第七話 明治帝の最後の悪あがきと世界大戦
第七話です。
サラエボでは事件の匂いが、、、
20世紀、世界では国際対立と戦争によって、始まったと言える。
ヨーロッパでは、三国同盟(ドイツ、イタリア、オーストリア)と三国協商(イギリス、フランス、ロシア)が激しく対立し、バルカン半島では、オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を機に、オーストリアとセルビアが対立。二度のバルカン戦争を経て、民族問題や各国の利害により、いつ戦争が起こるか分からない状態となっていた。
そんな中、1914年、オーストリア領のサラエボで、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺される事件が起こる。俗に言うサラエボ事件である。これに対し、オーストリアはひどく激怒、セルビアが絶対に呑めないような要求を送り付ける。いわゆる最後通牒である。もちろんセルビアはこれを拒否、これによりオーストリアはセルビアに宣戦布告。これに対して今度はロシアが総動員。更にドイツがロシアに最後通牒を送りつけるなど、欧州各国が引きずられるように戦争に参加。結果的に、世界的な大戦に発展する。後世で言う第一次世界大戦の勃発である。(中央同盟と三国協商の戦い)
ちなみに日本では当時、欧州大戦と呼ばれていたそうだが、現在では世界と合わせるため、世界大戦と学校の教科書では書かれている。
また、メインの戦場は欧州だったが、この戦争に日本も参加することとなる。原因は明治天皇にある。当時日本は日英同盟を結んでいたが、それには両国の参戦義務はなかった。しかし、イギリスが大戦終結後、日本にドイツの中国利権と太平洋上のあるドイツの委任統治領を日本に与えることを条件に参戦を要求。政府は断ろうとしたが、明治帝が、
「戦争に参加するべきだと思うが、皆はどう思うかねぇ?」
と、当時の政府及び議会に圧をかけた。
これにより日本は世界大戦に参戦していくこととなる。
当時の日本が有していた兵力は、陸軍75万人。海軍は戦艦、巡洋戦艦合わせて四十四隻。その他多数の艦艇を有する大艦隊であった。当時のイギリスが六十ニ隻、ドイツが三十七隻と当時の海軍大国と、同程度の艦隊を保有していた。ただし、日本の艦艇及び陸軍部隊は、主に各地の守備に務めており、自由に動かせるのは、少数にとどまっていた。それでも外征用の部隊は何故かすでに用意されており、開戦直後に電撃的に各地のドイツ領を占領することとなる。
戦争開始後、日本がまず矛先を向けたのは、青島である。ここにはドイツの東洋艦隊がおり、青島上陸のためにも艦隊の殲滅が急務となっていた。しかし、ドイツの東洋艦隊は圧倒的戦力差のため、積極的に戦闘をしようとはせず、開戦後すぐに東太平洋方面に艦隊を移動させる行動に出た。しかし、運悪く出航後すぐに日本艦隊に捕捉され、圧倒的な戦力火の中、ほぼ一方的に殲滅される悲劇が起こった。
かくして日本は東洋艦隊の壊滅を確認後、青島に軍を派遣、これを電撃的に占領。同時進行で太平洋上のドイツ領を僅か二ヶ月で占領した。
一方でヨーロッパに目を移すと、ドイツは二正面作戦となり、西部戦線と東部戦線を抱え込むこととなっていた。これに対し、ドイツはベルギーを通過してフランスのパリを占領し、西部戦線を先に片付けようとするが失敗。両戦線で停滞することとなる。またオーストリアと三国同盟を裏切ったイタリアとの国境の戦線やバルカン半島での戦線、更には中東の戦線など、あまりにも多数の地域で戦闘が起こった。
特に西部戦線は「西部戦線異常なし」と言われるほど、戦線は動かなかったが、日々多くの若者が、戦闘や病によって亡くなっていった。
これにより、日本の同盟国であるイギリス及びフランス、そして敵国のドイツの軍は大きく損耗し、新兵がほとんどを占めるという異常事態が起きていた。そのため、イギリス、フランス両国は日本に対しヨーロッパへの軍の派遣を要請。これを受け入れて日本としては送るつもりはなかったのだが、
「ヨーロッパの盟友のために、我々から支援として軍を派遣した方が良いんじゃないか?」
と、晩年の明治天皇の発言により、20万人の将兵と多数の艦艇がヨーロッパに送り込まれることとなった。ついでにロシアの東部線線が崩壊しかけていたため、後から10万人がシベリア鉄道で送られることとなる。
この大量の部隊の派遣に、ドイツやオーストリアなどの中央同盟各国は相当の恐怖を覚えることとなる。
そして、この軍の派遣中、日本国内に大きな悲劇が訪れる。
明治天皇が崩御されたのである。
1915年、崩御。 明治天皇は亡くなる直前、
「日本の未来は、変えられただろうか、、」
という、謎めいた言葉を残している。今では日本でこれは何を表しているのか、ヲタクやインターネットでは、よく議論されている、、、
また、明治天皇は元々持病の糖尿病を患っていたのだが、悪化。尿毒症を併発し満62歳で崩御。
崩御の四年前から明治天皇は遺書や闘病を開始し、腕利きの良いユダヤ人医師の治療などもあり、延命をすることができた。もし、このユダヤ人医師がいなかったならば、3年前には亡くなっていただろうと言われている。そして、崩御後、すぐに新聞社などのメディアが一斉に号外を配った。当時の主要新聞は天皇崩御のために全ページを黒枠で囲んでいたそうで、今でもその新聞が国会図書館に保存されている。
また、崩御後の政府の対応は異様に速く、皇太子が次の天皇になり、特に年号も決められ、崩御から実に一週間ほどで、大正時代が始まることとなる。この異様な速さの理由は、全て明治天皇が崩御する前にあらかじめ段取り(遺言書)を全て決めていたからと言われている。特に、次の年号すら決められており、前天皇が年号を決めることは前代未聞であったが、何故かこのまま進められていくこととなる。
そして、明治天皇の柩は遺言書に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して伏見桃山陵に移動、国民に惜しまれながら埋葬された。
この遺言書は、この他に今後の日本の道筋も書かれているとされているが、この遺言書を見ることができるのは、歴代の天皇だけとされている。以後、日本の天皇及び政府は、この遺言書を元にほとんどの政策を行っていくこととなる。
また、後の日本の道筋が書かれていることから、現代では、明治帝の予言書と呼ばれている。
ちなみに世界大戦中であったことから、同盟国からは追悼の意と総領事が葬儀に参加したが、敵側であるドイツやオーストリアは追悼の意を捧げただけとなった。(オスマン帝国からは、総領事が特別に葬儀に参加していた)
こうして、日本は暗い雰囲気のまま泥沼の戦争に突入していくのであった、、、
明治天皇の死、、、
次回は世界大戦の続きからです。