4 どこから見ている?
どうも、こんにちは矢暮です。
今日は、この間書いた『キングオブコント』を見たときの印象から、僕なりのその構造的イメージをネタに語ってゆきたいと思います。
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ですが、その前に。
どうやら世間では、あのノーベル文学賞のカズオ・イシグロ氏と、その選考から毎年話題になるあの村上春樹氏との比較の話題が取り沙汰されていますよね。
何となくなんですけれど、まずはその話題から僕なりに語ってみようかと思います。
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本当にこれは僕なりの見方なんでアレなんですけれど。
この話題のお二方を比較すれば、その書き手の根底が判るというものかなあっていう話題でしてね。
それこそ書き手の文章ってのは、その人の性格というか人柄とでもいうか、そういうものが無意識に滲み出てくるものだと思うんですね。別にそれは文章に限らず、文字であるとか絵であるとか……。多分。
その無意識が大事なんだと思うんですよ。
逆説的に言えば、勉強や仕事ができる人。もしくは職人さんでも達人の域に達している方は、それがその人の無意識に落とし込まれている状態なのだと僕は思っています。
つまり、頭でいちいち考えている段階では到底序の口の序の口。
その行動や考え方が体全体に沁みついていて、それにより何にでもスッと対応出来たり、スッと滲み出てきた状態こそがようやくそのスタンダード。いうなれば、その段階に達していなければ無意識に落とし込んだ状態だと言えない。
子供の時分に、割合それに早く気付いた人は大抵器用に何でもこなせる人になるし、何にでも対応することができる人になる。
とはいえ、まあ、それが人生を良い方向に導くか悪い方向に導くかは置いといてですけどね。
そんな根底を踏まえた上で、上記のお二方を比べて考えてみたいと思います。
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その前にもう一つ。
これを読まれている方々に、構造的イメージを画像に置き換えるという思考も持って頂きたいと思います。どうもそれがないと、これから説明することが分かりにくいかと思いましてね。
僕の思考イメージは、立体的画像イメージ的な事柄が基になっているので、時々分かりにくいとは思うんですよね。
言葉巧みなようでいて、実は僕の思考は【画】なんです。
その画のイメージで言うところ、村上春樹氏の文面というか物語の道筋から見た作者のイメージというのが、
【この作者さんは、この世の中が大っ嫌い】
という土台が起点になっているという感じ。
それを画にしてみると、
【地面の奥底から見上げながら現在点を観察して、世の中を揶揄している】
という感じかな。
確かにこの方は頭がいい方なんだと思います。
頭がいいから、そこから凄まじく物事を沢山考えるのだろうけど、いかんせん見る場所が地の底から。
地の底からのイメージを、仮に第三者視点に切り替えたとしても成分はその殆どが地の底に近い視点。
できればそれ以上の第四者視点に切り替えられればいいが、なかなかどうしてそんなことは出来にくい。
というか、そんな場所から観察し続けていれば、息継ぎも辛く力が入り過ぎて現実を揶揄しやすくなる。
間違いなくそんな思考経路を辿っているだろうな、というのが僕なりの意見。
その点、カズオ・イシグロ氏の文章を読むと、比較的極めてフラットな場所から物事を観察している感じ。
多分、このお二方が同じネタで物語を書いたとしたら、別の物語が出来るのだろうと僕は推測します。
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その上、どちらが良いか悪いかは別として、カズオ・イシグロ氏の登場人物には懐かしさみたいなものがあり、物語に起きている出来事があまり良い状態でないにもかかわらず温かみというものを感じる。
その登場人物の感情や行動こそ、くどくどと説明されていないにもかかわらずにね。
それこそが人間の、
【言い表せない言葉ではない繋がり】
なんだと思うんですよね。
に比べて、村上春樹氏の物語は無味無臭に近いイメージ。
平面のキャンバスに、巧みな何かをこんもりこんもりと塗りたくっている。それはそれで尋常ならざる巧みさ加減で。
確かに演出的にそういった何かを表現しているシーンがふんだんに盛り込まれているのだけれど、それでも匂いや温度がどういうわけか僕には体感的に伝わってこない。
多分、村上春樹氏自体に、その体験というか、もし体験があったとしても感覚が薄いのだと思えるところがある。
言うに及ばす、人間は必ずしも一定の感覚も間隔も有していないし。
自らがスタンダードだと思えることも、他の人がそうであるとは限らないし。
だからこその社会性であり、芸術であり、面白味であるわけで。
その点で言えば、どちらが良いとか悪いとかではないんだけれど、ノーベル賞的に言えばカズオ・イシグロ氏であるんだろうな、というのが僕の意見。
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僕もその意味もあって、こういうものをここに書いているんです。
つづく。