第十二話 明治帝の予言と事前対策
第十二話です。
未曾有の大災害です、、、
1923年、関東を巨大な地震が襲った。 現代では、こう呼ばれている、関東大震災と、、、
一般的に、大震災と呼ばれる災害ではそれぞれ死因に特徴がある。阪神・淡路大震災では家屋の倒壊などによる圧死、東日本大震災では津波による溺死が多い。そして、今回起きた関東大震災において、最も多かった死因が“焼死”であった。理由は、当時日本海沿岸を北上する台風による強風が関東地方に吹き込んでおり、木造住宅が密集していた当時の東京市などで火災が広範囲に発生したからである。発生時はちょうど昼食前ということもあり、食事の準備のために火を使っている家庭も多かった。そのため強風や水道管の破裂もあり、火災が長時間続いた。
また、関東圏という広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃したため、国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われることとなる。しかし、内閣総理大臣の加藤友三郎が震災発生8日前に急死していたため、政府は対応に遅れることとなる。
そんな中、災害対策および復興対策に真っ先に動いたのが大正天皇である。
まず真っ先に近隣の府内(東京都は以前は府だった)の消防署および消防団を根こそぎ動員し、消火に当たった。実は震災2日ほど前に、大正天皇は府内の消防署および消防団に水の貯水を伝達。これにより付近の水道管などが使えなくとも、一時的に消火が出来、一部地区の消火に成功する。それでもやはり一部では消火に失敗し、大規模な火災が東京の街を包んだ。この震災による死者および行方不明者は6万人を超える未曾有の大災害となったが、現代では、大正天皇が貯水を命じていなければ、死者、行方不明者は10万人を超えていただろうと言われている。また、なぜ2日前に貯水を命じたかは、明治帝の遺書にあると言われているが、実情はわかっていない。ちなみに皇族は全員無事だったそう、、、
そして、大正天皇は政府を自ら牽引し、災害対策にあたる。
大正天皇は直々に帝都復興院を設置し復興事業に取り組んだ。
帝都復興院が作り上げた復興計画は、大規模な道路整備や土地区画の整理などが盛り込まれ、帝都をつくり変えるものであったが、その実現のために莫大な額の国家予算が必要とされていた。その額、60億円。当時の国家予算は15億円ほどだったのだが、その四倍ほどの予算が組まれた。この予算の中には、政府が極秘で貯めていた、アラスカ州や朝鮮州からの金を使っていた。そのため予算の4分の3は政府で調達できたが、残る15億円は外債によって賄われた。特にモルガン商会は1931年までに、10億円を超える震災善後処理公債を引き受けた。また、残る5億円の引き受けには、同盟国のイギリスやロスチャイルドなどの世界各地のユダヤ人が参加した。
また、地震発生後、約6割の家屋が倒壊したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。これにより、各地の避難所は避難民による過密地帯となる。避難民は、社寺や学校、公園などに避難していたが、公的な避難場所の造営としては、陸軍のテントを政府が借り受け、明治神宮外苑、宮城前広場などに設営された。また9月4日からは、政府および東京府がバラック(現在で言う仮設住宅)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮や日比谷公園、靖国神社などでは瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現。そのほかにも各小学校の焼け跡、校庭などにも小規模ながらもバラックが建設されるようになっていった。
また、震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系による凶悪犯罪、暴動などの噂が、行政機関や新聞、民衆を通して広まり民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、間違われた日本人が殺傷される被害が発生した。(日本人も朝鮮人も同じ国籍、、、)
伊藤博文暗殺未遂事件は、未だに人々の記憶に残っていたのである。
これを受けて、指揮をとっていた大正天皇は、
「やはり、起こってしまったか、、、」
と、意味深な言葉を残している。そして、政府は戒厳令を発令。軍まで動員し、国内の治安を維持しようとした。これに市民が自警団を作って朝鮮人を捕まえようとするが、逆に自警団が軍に捕まるという、おかしな話も発生した。ちなみに朝鮮人や中国人、間違われた日本人などを殺傷した軍人や警察官、そして民間人(自警団など)や噂を流した行政や新聞社などは、全員捕まっていったとされている。連邦において、人種差別など、言語道断だったのだ。
現在、この事件を機に発令された戒厳令の発令日は、連邦内において、毎年犠牲者に黙祷が捧げられることとなっている、、、
また、これまた地震発生後のことだが、海外から、義捐金(募金)や救援物資、が送られた。義捐金の多くはイギリスやアメリカ合衆国、中華民国から送られ、ほかにもインド、オーストリア、カナダ、ドイツ、フランス、ベルギー、ペルー、メキシコなどからも救援物資や義捐金が送られた。特にアメリカやイギリスの戦艦であるコロラド級戦艦や守護聖人級戦艦(N3型戦艦)が、救援物資や避難民を日本海軍と共に運んだことも記録に残されている。
ちなみに日本海軍はこの際に同盟国イギリスに戦艦長門の最高速度がバレてしまったが、イギリスは黙認していた。(完成当初は23ノットと発表していたが、実際には26ノットを超えていた)
また、横須賀海軍工廠では、震災前日まで、空母に改装予定だった巡洋戦艦天城がドックにいたが、空母改装中、突然進水したことにより、難を逃れていた。ちなみにこれを指示したのは、大正天皇だと言われているが、事実かどうかは分かっていない、、、
そして、復興が行われ始めたが、大きな事業としては、各行政施設の移転と帝都である東京の大規模なつくりかえであった。
行政施設の移転は、東京にまとめられていた各行政施設を各州に分けて配置するというものであった。これに政府は猛反発したが、次また帝都が災害に襲われたらどうするのかと大正天皇が強行し、各州に分けられるようになった。(アラスカ州は流石に遠すぎるのとあまり人口がいないため分けられなかった)
ただし、一応帝都に予備施設が作られ、のちの太平洋戦争においては一時的に帝都で全行政を引き受けることとなるが、それは後々の話、、、 ちなみに現在ではほぼほぼ明かりの見えない予備施設が並んでいる赤坂は、一部の人には人気のスポットなっている。(一部は使用されている)
そして帝都のつくりかえでは、耐震建築と不燃化が重視され、鉄筋コンクリートの建物やアパートが建てられた他、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。特に公共交通機関が破壊されたことにより、自動車の交通機関としての価値が認識されたことから、震災後には、自動車保有台数が激増し、アメリカからの輸入や、ライセンス生産された安価なTフォード車の普及により、国民のほとんどが自動車を持つようになる。ただし普及には、だいぶ時間がかかるので、それはまた後の話、、、
そうして日本は震災からなんとか乗り切ったが、事件が起こる。
大正天皇が崩御されたのだ。
元々身体が弱かったのだが、震災でさらに無理をしたことにより、体を壊し、死ぬ間際には食事がゴム管による流動食であったほど病弱になっていた。そして、12月25日、崩御した。
全国で歳末行事の自粛や平穏祈願が行われ、ラジオは12月16日以降、娯楽放送を中止し、宮内省からの発表があれば随時、病状を報道していた。また、12月14日から死去までの宮内庁発表は61回行われており、ラジオでの放送が合計433回に達したのは現在でもよく知られている。
そして大正天皇の後を継いだのが昭和天皇である。
大正天皇が病弱であったこともあり、早くから摂政として、政治を支えていたこともあり、政治交代はスムーズに行われた。そのため、就任当初から積極的に政治改革を行ったとされている。
そして1929年、事件が起こる。暗黒の木曜日とも呼ばれる株価大暴落がアメリカで起きたのだ。そして、それは世界を襲うこととなる。
世界恐慌の始まりである、、、
12月4日、一部改変。
明治天皇の暗躍、、、
次回、世界恐慌の始まり。
読者皆さん、誤字脱字の報告ありがとうございます!
よろしければ評価とブックマークをよろしくお願いします!
ついでに誤字脱字の報告も、、、




