第3話 井の頭公園、ベンチ番号17
井の頭公園は、吉祥寺駅から少し歩くだけで別の時間になる。
同じ街なのに、時計の針だけが遅れる場所だ。
高峰修二は池のほとりを歩き、ベンチ番号17の前で足を止めた。
木製の背もたれは古く、何度も塗り直された痕がある。
「……ここで、間違いありません」
声をかけてきたのは、七十代半ばの男性だった。
背筋は伸びているが、視線はどこか定まらない。
「毎日、正午にこのベンチに座る。
それが、あの人との約束だった」
「“あの人”は?」
「妻です」
男は、そう言って小さく笑った。
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妻は、三年前に亡くなっていた。
病名も、詳しい経緯も、修二は聞かなかった。
必要なのは事実ではなく、残された習慣だった。
「最近、来なくなったんです」
男は言った。
「足が悪くなった? ……違う。
ここに来る意味が、分からなくなった」
修二はベンチに腰を下ろした。
男も、少し距離を空けて座る。
「探しているのは、人ですか?」
男は首を振った。
「記憶です」
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男の話は、単純だった。
若い頃、仕事に追われ、妻を一人にした。
唯一の約束が、このベンチだった。
「正午に会おう。
何も話さなくていい」
それを、何十年も続けた。
「でも最近、思い出せないんです。
……なぜ、ここだったのか」
修二は池を見た。
水面に映る木々は、形を保ったまま揺れている。
「理由は、もう要らないんじゃないですか」
男は驚いた顔をした。
「約束は、守り続けた。
それ自体が、答えです」
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その日、正午を少し過ぎた頃。
風が吹き、ベンチの下から一枚の紙が舞い出た。
修二が拾い上げる。
折りたたまれた、古いメモ。
「忘れてもいい。
でも、ここには来て」
男の手が、震えた。
「……ああ」
涙は出なかった。
ただ、深く、息を吐いた。
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修二は、男が立ち上がるのを見届け、静かに距離を取った。
探偵は、証拠を残さない。
必要なものが見つかったなら、それでいい。
午後の井の頭公園に、鐘の音が響いた。
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修二は駅へ戻る。
記憶は消えても、場所は残る。
吉祥寺は、そういう街だ。
また一つ、記録が増えた。




