第13話:社内には内緒の独仏バイリンガル!? あなたとまた素敵な月を見るために
その日の午後、社内は不穏な空気に包まれていた。
給湯室や喫煙所、デスクの島の間で、社員たちが顔を突き合わせてヒソヒソと深刻な噂話を交わしている。
「おい、聞いたか? 桜井課長のスイス出張、かなりヤバいらしいぞ」
「マジかよ。新規拠点の立ち上げの、一番大事な初回契約だろ?」
「それが、現地で雇ったドイツ語の通訳が使い物にならなくてさ。相手の企業が痺れを切らして、急遽『フランス語で契約を巻き直す』って言い出したらしいんだ」
コーヒーを淹れながら、淳志はその会話を静かに耳に収めていた。
スイスは地域によってドイツ語、フランス語、イタリア語などが入り混じる多言語国家だ。
今回同行しているスタッフの中に、日常会話レベルのドイツ語がわかる人間はいた。だから最悪、通訳がポンコツでもドイツ語の契約書ならなんとか社内でダブルチェックをして乗り切れるはずだった。
だが、専門的な法律用語が飛び交うビジネス文書を、全く明るくない『フランス語』で精査するなど不可能に近い。
「翻訳アプリじゃ細かいニュアンスの確認なんて絶対無理だし、日本の本社にデータを送って専門の翻訳チームに回してたら、三日後のタイムリミットに間に合わないって」
「せっかく桜井課長がここまで漕ぎ着けたのに、このままじゃ契約破談かもな……」
周囲の社員たちが諦めムードを漂わせる中、淳志は自席に戻り、手元のスマートフォンでスイスの時刻を確認した。
時差を考えれば、現地は現在、早朝を迎えたあたりだろう。
(……なんで俺が呼ばれなかったのかと思えば、そういうことか)
社内において、小林淳志という男の語学スキルは『英語、中国語、イタリア語のトライリンガル』として認識されている。
彼がまさか、ドイツ語もフランス語も、なんなら地球上のあらゆる言語をネイティブレベルで理解できる『言語理解』のチート持ちであることなど、誰も知る由もないのだ。
(一人で、どれだけ責任を感じて抱え込んでるんだか……)
淳志の脳裏に、イタリアのホテルで「女としても、仕事でもダメだ」と涙をこぼした香織の脆い姿がフラッシュバックする。
細胞レベルのバフでどれだけ美しく、エネルギッシュになろうと、彼女の根底にある真面目さと責任感の強さは変わらない。今頃、異国のホテルの部屋で一人、絶望的な状況に唇を噛み締めているはずだ。
淳志は迷うことなく、午後から一週間の有休を申請して会社を飛び出した。
急いで2LDKの自宅に戻り、キャットタワーで丸くなっているサラの頭を撫でる。
「わりぃサラ。ちょっと急用ができた。メシは多めに置いとくから、大人しく留守番しててくれ」
『あ? なんだよ急に。いいからさっさと帰ってこいよ、オッサン』
文句を言いながらもすり寄ってくるサラを残し、淳志はクローゼットからパスポートと最低限の荷物を掴み取った。
そして、誰の目もないリビングの中心で、静かに目を閉じる。
「……『転移』」
狙う座標は、事前に出張の行程表で確認していた、スイス・ジュネーブにある香織の滞在先のホテル。
視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間、淳志の足は分厚い絨毯を踏みしめていた。
人気の少ないホテルの裏路地から、堂々と正面ロビーへ回り込み、エレベーターで目的の階へと上がる。
――スイス、午前七時。
ホテルのスイートルームで、桜井香織は完璧なメイクを施しながらも、その瞳には色濃い疲労と諦めが滲んでいた。
(……ここまでかしら)
テーブルの上には、読解すらおぼつかないフランス語で書かれた分厚い契約書の束。
数ヶ月にわたる自分の努力も、部下たちの頑張りも、すべて自分の手でふいにしてしまう。
どうしようもない無力感に苛まれ、香織が小さくため息をついた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「……ルームサービスかしら?」
いぶかしく思いながらドアスコープを覗き込んだ香織は、ヒッと短く息を呑んだ。
そこには、いるはずのない人物が立っていた。
慌ててチェーンを外し、ドアを勢いよく開ける。
「こ、小林くん……!? なんであなたがスイスに!?」
目を丸くして震える香織の前に立っていたのは、つい数時間前まで日本でデスクワークをしていたはずの、直属の部下。
淳志は驚く彼女の顔を見て、ふっと優しく、大人の男の余裕を感じさせる微笑みを浮かべた。
「お疲れ様です、香織さん」
淳志は一歩だけ部屋に踏み込むと、戸惑う香織の華奢な右手をそっと取り、大切そうに両手で包み込んだ。
「トラブルの話は聞きました。……きっと、お役に立てると思って来ました」
「小林、くん……」
その温かく大きな手のひらの感触に、香織の張り詰めていた緊張の糸が、プツンと音を立てて切れた。
どうやって来たのか、なぜフランス語のトラブルを知って駆けつけてくれたのか。そんな疑問はすべて吹き飛び、ただ「彼が来てくれた」という圧倒的な安心感だけが胸に広がる。
涙ぐむ香織の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、淳志は最も伝えたかった言葉を、静かに、そして熱を込めて囁いた。
「あなたとまた、素敵な月を見るために来ました」
その言葉の意味を理解した瞬間、香織の目から大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。
イタリアの夜、絶望していた自分を掬い上げてくれた、あのロマンチックな愛の言葉。
異国の地で再び最大のピンチに陥った自分を救うため、彼は常識も国境も飛び越えて、ただ自分一人に逢うためだけに駆けつけてくれたのだ。
「……ばか。こんな朝早くに、月なんて出てるわけないじゃない……っ」
香織は泣き笑いのような表情を浮かべながら、淳志の胸に勢いよく飛び込んだ。
スイスの冷たい朝の空気が嘘のように、二人の間には、温かく、そして甘い熱だけが満ちていた。




