第五話 太平洋にたくさん領土がある→軍艦大量に保有してもいいよね?
第五話です。
今回いつもより長めです。
1880年代、当時清では日清戦争に大敗後、列強諸国の進出によって国内情勢が悪化していた。
モンゴルや満州はロシア、山東はドイツ、広西や広州はフランス、上海や杭州はイギリス、そして福建州を日本がという感じで各国の勢力争いが起きていた。(台湾や海南島、遼東半島は日本の勢力下)アフリカや東南アジアでは、ほとんど分割が終わっており、中華が最後の分割争いの場となっていたのだ。
これに対して清の知識人たちは強い危機感を感じ、1898年に康有為や梁啓超らが当時の皇帝である光緒帝を担いで変法運動を起こした。(明治維新がモデル)
しかし、保守派の西太后らがクーデター(戊戌の政変)を起こし、改革は失敗に終わった。また、梁啓超らは日本に亡命した。
中華の分割に危機感を感じていたのは一部の知識人たちだけではない。
秘密結社であり、村落の自衛組織であった義和団は、「扶清滅洋」を掲げて排外運動を展開した。そして1890年、北京にある各国の大使館が義和団によって包囲され、清の王朝は滅亡か全世界に対して戦うかの選択を迫られた。彼らが出した結論は全世界と戦うことであった。結果的に日本、イタリア、オーストリア、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、イギリスの連合軍に大敗し、1901年に北京議定書に調印、多額の賠償金と外国軍の駐留を認めることとなる。
なお、この戦いにおいて、各国は紫禁城から多数の物品を強奪。後々世界的な問題に発展することとなる、、、
一方でこの連合軍の主力を務めたのは日本とロシアであったが、ロシア軍はその後も満州に軍を留め、国際社会から非難を浴びた。その後もロシアは満州から軍を撤兵しようとせず、むしろ日本の勢力圏である朝鮮や遼東半島に手を出そうとする。事実、日清戦争後、ロシアは日本に対して遼東半島を清に返却するよう求めたが、日本はこれを拒否。事実、返却すればロシアがここを清から租借することは間違いなかったからである。もし、ドイツやフランスがロシアと一緒に干渉してきたり、日本がイギリスと同盟を結んでいなければ、日本はこの要求を呑んでいただろうと言われているが、そんなことはなかったため、日本は要求を断った。(ドイツとフランスは租借地だから大丈夫とロシアの応援をしなかった)
そしてこの3年後の1904年、日本国内の世論は主戦論が主流となり、日本はロシアに宣戦布告。ここに日露戦争が始まったのである。
主な戦場は遼東半島と朝鮮北部、そして日本海であった。
遼東半島は早急にロシア軍の手に落ちるかと言われたが、旅順と大連の要塞線に阻まれ大損害を出してしまう。ここは日清戦争の際にもあったが、日本が租借時に近代化改修を行い、鉄壁の要塞線となっていた。また、ロシアは日清戦争の際に遼東半島の要塞線が簡単に日本の手に落ちたのを見て、簡単に攻略できると高を括っていたのだ。結果的にロシア軍はただただ屍の山をこの要塞線に築き上げることとなる。とはいえ、日本側にも被害は出ており少しずつ押され始めていた。
一方で朝鮮半島は“やや”順調に戦線を押し上げていた。
旅順攻防戦が始まっていた頃、日本軍は朝鮮半島のほぼ全土を掌握。ウラジヴォストークに攻勢をかけようとしていたほどであった。しかし、戦争序盤に北部の金鉱山の権益を守る部隊が満州のロシア軍に敗れ、鉱山地帯がロシアの手に渡ってしまう。ロシア軍が見た光景は金鉱石がゴロゴロとある宝の山であった。
日本の権益を守る部隊が破られ、ロシアに渡ったのはわずか二週間であった。しかし、日本軍が再び奪還した時には集積場にあった金鉱石の山は無くなっていた。これに日本政府は激しく怒ったがさらに追い討ちをかけたのがフランスのメディアであった。なんと朝鮮半島の日本権益から大量の金が取れるという記事であった。(ロシアに駐在武官として送られていた人からのリーク)
これにより秘密にされていた鉱山が世界にバレ、各国が朝鮮に進出して来ようとする原因となった、、、
一方で陸では順調に進んでいたが、それは日本海でも起きていた。
当時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎は、ウラジヴォストークにいるロシア太平洋艦隊をいかにして殲滅するか、考えていた。そこで行われたのがロシアの太平洋拠点全てに上陸するという大規模作戦であった。第一陣が樺太全土に上陸。ロシア側が混乱している中、陸軍がウラジヴォストーク攻略戦の最中、第二陣が近隣のナホトカに急襲。これを一日で占領してしまう。そして更に第三陣がカムチャッカ半島に上陸。これにより太平洋の安全が確保されることとなる。
ロシア太平洋艦隊司令部は、艦隊を守るため、ウラジヴォストーク攻略戦の最中、同盟国のフランス領インドシナに艦隊を移動させた。
この行動により、陸戦を担当している陸軍将兵の士気が低下。そのままウラジヴォストークに拠点を置いていたロシア軍総司令部が降伏した。
ちなみにロシア太平洋艦隊は、インドシナに向かう途中で対馬海峡を通過しようとしていたところ、鬱陵島近海で日本海軍の仮装巡洋艦である信濃丸が発見。その後、対馬沖で待ち伏せしていた日本海軍主力艦隊と激突。日本海海戦が勃発した。
ロシア側は、戦艦七隻に装甲巡洋艦四隻、加えて防護巡洋艦六隻や多数の小型艦を率いた大艦隊であった。
だが、日本側は、戦艦だけで、前弩級戦艦の富士型戦艦六隻と新型の敷島型戦艦四隻(富士型の改良型艦)、更に弩級戦艦の金剛型一隻という、合計十一隻。さらに明治天皇がこよなく愛したという筑波型巡洋戦艦が四隻に装甲巡洋艦がイギリス製の浅間型二隻、それを元にした八雲型十八隻、その他防護巡洋艦などを含めた艦が多数配備されていた。
金剛型は排水量が20000トンを世界で初めて超えた艦であり、30センチ主砲が中心線状に背負い式で連装4基8門搭載していた。ネームシップの金剛は戦争に間に合ったが、建造中であった同型艦4隻は呉と横須賀、それに新しく新設された佐世保で建造されていた。(金剛は呉で元々試験艦として建造された)
そして明治天皇がこよなく愛した筑波型は富士型戦艦と同じく10000トン超えの船体に戦艦と同じ30センチ砲が連装2基4門といういたってシンプルにまとめられていた。また、装甲が戦艦よりも薄いが、速力が21ノットで、他の主力艦よりも優速であった。ちなみのこの艦型から、衝角がなくなっていた。(後々世界各国がまねをするようになる。)
このような新型艦を大量に保有していた日本海軍はロシア太平洋艦隊を粉砕すべく、主力艦のほとんどを日本海に派遣していた。結果、圧倒的な戦力差となり、一方的にめったうちにあったロシア艦隊はおよそ30分で大まかな戦闘が終結するという圧倒的な戦いとなった。(中には戦わずに降伏した艦も)
この戦いの後、1905年にロシア国内で血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの反乱などにより、国内情勢は日々悪化し、奉天での敗北などの満州戦線が崩壊したため、ロシアの要請にアメリカが答え、セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシアは講和、1905年にポーツマス条約が結ばれた。
講和内容は、ロシア軍の満州からの完全撤退及び満洲にあるロシア権益の譲渡、朝鮮半島の日本の優位性が確認された。また、沿海州と樺太全土の割譲。そして賠償金およそ8億ルーブルという多額の賠償金が課せられた。皇帝のニコライ2世が
「我が国の領土と金を一切与えるな!」
と交渉団に言っていたのだが、そんなのでは交渉になるはずもなく、割譲させられた領土は元中国の領土と辺境の島であり、ここは皇帝がまだ納得した。賠償金は50年で分割払いとなり、皇帝は認めなかったが、日本側交渉団が頑なに要求して、更には戦争継続を言っていたので、しぶしぶ賠償金を支払うこととなった。これほどまでに賠償金にこだわっていたのには、
「絶対に賠償金を支払わせろ!」
と、明治天皇が言ったことが原因とされているが、なぜそこまで賠償金にこだわっていたのかは不明である。
とにかく、極東の島国が白人に勝利したのに世界は驚き、後のフィンランドの辺りやオスマン帝国はこの勝利に喜び、特に東郷平八郎の名前を子供達に付けられ、現代の高齢者の中に「トウゴウ」の名前の人がいるのはそのためである。
かくして日露戦争は終わったが、国際情勢は更に緊迫した状態となる、、、
ついにバレてしまった権益です。
一体どうなるのでしょうか?
次回、ひと時の平和です。
12月11日に一部改編しました。
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