時給4,000円
そのページで画面をフリックする俺の指が止まった。ついに探しものが見つかったのだ。
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【単発】機械オペレーター
㈱DUMPS
《業務内容》
倉庫内でのカンタンな機械操作(資格は不要です)
その他軽作業
《時給》
4,000円(給料当日手渡し)
交通費:全額支給
《勤務時間》
1月5日(日)
2:00~8:00(休憩:0.5時間)
単発・資格不要・給料当日手渡し
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「4,000円×5.5時間は……」
俺は血眼で電卓をたたき、そして安堵のため息を吐いた。
「22,000円!よし、助かった!!」
胸を撫で下ろしたのも束の間。俺は時計を確認し、また焦り始めた。現在時刻は午後十時。今から四時間以内に見たこともない派遣会社にWEB登録し、勤務の許可を得て、勤務地に向かわなくてはならない。間に合うかは果たして不明だが、それでもこの小さなチャンスに賭けるしかない。
俺は明日の朝までに二万円を稼がなければならないのだ。
俺はこたつの電源を切った。
「俺、こたつの電源切ったっけ…?」
一人暮らしのアパートを心配しながら、俺は夜道、自転車を飛ばした。派遣会社への登録手続きが間に合いそうにないので、勤務先に直接電話を入れたところ、「手続きは後日でもいいからとりあえず来てほしい」とのこと。なんでもいい。明日の朝までに二万円が手に入るのなら何だっていいのだ。
例えば世界で一番お金が欲しい人がこの世界のどこかにいるとして、じゃあ今世界で一番“二万円”が欲しい人は誰かっていうと、それは俺だと思う。
俺には恐ろしい先輩がいる。バスケサークルを隠れ蓑に人に混じった鬼のような先輩だ。その先輩に旅行先で二万円を借りて、明日の朝返すという約束をしたことを今の今まで忘れていたのだ。もし今日の朝、金がないなどと言おうものなら、それはそれは陰湿な報復を受けることになるだろう。それだけは勘弁だ。
「急げ急げ急げ」
下り坂の加速でライトの発電機が悲鳴を上げている。知ったことか。真夜中の交差点を何も見ずに横切った。
二時十分。勤務開始十分遅れで倉庫に着いた。遅れはしたが、ずっと自転車をノンストップでこぎ続けて来たのだから、これでも頑張った方だろう。自転車を門の側に置き、倉庫の中を覗いた。ここが何の会社かすら知らずに応募したものの、うずたかく積まれた紙束の山を見て、すぐに古紙リサイクル業者だと分かった。倉庫内に電気が点っているが、人気はない。外を見回すと、事務所らしき建物の二階に一部屋だけ明かりが点いている。俺はタオルで顔の汗をぬぐい、息を整えながらその部屋に向かった。
部屋にいたのは女性だった。
黒のショートカットからピアスだらけの右耳が覗いている。年は十九の自分とそう変わらないだろうか。モコモコのダウンジャケットを着ている。
「スキャナーで読み取ってデータ化するの。」
彼女は突然業務内容を告げた。
「え?」
何一つ飲み込めていない俺に、彼女は続けて言う。
「君もこのあたりに住んでるなら、“古紙回収”使ったことあるでしょ?古紙ってほとんどはただのゴミだけど、中には貴重な情報が混ざってる。そういう“売れる紙”を集めたのがこの倉庫。」
俺は突然、背中に別の汗が流れるのを感じた。嫌な予感がする。「カンタン作業で時給4000円」?よく考えたらそんないい話があるか?
そして俺の不安を見透かしたかのように、彼女はハッキリとこう言った。
「このアルバイトは完全なる犯罪です。じゃ、よろしくね新人君。」
そのときの俺に「逃げろ」なんて言う奴は、きっと危機感の足りない馬鹿野郎だ。あんなにハッキリ犯罪ですと言い切られると、かえって断るのが恐ろしくなるのが普通だろう。逃げたらどんな目に会うか分からない。そう思った。
それから俺は三時間、紙をスキャナーに放り込み続ける機械と化した。とにかく今は黙って彼女に従い、この場を凌ごう。それにもしかすると、給料はちゃんと貰えるのかもしれない。だとしたら、アルバイトと何も変わらないじゃないか。
俺が作業をする間、ピアスの女はパソコンを叩きながら進捗を見ていた。
紙束の中に、ふと見覚えのある名前を見つけた。
俺はそっと女を盗み見た。彼女がパソコンに夢中なことを確認して……俺はその紙を丸めてポケットに突っ込んだ。
「君。」
俺はヒヤッとした。バレたか?
「そろそろ休憩。事務所で休んでな。30分後には戻ってきて。」
どうやらバレてはいないらしい。
「了解っす。」
俺はそそくさとその場を立ち去った。事務所の扉を閉め、くしゃくしゃの紙を開くと、俺は笑った。
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納品書
《鬼村 龍哉》様
この度は当店をご利用いただき誠にありがとうございます。
ご注文の品を納品致しますのでご確認下さい
合計 11,000 円
ご注文内容
品番 商品名 数量 金額
221075 プ○キュア変身ヒーリングステッキDX 2 ¥11,000
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「ギャハハハハハ!!」
検索にヒットした商品を見て、俺は笑い転げた。納品書は俺に二万円を貸した例の先輩のものだった。あの恐ろしい先輩がこんな恥ずかしい物を買ってたなんて!俺は机を叩いて笑い、笑いすぎて噎せた。何よりこれから先、先輩を脅す材料が出来たことが嬉しかった。人生何があるか分からない。思わぬところで武器が手に入った。俺は納品書をスマホで写真に残し、ニヤニヤしながらもう一度ポケットにしまった。
そんなこともあり、残りの作業は楽しい気分で進んだ。そして朝七時、全ての作業が終わった。
「これで全部っすか?」
俺は伸びをしながら訊いた。ずっと中腰の作業で背中がガチガチだった。女はパソコンを離れ、笑顔で近づいてきた。
「お疲れ様。でも残念ながら、まだ仕事は残ってるよ。一番大事な仕事がね。」
「大事な仕事?」
「これ君のだよね。」
そう言った女の手には、一枚のレシートが握られていた。
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伝票No.02 2名
■■■領収書■■■
2019年12月29日
商品名 数量 金額
お通し 2 ¥1,500
席料 2 ¥3,000
年末料金 2 ¥3,000
週末料金 2 ¥3,000
鶏唐揚げ 2 ¥1,760
たこわさ 2 ¥1,760
鶏なんこつ唐揚 2 ¥1,560
カシスオレンジ 1 ¥580
カルピスサワー 1 ¥580
だし巻き 1 ¥880
ジンジャーハイ 1 ¥580
焼鳥盛合せタレ 2 ¥1,760
生ビール 4 ¥2,720
枝豆 2 ¥1,360
ポテトフライ 2 ¥1,760
ウーロン茶 2 ¥960
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小計 ¥26,760
サービス料 ¥8,830
外税 ¥3,559
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合計 ¥39,149
現金 ¥40,000
お釣り ¥851
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俺はレシートを受け取った。見覚えがある。裏を向けるとぐちゃぐちゃの文字で「1/5 2万かえせ 殺す」と書いてあった。その文字を見てハッとした。間違いない。先輩と旅行先で飲みに行き、ぼったくりに遭った時のレシートだ。先輩が俺の代わりに代金を支払った後、「2万返せ」と叫びながら、レシートにこのメモを殴り書きして俺に渡したのだ。
けどそれが何だというんだ?俺は怪訝な表情を浮かべたが、女は無視して続けた。
「これが12月30日の可燃ゴミに混じっていたレシートね。それでこっちが一緒に破り捨ててあった給与明細。」
女はそう言って俺にもう一枚紙を手渡した。
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給与明細書
令和元年11月分 氏名:日比谷 涼
勤務日数 就業日数 欠勤 勤務時間 時間外勤務 深夜勤務
勤怠 3 3 1 15 0 0
基本給 時間外手当 深夜手当 交通費 総支給額
支給 ¥13,650 0 0 ¥2,260 ¥15,910
住民税 所得税 厚生年金 健康保険 雇用保険 控除額
控除 0 0 0 0 0 0
差引支給額 ¥15,910
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「これが……何だよ」
俺がおずおずと質問すると、女は笑顔を貼り付けたまま答えた。
「私もね、この二枚を拾った時点じゃ、これが君のものだって知らなかったんだけど、これを見たとき思ったの。『おや、ろくにお金も稼いでないのに2万円借りて、怨みを買ってる馬鹿がいる。きっと今頃手元にお金がなくておろおろ焦ってるぞ。』ってね。それで試しに“釣り”の広告を打ってみたらこの通り、頭の弱いお馬鹿さんが見事に飛びついて来た。」
俺はカチンと来た。
「……俺が馬鹿だって?」
女は口に手をあててクスクスと笑った。俺には一瞬、女の顔が蛇のように見えた。
「君、自分が馬鹿じゃないっていうの?じゃあ聞くけど、どうしてこの日、自分の財布の中身を確認してなかったの?」
俺は舌打ちをした。
「……相手の財布をアテにしてたんだよ。こっちは普段そいつに散々迷惑かけられてるんだ。たまに役に立ってもらって何が悪い。」
「ふ~ん」
そう言いながら、女は大きな機械の側まで歩いていった。そして大きなボタンを押すと、謎の機械がうなり声をあげながら起動した。
「じゃあそれはいいとして、どうしてお金を借りたその日に返さなかったの?」
俺は轟音に負けないよう、少し声を張り上げた
「……そりゃあ、もし向こうが貸したのを忘れてくれたら、返さなくてもよくなるからな。」
女は今度は蔑むように笑った。
「君も十分クズだね。……そういえば今日遅刻してきたよね?勤務希望の連絡もギリギリだった。勤務開始時間に間に合わないなら働くの諦めようとは思わなかったの?」
俺はだんだんイライラしてきた。
「遅刻してでも今日は金を稼がなきゃいけなかったんだ。お金を返せないとそいつから酷い嫌がらせを受けるから。」
こいつはどう話を持っていきたいんだ?俺は訝しみつつ答えた。女は騒音の中、少しずつこちらに近づいてくる。
「君の家からこの倉庫まで、普通自転車三十分では来れないよね?来たとき大汗かいてたけど、ずっと信号止まらずに来たの?危険だよね?自分の命よりも嫌がらせを受けないことの方が大事なの?」
「人間そう簡単には死なねえ。ビビりかよ。……つーか何で俺の家まで知ってんだ。」
倉庫内に機械音が轟いている。女は笑顔のまま近づいてくる。
「そりゃ情報が筒抜けだからね。あの派遣サイト偽物だから。個人情報入れる前に、詐欺じゃないかちょっとは考えなかったの?」
「てめえ、情報抜き取りやがったのか!!くそ!詐欺かどうかなんていちいち調べるわけねーだろ!!それより一旦機械を止めろ!うるせぇ!」
ゴウン、ゴウンと、あまりの騒音に耳鳴りがした。女は無視して近づいてくる。
「そもそも時給を見て何か怪しいと思わなかった?派遣会社も通さず働けるなんておかしいと思わなかった?」
「そりゃ、怪しいとは思ったよ!!けどまさか、こんな犯罪に巻き込まれるとは思わないだろ!!」
女が近づいてくる。
「でも私一番最初に言ったよね?『これは犯罪だ』って、はっきり。どうして犯罪の片棒を担ぐことになると分かった瞬間に逃げ出さなかったの?犯罪に手を染めても、自分ならどうにか助かるだろうと思ったの?」
「違う!逃げるのが怖かったんだ!誰だってこんな状況に追い込まれたら怖いに決まってるだろ!!つーかさっさとその機械を止めろ!!!うるせぇっつってんだろ!!!」
叫び声は、次第に大きくなっていく機械の音に掻き消された。女はもう目の前に立っていた。
「その理屈はおかしいよね?君が怯えてたっていうんなら……」
女の手には包丁が握られていた。
「どうして自分が死ぬとは考えなかったの?」
日が昇った。
朝の倉庫には轟音が響いている。スキャン済みの紙が、巨大なシュレッダーにかけられていく音だ。辞書ほどもある巨大な紙の束が、豆腐のように易々と削られていく。粉微塵になった紙はコンテナに入れられ、焼却所へと運ばれる。輸送用のトラックは昼頃到着した。コンテナを積み終わり、トラックが鈍いエンジン音を轟かせながら倉庫を離れていく。
名も知れぬ女は表情を変えずにその車を見ている。否、もはや彼女は車を見ていない。ただトラックが道路に残していった、赤く細い筋を見つめていた。
「……あなたはどうやら身の回りにロクな人間がいないと思ってたみたいだけど、借りたお金を忘れるような人間の周りには、同じろくでもない人間が集まるものよ。」
女は笑った。
「じゃあね、危機感のない馬鹿野郎。」
(終)