高級旅館にいたおひとり様の男性宿泊客
「やっぱり温泉に入った後のビールは最高だよな」
おれの前に座る松本は嬉しそうにそう言うとジョッキを空にした。酔っ払っているのだろう。顔はほんのりと赤い。
大学の卒業旅行に男4人で温泉旅館に泊まりに来た。正確な金額は忘れたけれどかなり奮発した。部屋には大きなバルコニーがあり4人が余裕で入れる露天風呂まであった。想像以上のクオリティにおれたちは大はしゃぎした。
「あんまり飲み過ぎるなよ、お前はすぐに記憶を飛ばすんだから」
松本の右の席でお母さんのようなことを言う長谷川。でも長谷川の顔も既に真っ赤だ。体も左右に揺れているし、よく見るとメガネも若干ずれている。
夕食会場は旅館の大きな宴会場。おれたちの他にも大学生っぽいグループや小さな子どもがいる若い夫婦、熟年夫婦の姿が見えた。
和牛に海鮮、天ぷらに松茸ご飯。普段の食事からは考えられないくらい豪華な献立の夕飯を食べながらおれはぼんやりと他の宿泊客を見ていた。
宿泊客の中に宴会場の隅で一人黙々と食事をしている男性がいた。浴衣を着ているのでたぶんおれたちと同じく温泉に入ってきたのだろう。それなのに何故か険しい顔で料理を睨みつけながら食べている。全く楽しくなさそうだ。
「おい、どうした? もしかして小田も飲みすぎたのか?」
横を見ると岸河が心配そうにこっちを見ていた。酒が飲めない岸河の右手にはジンジャエールの入ったグラスが握られていた。
「いや、大丈夫。おれたちの他にはどんな人が泊まってるのかなあと思って」
「ああ、割と多いよな」
岸河はそう言いながら周りを見た。そしておれの側に擦り寄ると耳元で囁いてきた。
「あのおひとり様のおっさんには関わるな」
「は?」
意味がわからなかったおれは岸河の顔を見た。岸河はすごく真面目な顔をしていた。
「あのおっさんはなんか変だ。さっきもおれたちのことを睨みつけてたし。すげー嫌な感じがする」
「まじかよ」
「だから絶対関わるなよ。お前はおれらの中で一番人に絡まれやすいんだから」
「そんなこと言うなよ。でもわかった。注意する」
「ん」
岸河はそう言うとジンジャエールを飲み干し松茸ご飯を食べはじめた。
明日は旅行最終日。朝から近くの城下町に行って観光。そこでお土産を買い昼ご飯も食べて夕方の新幹線で帰る。明日で旅行が終わるのか……そう思うとなんだか寂しい。そう思った時だった。
「おれ、帰るわ」
松本はそう言うといきなり立ち上がった。
「は? 何言ってんだよ。酔ってるのか? 面白くないぞ」
岸河が面倒くさそうな顔で松本を見た。でも、松本は真剣な顔をしている。
「おれ、帰らなきゃいけないんだよ。絶対に」
そう言うと松本は廊下に向かって走り出した。
「どうしたんだあいつ」
おれが首を傾げていると今度は長谷川が立ち上がった。
「タクシー呼ぶわ。おれも帰らなきゃ」
「は? お前まで何言ってんだよ」
岸河が苛立たしそうに言った。
「帰るって明日観光してからみんなで帰る予定だろ? 新幹線も予約してるのにいきなりどうしたんだよ」
おれも岸河の流れに続いた。なのに長谷川はおれたちを見ることもなくいつの間にかスマホを取り出し電話をかけはじめた。
「おい、ちょっと待てって。どうしたんだよ」
岸河は立ち上がると長谷川のスマホを取り上げようとし始めた。なんだか面倒なことになってきた。さらに嫌なことに、周りの宿泊客の視線がおれたちに集まり始めるのを感じた。もうすごくいたたまれない。
ん?
おれたちに向けられる視線の中に異質なものがあった。多くの人が興味関心の視線を向ける中、興奮しながら食い入るように見つめてくる人がいた。宴会場の端にいたおひとり様の男性だ。
なんなんだ。男子学生が騒ぎ出したからってそんな目で見るか普通。岸河も言っていたがやっぱりあのおっさんは変だ。もしかしてあれか? そういう性癖か? そんなことを考えながらおれは視線を長谷川に戻す。
長谷川はスマホを耳に当てながら固まっていた。岸河も固まる長谷川を心配そうに見ている。
「おい、どうした?」
心配になってとりあえず岸河に聞いてみた。しかし岸河もよくわからないようだ。顔を顰めながらおれ見ると
「わからない。なんか長谷川がいきなり固まった」
と言った。
「は?」
おれと岸河はもう一度長谷川を見た。
長谷川は真顔のまま突っ立っている。
「なあ、二人ともとりあえず座れよ。な?」
周囲の視線が痛いのでおれは一旦二人を座らせようとした。岸河はすぐに座ってくれたけれど長谷川はおれを見たが座ろうとしない。
「小田、電話代わってくれ」
長谷川はおれにスマホを突き出してきた。画面には通話中と表示されている。微かだがスマホ越しにタクシー会社の女性と思われる声も聞こえる。
「早く」
有無を言わさぬ雰囲気の長谷川。おれは仕方なくスマホを受け取った。
「ここの住所を伝えてくれ」
長谷川は真顔でおれに言った。
「わかった」
おれはスマホを耳に当てようとしてふと気づいた。ここの住所をおれは知らない。いや、住所というか今泊まっているこの旅館の名前がわからない。
ど忘れとかじゃない。知らないんだ。おれはこの旅館の場所も名前も認識せずに泊まっていたことに気づいた。
急に旅館の名前が気になったおれは岸河に聞いた。
「なあ岸河。この旅館の名前ってなんだっけ?」
おれは自分の声で目が覚めた。おれは布団の中にいた。訳が分からず起き上がるとおれの隣りでは妻が寝息を立てていた。時計を見ると朝の6時。場所は自分の家。おれは夢を見ていたようだった。
大学を卒業してもう10年以上経っている。経っているのに学生時代の夢を見ていたことに気がつけなかった。
松本も長谷川も岸河も大学時代の友だちだ。卒業旅行にも一緒に行った。今でもたまに飲みに行くぐらい仲がいい。でも、夢で見た旅館は卒業旅行で行った旅館ではなかった。
あんな旅館に泊まった記憶はない。似たような食事をした記憶もない。覚えていないだけかもしれない。でも初めて見る場所だったと思う。
変な夢だったな。そう思い再び横になろうとした時だ。
「お前が最初に帰るのかよ」
耳元で男の声がした。がっかりしたような男の声が。
慌てて横を見たけれどそこには誰もいなかった。でも絶対に気のせいじゃない。おれの左耳には誰かの吐息を感じた余韻が残っている。鳥肌もかなり立っている。絶対に気のせいじゃない、おれはそう思った。
不思議な夢を見てから一か月が経った。あれから特に変な出来事は何も起きていない。夢も全く見ていない。いつも通りの平和な日常が流れている。
でも何も気になることがないかと言えばそうでもない。一つだけ気になることがある。
夢を見たあの日から松本たち3人の誰ともと未だに連絡が取れない。