8 オアシスにて
「そろそろ落ち着きましたか?」
ジンは携帯していた水筒をアイシャに手渡しながら話しかけた。ジン達はメロッサから離れた砂漠にあるオアシスにて焚火をしながら夜を過ごしていた。
こういった砂漠に点在しているほとんどのオアシスはハーキムの一族による水路工事により整備されていたがこの場所は僻地にあり管理もされていなかった。
それ故に何かあった場合にはこの場所を避難所として定めており、場所も潜入前に確認していたためこの場所にてヘサーム達の帰りを待っていたのである。
「ええ、ありがとうございます。
流石にカーズさんのあの速さにはびっくりしましたが」
逃走時のあの失態を恥ずかしそうにしながらアイシャは微笑む。その表情には幾分かの落ち着きが戻ってきており、アイシャはジンと向かい合うと深く頭を垂れた。
「貴方がいなければ私は捕まっていました。改めてお礼を申し上げます」
「そう畏まらないでください。私としても貴女を守るのは吟遊詩人としての責務の一つなのですから」
困ったように笑いながら話すジンにアイシャも顔をあげる。だがその肩に巻かれた包帯を見てその表情は再び暗くなる。
「もう肩は大丈夫なのですか?」
アイシャはジンの肩を見つめながらそう尋ねる。このオアシスについてからジンはすぐに水で傷口を洗いなおしていた。
その後カーズの背に積んでいたカバンから包帯を取り出し慣れた手付きで自分の方を手当てして見せた。そのおかげか今は殆ど痺れも残っていないように見える。
「幸いなことに大した毒ではなかったようです。
まぁ私はこういった危険な場に立ち会ったのは一度や二度ではないですから対処には慣れたものですよ」
何でもない様にそう言うジンにアイシャは疑問に思う。
「吟遊詩人が危険になれているというのは?
だってどの国でも吟遊詩人は保護の対象なのでは?」
「それが通じるならあなたの国でもまだ私はのんびり演奏していますよ。
結局一番怖いのは人間です。獣魔の襲撃を防げる吟遊楽団が大人数で武装しているのもその為です。獣魔に対抗する必要のない我々にとって本来なら自分達が持つ武器は荷がかさむ重荷にしかなりませんから。
ですが我ら吟遊詩人の数は多くないので必然的に適合者も少ない。切り札である獣魔の笛を使っても相討ちになるのが殆どですね」
軽い口調でそう答えるジンに悲壮感は感じられない。それがアイシャにはとても違和感があった。この少年は一体どれだけの世界を見てきたというのだろうか?
「それならジンはなぜ一人で旅をしているのです?」
アイシャは隣に座る小柄な銀髪の少年を見ながら尋ねる。どう見ても屈強な戦士には見えないしこれまでジンが戦うそぶりすら見たことがなかった。
「それは年季ってやつです。
逃げる事にかけては誰にも負けません」
そう得意げに話すジンにアイシャは思わず笑ってしまう。
「年季って。貴方私よりずっと年下でしょう?」
「わからんですよ。
貴方の前にいる男はもしかしたらずっと年寄りかもしれない。
それこそ神獣と同じくらい」
「神獣って。
創世記の神話の時代なんて何千年も前の話じゃない。
全く真面目に話す気なんてないんだから」
おかしそうにそう話すとアイシャはその場に寝っ転がりながら真っ暗な空を見上げる。その頭上には輝くばかりの星空が一面に広がっていた。
「ねぇジン。
お願いがあるの」
「なんでしょう?」
「私と話すときは敬語じゃなくて普通に話してくれない?」
「それはなんでまた?」
「だって私に対してそういう風に話してくれる人はもういなくなってしまったんだもの。
優しかった父も母ももういない。それこそこの国の人間以外の人ぐらいは私に畏まらなくてもいいんじゃない?
それに逃げる時には私の事呼び捨てにしていたじゃない」
出来る限り軽い口調はあったがそれでもそこにある悲しみは隠すことが出来なかった。
「そう言って貰えると助かる。
慣れてはいるが堅苦しい喋り方は好きじゃないんでね
まぁ恐ろしい騎士様がいらっしゃるので誰もいないときだけなら構わないさ」
そういながらジンもまたアイシャの隣に座る。その言葉は自然だったが自分の事を気遣ってくれていることはわかった。
「優しいのね。
そうやって世界中の女性を虜にしてきたのかしら?」
「堅苦しいのが苦手なだけだ。
第一この容姿じゃ大抵みんな子供扱いしかしないさ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるジンをからかうように笑うアイシャの顔はとても楽しげで更にからかおうとするがそれは後ろに立っていた黒馬に止められる。
「姫様そいつは楽しそうな話だがそれぐらいにしてやってくれ。
あいにくそいつはずっと独り身だよ。
見た目通りにそこら辺だけは純情な野郎なんだよな」
楽しそうに笑いながら話すカーズにジンはついに不貞腐れる。
「全くどいつもこいつも散々言いやがる。
助けられた恩も忘れやがって」
そうぶつぶつつぶやくジンにアイシャは笑いながら謝るのだった。
「……みんな無事かしら」
ジンもアイシャの横に寝転がり一緒に星を眺めているとアイシャはそうつぶやいた。
「大丈夫だろう。
アイシャが思っている以上にヘサームたちは強い。
ケロッとした顔浮かべて隠れ家に帰ってくるさ」
「だといいのだけど」
「……怖いか」
なにがとはジンは聞かない。その問いにアイシャが応えたのは少し間を空けてから。
「ええ。怖いわ。
皆は私の事を姫と言ってくれるけど、それは私の力でなく王家の血筋とこの赤眼があるから。
私にはヘサームたちの様に戦う力があるわけでもないし、カディアルの様に知識があるわけでもない。それなのにみんながみんな私の事を敬う。
どうか我らにご加護をって。
そんな力私にはありもしないのに」
「それでもあんたは戦う事を選んだ。
逃げる事だってできたのに。
それはなぜだい?」
「そうね。きっと知ってしまったから。
人は皆違う考えや価値観を持ってる。
だからすれ違うし、いがみ合ったりもする。
だからみんなが折り合いをつけていくためには道しるべが必要だとおもう。
そしてそれは私たちにとっての龍神様の教えなの。ザカールの民はその手を取り合いこの地で生きていく事。
龍神ティアンマトは混沌と創造の神様。全てが無になってぐちゃぐちゃになった世界で我々をお救い下さった存在。
私も一度だけその姿を拝見したことがあるわ。それがこの目を持った人間の義務であるから。
その時の私はほんの小さな子供だったけどあの姿は一生忘れない。龍神様はこんな風に言っては無礼なのかもしれないけども……美しかったわ。
そしてただ一言だけ私に告げたの。
『貴女が民と共にあらんことを』
その声はとても優しくてそれから私は何も言うことが出来なかった。
私たちの守り神は空想上の存在じゃないわ。
常に私達を天上からずっと守ってくれているの。
でもその存在に触れられるのは私達王家の人間だけ。
だから私達には龍神様の事を伝える義務がある。
その責務を無に帰そうとしているハーキムをこのまま見過ごす事は出来ない。
それが私の逃げない理由なのでしょうね」
「ならティアンマトに助力を請えばいい。
その方法をあんたは知っているのだろう?」
「人の理は人によって為すべし。
それもまた龍神様の教えよ。きっと何も為さないまま龍神様にお願いしてもなにも叶う事はないわ。
第一やられっぱなしじゃ悔しいじゃない」
そう話すアイシャの顔にもう迷いは無くなっていた。
「ありがとう。
ジンに話を聞いてもらって楽になったわ。
あなたとっても聞き上手ね」
「言っただろう。年季が違うって」
「またそう言ってごまかす。
そうね。それじゃあベテランの吟遊詩人様にもう一つお願いしようかしら。
貴方の物語を聞かせてくださいな。ずっと私の事ばかり喋っていたものね。
貴方が見てきた世界を私にも教えて頂戴」
「姫様のお望みならば喜んで」
ジンはおどけた様に畏まると、楽器を手に取り音楽を奏で始める。
満天の星空の下たった一人の観客の為にジンは歌い続けた。彼が出会った国々の物語を。その様々に彩られた物語の世界どれもが美しい彼の歌声で彩られる。
それはとても幻想的な空間でもっと聞いていたいのにアイシャはその音楽に包まれるようにして眠りの世界へと誘われて行く。
「お休み、アイシャ」
アイシャはジンのその一言を最後に久方ぶりの深い眠りへと落ちていくのだった。




