第1話:商談の場は、死後の世界で
意識が途切れる直前、耳の奥にこびりついたのは、激しい金属音とアスファルトを削るタイヤの悲鳴だった。
冷たい雨。夜の街灯。いつもの仕事帰り。
なんてことのない、退屈ですらあったはずの日常が、たった一秒の暗転で断ち切られた。
「……あ、れ?」
小林淳志は、自分の声がどこか遠くで響くのを感じていた。
目を開けると、そこは果てしなく続く白い空間だった。上下左右の感覚すら曖昧で、まるで雲の中に放り出されたような感覚に、淳志は激しい動悸を覚えた。
「死んだ、のか? 俺。……え、嘘だろ。まだ三十四だぞ」
心臓がバクバクと暴れる。冷や汗が止まらない。
中堅商社の営業マンとして、それなりに修羅場は潜ってきた自負はあった。
だが、人生の終着駅にいきなり降ろされて冷静でいられるほど、淳志は枯れちゃいない。
独身、恋人なし。
だが、仕事は面白くなってきたところだし、食いたいものもやりたいことも、まだ山積みだったのだ。
膝が震えるのを必死に抑えながら辺りを見渡すと、そこには三つの、巨大な光の柱のような存在が立っていた。
『……目覚めたか。不慮の事故により命を落とした者よ』
重厚な声が響いた瞬間、淳志は物理的な圧力で押し潰されそうになった。
『本来、君の寿命はまだ先であった。だが、我々の管理ミスにより魂の回収を誤ってしまったのだ。これは世界の運営における重大な過失だ。……安心するがいい。我々にはその過ちを補填する用意がある』
「管理、ミス……?」
淳志は呆然と呟いた。
あまりに身勝手な理由に、恐怖の合間からふつふつと、「納得いかない」という感情が湧き上がってくる。
理不尽な死を「ミス」の一言で片付けられてたまるか。
神様たちは、済まないという響きを微かに含ませながら、淡々と「補填」について説明を始めた。
『その償いとして、君には新たな世界……剣と魔法が支配する異世界で生き直す権利を与えよう。さらに、現地で生き抜くための三つの恩恵――「アイテムを自在に仕舞える収納」「異世界の言葉が通じる言語理解」「病や毒に負けない健康体」。これらを授けようと思う。これで、不自由なく暮らせるはずだ』
異世界。魔法。そしてチート能力。
スマホの広告やネット小説で見かけるような言葉が並ぶ。
淳志は深呼吸を繰り返し、少しずつ、少しずつ、暴走する脳を「仕事モード」へ無理やり引き戻した。
(落ち着け。……異世界? 魔法? 笑えない冗談だが、この状況は現実だ。……いや、現実じゃないが、起きてる事実だ。……待てよ、相手はミスを認めてる。なら、ここが交渉の席だ)
淳志は震える手でスーツのネクタイを締めた。
一方的にキレて要求を叩きつけるんじゃない。
そんなのは三流だ。
「低姿勢で、相手を立てながら、こちらの要望を通す」
それが営業マンのやり方だ。
「……お話し、伺いました。私のような者にそこまでのご配慮をいただき、本当にありがとうございます」
淳志は深く、丁寧に頭を下げた。
営業人生で培った、最も誠実に見える四十五度の礼だ。
神様たちは、意外そうに(そんな気配がした)淳志を見下ろした。
「ですが……その、一点だけ。不安を申し上げてもよろしいでしょうか。私、ただのしがないサラリーマンでして、戦いなんて一度もしたことがないんです。せっかく素晴らしい恩恵をいただいても、異世界で明日にも野垂れ死んでしまっては、皆様の『誠意』も台無しになってしまうのではないかと……それが、皆様に対してあまりにも申し訳なくて」
『ふむ……一理あるな。では、どうしたいというのだ?』
「はい。ご提案というか、お願いなのですが……。今おっしゃった『収納』『言語理解』『健康体』。これらは本当に、喉から手が出るほどありがたい能力です。ただ、私のような臆病者でも確実に生き残れるよう、これらのスキルの『解釈』を、ほんの少しだけ……私の希望通りに仕様変更させていただけないでしょうか? 皆様の権限であれば、決して不可能なことではないと思うのですが。どうか、どうかお願いできませんでしょうか」
淳志は切実な表情で、縋るように光の柱を見上げた。
傲慢さはない。
ただ、「生き残りたい」という必死さを前面に出した交渉。
神たちは、目配せのような挙動を見せた後、鷹揚に頷いた。
『……良かろう。元の能力の枠を超えない「解釈の拡大」であれば、認めて遣わそう。言ってみるがいい』
(――乗ってくれた)
脳内で、パズルのピースが音を立てて組み合わさっていく。
ここからは、一言も聞き漏らせない。
一瞬も気を抜けない「自分自身の命」を懸けた商談だ。
「ありがとうございます……! では、まず『収納』なのですが、これは単なる荷物入れではなく、内部の時間を完全に停止、あるいは私の意志で操作できるようにしてください。生鮮食品を鮮度そのままに保ち、時には『熟成』すら可能にするためです。保存という名目なら、許容範囲ですよね?」
『……よかろう。保存の範疇として許可しよう』
「次に、出し入れの『座標』と『速度』の自由化。手元だけでは不便です。視界の範囲ならどこへでも、かつ放り込んだ時の速度を維持、あるいは指定した速度で排出できるようにしてください。物流効率の向上のため、どうか」
『……利便性の向上か。物流を司るなら妥当だな。許可する』
(よし。これで、どこにでも、どんな速度でも、『収納物』を出現させられる)
「それから『生物』の収納。私が『モノ』だと認識したなら、それは収納可能にしてください。農作物を守るための害獣駆除には不可欠なんです」
『……抵抗できない相手限定ならば、物質として扱おう』
「次に『言語理解』。魔法の呪文も、魔道具の回路も、すべて『言語』として解読できるようにしてください。マニュアルが読めなきゃ、死んでしまいます」
『……知識への欲求か。認めよう』
「最後に『健康体』。毒や精神干渉を弾くのは当然として……怪我をしたり疲れたりしたら、即座に《今の三十四歳の最も理想的な肉体》に戻してください。不慣れな地で生存率を最大化するために。あと、睡眠なしでも稼働できるようにしていただけると助かります」
『……不屈の肉体、生存の執着か。いいだろう、その程度なら』
神様たちは気づいていない。自分たちが今、物理法則を無視して世界を蹂躙できる「怪物」のテンプレートを承認したことに。
だが、その直後だった。
空間がガラスのように砕け、これまでの三柱とは比較にならないほど巨大で冷徹な「意思」が降りてきた。
『――そこまでだ。下級管理者の無能どもが、何を勝手な条件を呑んでいる』
上位管理者の出現。淳志の目の前で、担当の神たちは悲鳴を上げる間もなく光の粒子となって消滅した。
淳志はあまりのプレッシャーに膝を突き、心臓が止まりそうなほどの威圧感に耐えながら、その巨像を見上げた。
『小林淳志。君の交渉、なかなか愉快だった。低姿勢で理を詰め、下級神を丸め込むとはな。……下級の者が結んだ契約は有効だ。そのまま持って行くがいい。だが、君を異世界へ送る必要はなくなった』
「な、ん……だと……っ」
『あの程度の世界で、君のような「バグ」を放つわけにはいかない。生態系が瞬時に崩壊するからな。……管理者のエネルギーは余っている。元の場所……地球へ戻るがいい』
「本当、ですか……!?」
『ああ。だが、手ぶらで戻すのも管理者の端くれとして体裁が悪い。……これを持っていけ』
巨像が指を鳴らした瞬間、淳志の脳内に、宇宙の全地図が直接流し込まれるような激痛が走った。
「ぐあ、ぁぁぁ……っ!?」
『「転移」。一度認識した地点、あるいは視覚情報がある場所へ瞬時に到達する権能だ。君のような男が、現代社会という箱庭でどう立ち回るか、見せてもらうとしよう』
――凄まじい衝撃。
淳志が次に目を開けた時、そこは見慣れたアパートの、安っぽいフローリングの上だった。
窓の外からは遠くで救急車のサイレンが聞こえる。事故直前と変わらない、湿り気を帯びた日本の夜。
だが、起き上がろうとした瞬間、自分の肉体の「質」が別次元に変わっていることに気づく。
「……っ、体が……軽い」
淳志はフラつく足取りで姿見の前に立った。
そこには、三十四歳の自分の面影を残しながら、まるで彫刻のように整えられた「最強の自分」がいた。
左右対称に整った骨格。透き通るような肌。そしてシャツの上からでもわかる、ミドル級ボクサーのように引き締まった、無駄のない筋肉の躍動。
「…………帰って、これたのか。俺」
鏡の中の自分は、圧倒的な「強者のオーラ」を放っていた。
以前からも身だしなみには気をつけていたが、今の自分は「清潔感」や「爽やかさ」といった次元を超え、ただ立っているだけで周囲を沈黙させるような、完成された美しさすら湛えている。
「……はは、まいったな。これ、明日会社に行ったらなんて言われるんだ?」
内側から溢れる全能感。視界の隅に浮かぶ、神の理を書き換えたスキルの残滓。
小林淳志。
しがない商社マンが、神様から「解釈」を掠め取り、最強の肉体と万能の力を手にして、現代日本に舞い戻った。
「さて……まずは、有給を取ろう。俺の新しい力の、デバッグ(実験)のために」
彼の誰にも縛られない、あまりに自由で贅沢な生活が、今、静かに幕を開けた。




