第九話 レーニンの赤軍から逃げているのは日本軍でしょうか?
第九話です。
今回はちょっと短めです。
ロシア革命と日本軍東部戦線組の話です。
1917年、ロシアで二月革命、十月革命が起こる。
1905年に血の日曜日によって始まったロシア第一革命は1907年にストルイピン首相のクーデタにより、終息した。これにより、一時的に労働運動や革命運動は一時的に停滞し、革命家はロシアを追われて西ヨーロッパへと逃れた。
しかし事態は再び動き出す。
1917年ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグの女性労働者がストライキに入り、デモを行った。(食糧不足への不満により「パンをよこせ」という要求が中心となっていた)また、 他の労働者もこのデモに参加したことにより、数日のうちにデモ及びストライキはヴィボルグ市全域に広がった。また要求もデモの拡大により「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
これに激怒したニコライ2世は、軍にデモとストライキの鎮圧を命じたが、鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。そして、後にペトログラード・ソヴィエトと呼ばれる臨時政府が結成されることとなる。
そして、臨時政府から退位を要求された皇帝のニコライ2世は、弟であるミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日にこれを拒否、これにより皇帝がいなくなったロシアのロマノフ朝は崩壊した。
臨時政府はその後も大戦を継続することとなるが、その後のケレンスキー攻勢は大失敗。逆に反撃を受ける大きな被害を受ける。これにより、国内では七月蜂起やコルニーロフの反乱が発生し、これを臨時政府は鎮圧するが、レーニンや兵士による十月革命により、臨時政府は打倒され、レーニンらは「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」後のソビエト社会主義共和国連邦を建国し、ブレスト=リトフスク条約を中央同盟と結び、大戦から途中退場することとなった。ちなみに、東部戦線でひそかに生き残っていたルーマニア君はブカレスト講和条約で傀儡国となり、石油と穀物を中央同盟に渡すという戦犯をかましていた、、、
しかし、この革命や条約に巻き込まれた国がいた。 そう、日本である。
東部戦線に派遣されていた遠征軍が孤立したのである。連絡があまりに取れていなかった遠征軍は、ロシア革命とロシアの中央同盟との単独講和を知り、直ちに行動を開始した。そう、現代でいう日本軍総撤退である。
まず、遠征軍は中央同盟軍が、ブレスト=リトフスク条約で定められたところまで軍が進出するまでに、戦線を離脱。その後、シベリア鉄道によって日本領の沿海州まで撤退しようとする。シベリア鉄道では、大量の日本軍がシベリア鉄道に乗ったことにより、鉄道線が麻痺。また、当時ロシアでは赤軍と白軍が内戦をしており、撤退がバレたら即刻部隊全滅の恐れがあった。(事実、速攻でバレたことで追撃が来た)そのため遠征軍はシベリア鉄道をジャック。そのまま沿海州まで急いで撤退することとなる。
また道中、思いがけないことが発生した。チェコ軍団に遭遇したのだ。当時ロシアにいたチェコ系の捕虜がロシアの手によって部隊化され、チェコ軍団としてロシアと共に戦っていたのだが、ロシア革命により、多くの兵士が帰国を望んでいた。そんな時に出会ったのが撤退中だった日本軍遠征部隊だったのである。こうして日本軍8万とチェコ軍団5万人による大撤退が開始した。(双方共に東部戦線で被害を受けていたため、発足当初より、部隊員が少なくなっている) 追撃を受けながら、沿海州を目指す混成軍団は、道中のロシア難民や白軍をも取り込んで、沿海州到着時には、推定100万人近くの民族大移動の様な状態になっていた。これは後に日本だけでなく、世界的にも問題となった、、、
その後、ロシア難民や白軍は元々沿海州にロシア人が多く住んでいたこともあり、およそ三分の一が留まることとなり、またチェコ軍団は、戦後独立したチェコスロバキアに無事に帰国することができた。(一部は日本にとどまった模様)
また、一番問題となったのが、オムスクで難民を収容した際、なんと逃亡中だったロシア皇帝ニコライ2世とその家族を収容してしまったことであった。
当時、優勢であったソビエトはこのことに激怒し、日本に皇帝家族の身柄を返却することを要求したが、日本はこれを拒否。日本滞在後の皇帝一家は、アメリカに渡り亡命した。
こうして日本軍の東部戦線への派遣軍は無事に日本へ帰還した。
一方で西部戦線では、終結へ向けて着実に進んでいた、、、
なかなかにめちゃくちゃな話になりました、、、
ちなみにロマノフ家は後々登場するかも?(これからの方針次第)
次回、終戦。
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