不満の声もあったようだが、現地での痛快な大逆転劇が知れ渡ったことで、淳志の社内評価は爆上がりしていた。
その上、どう考えても「香織のピンチを知って駆けつけた」という事実が透けて見えており、同僚たちからはニヤニヤとからかわれ通しだった。
遠くのデスクで、香織が書類で口元を隠しながら、淳志に向かってフッと色っぽいウインクを投げてくる。
社内公認(?)のような居心地の悪さと、少しの誇らしさを感じながら、淳志は苦笑いでその日を乗り切った。
だが、無敵のチート能力を持つ男にも、勝てない相手はいる。
「ただいまー。サラ、長留守番させて悪かったな」
新居の2LDKに帰宅し、カバンを置いた淳志。
しかし、いつもなら「遅えよオッサン!」と文句を言いながら出迎えてくれるはずの愛猫は、キャットタワーの最上段でそっぽを向いたままだった。
「……サラちゃん? 大好きなお刺身、あるよ?」
『…………』
「あ、あの、サラ様……?」
尻尾をパタン、と一度だけ振って、サラは完全に淳志を無視した。
急に家を空けられた怒りと寂しさで、彼女の機嫌は完全に底をついていたのだ。
その後、淳志がサラに許してもらえるまで、丸三日の時間を要することになるのだった。




