妖精の郷⑫
静寂が支配する奈落の底で、俺たちはしばし、勝利の余韻と、生き延びたことへの安堵に浸っていた。
「やった……やったんだ、あたしたち……!」
テレサが武器を失った手でガッツポーズを作り、震える声で言った。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「うん……! 勝てた……!」
サクラもその場にへたり込み、安堵のあまり、泣き笑いのような表情を浮かべていた。
俺も二人の姿を見て、心の底からこみ上げてくる達成感に、思わず笑みをこぼした。
しかし、俺たちが安堵に浸っていられたのは、ほんの束の間だった。
「……!」
ふと気配を感じて顔を上げると、先ほどまでいた空洞のあちこちから、再び妖精たちが姿を現し始めていた。糸が切れたように地面に落ちていた妖精たちが、ゆっくりと起き上がり、こちらへ向かってくる。
「なっ……まだやる気なの!?」
テレサが悪態をつき、サクラも慌てて『黒曜の星屑』を構え直す。俺も即座に警戒態勢に入った。
だが、近づいてくる妖精たちの様子は、明らかに先ほどまでとは違っていた。
その瞳からは、ガラス玉のような冷たい光は消え、代わりに戸惑いや怯え、そして深い悲しみの色が浮かんでいる。
彼らは、武器を構える俺たちを恐れるように、一定の距離を保ったまま、ただ立ち尽くすだけだった。
その妖精たちの群れが、左右に分かれる。
その間から、ゆっくりと歩み出てきたのは、長のエルダだった。
彼女の顔からも、あの不気味な笑みは消え失せ、今はただ深い後悔と悲しみに満ちた表情で、俺たちをまっすぐに見つめていた。
エルダは俺たちの数歩手前で立ち止まると、その場で深く、深く、頭を下げた。その額が、地面に着くのではないかと思うほど、それは丁寧で、心の底からの謝罪の形だった。
「……人の子らよ。本当に……申し訳、ございませんでした……!」
絞り出すような、震える声。
あまりにも予想外の行動に、俺たちは戸惑いを隠せない。
「な、なによ……。今さら謝って、許されるとでも思ってんの……?」
テレサが警戒を解かないまま、棘のある言葉を投げかける。
「おっしゃる通りです。あなた方にしたことを思えば、どのような罰を受けても、わたくしたちには文句を言う資格はございません。ですが……それでも……どうか、話だけでも聞いてはいただけないでしょうか」
エルダは頭を下げたまま、懇願するように言った。その声には、嘘や偽りは感じられない。俺は構えていたサクラとテレサの肩に、そっと手を置いた。
「……分かった。話を聞こう」
俺の言葉に、エルダはゆっくりと顔を上げた。その美しい瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れ落ちていた。
「ありがとうございます……。まず、あなた方を騙し、この奈落へ突き落としたこと、そして、あのような恐ろしい化け物の生贄にしようとしたこと……心より、お詫び申し上げます」
エルダは再び深く頭を下げた。
「わたくしたちは……あのデビルトレントの邪悪な思念に、心を支配されておりました。一種の洗脳状態にあったのです」
「洗脳……?」
「はい。わたくしたち妖精は、純粋な自然エネルギーの集合体であるが故に、周囲の環境や、強力な存在の意志に、非常に染まりやすい性質を持っております。運悪く、この大樹の最も深い根の部分で、森の負のエネルギーが凝縮し、あのデビルトレントが誕生してしまいました」
エルダの話によると、デビルトレントが生まれてから、その邪悪な意志は、まるで毒のように、このティル・ナ・ノーグ全体をゆっくりと蝕んでいったのだという。
妖精たちは、本来の明るさや優しさを失い、デビルトレントの「糧が欲しい」という本能的な欲求に、無意識下で従うようになってしまった。
旅人を郷に誘い込み、眠らせ、生贄として捧げる。その一連の行動は全てがデビルトレントに操られた結果だったのだ。
「わたくし自身、長として、他の者よりは強い精神力を持っておりました。ですから、自分たちが恐ろしい過ちを犯していることには、気づいておりました。しかし、デビルトレントの呪縛はあまりにも強く、その意志に完全に抗うことができなかったのです……。あなた方に曖昧な態度しか取れなかったのは、その心の葛藤の表れ……。本当に、申し訳ありません……」
エルダは、苦しげに胸を押さえながら、全てを告白した。
彼女もまた、被害者だったのだろう。
自分の意識がある中で、同胞たちが非道な行いに手を染めていくのを、ただ見ていることしかできなかった。その苦しみは、いかばかりだっただろうか。
「あなた方が、あのデビルトレントを討伐してくださったおかげで、わたくしたちは、ようやく長い悪夢から解放されました。あなた方はこの森と、わたくしたち妖精全ての、命の恩人です」
エルダは、感謝と謝罪の言葉を、涙ながらに繰り返した。
その話を聞き終えた俺たちは、顔を見合わせた。
「……そんな事情があったなんて……」
サクラは妖精たちが置かれていた過酷な状況に同情し、その瞳を潤ませていた。
「……ったく、しょうがないわねぇ……」
テレサはぶっきらぼうにそう言いながらも、構えていた盾と短剣を鞘に収めた。テレサもまた、エルダの話が真実であること、そして、彼女たちが本当に苦しんでいたことを、理解したのだろう。
「エルダさん、顔を上げてください」
俺がそう言うと、エルダは驚いたように俺を見た。
「俺たちは、あんたたちを許します。あんたたちも、あの化け物の被害者だったんだ。それに、結果的に俺たちは勝った。それで十分だ」
「しかし……!」
「それに、あんたたちのおかげで、俺たちは最高の景色を見ることができたし、最高の飯も食えた。……まあ、最後の晩餐になりかけたけどな」
俺が冗談めかして言うと、テレサが「笑えないわよ!」とツッコミを入れてきたが、その表情は、もう怒ってはいなかった。
「だから、もう謝らないでください。それより、俺たちはデビルトレントを倒した。つまり、望みは達成したってことで、いいんですよね?」
俺がニヤリと笑いながら言うと、エルダは一瞬きょとんとした後、ようやく、心からの安堵の笑みを浮かべた。
「……はい。もちろんです。お礼は必ずやお渡しいたします」
デビルトレントの呪縛から解き放たれた妖精たちは、本来の純粋な光を取り戻し、俺たちの周りを喜びいっぱいに飛び回り始めた。
奈落の底に差し込む光が、先ほどよりもずっと暖かく、そして優しく感じられる。
こうして、俺たちと妖精たちの間にあった誤解は解け、真の友情が芽生えようとしていた。




