北海道採集行
息子が志望校の高校に合格した。
前々から、合格したら西表島に採集旅行に連れて行ってやると約束をしていたのだが、春休みは塾の講習会を入れたり、何か理由の分からん反対をされたりと妻の妨害に遭って行けなかった。
そんで、仕方ないから夏休み中に行こうということになった。
七月中は、息子は毎日補習があるらしいし、お盆は墓参りだの何だので忙しいから、それ以外の日でないと行けない。まあ、一生に一度のことだし俺も会社の休みを取って行こうと相談していたら、妻がキレた。
「絶対行かせん!! 八月の沖縄は台風も来るしダメ!!」
さらに、高校からの伝達を見てこんなことまで言い出した。
「夏休み中に、大学のオープンキャンパスに行けって書いてあるやん!! その時期しか時間ないんだからオープンキャンパスに行け!!」
まあ、確かに書いてはあるが、必ずとは書いていない。べつに一年生から行かずともいいだろうし、何だそれは嫌がらせかと俺も息子も怒ったが、ふと俺は気づいた。
コイツ、ついて来たいんじゃないか?
昆虫採集メインの旅行なんかについて来ても、虫に興味のない人間にとっては面白いことなど何も無いはずだが、ツンデレが服を着て歩いているような妻のことである。
「一緒に来るか?」
そう言ってみると、帰ってきた返事は
「西表なんか行きたくない」
ホラ来た。
『採集旅行に行きたくない』のではなく『西表島に行きたくない』わけだ。
たしかに西表島は魅力的であるが、それは、俺たちにとってだけの話だ。そもそも海岸でキャンプすればいいや、くらいの勢いで、飛行機以外は予約するつもりが無い。
妻は、採集旅行でもいいがちゃんといいとこに泊まれて、温泉に入って、たまにはレストランで食事などして、観光地にも寄りたいわけで、南の島で野生化する俺たちに付き合いたいわけではなかったのだ。
ではどうするか。考えついたのは北海道であった。
北海道なら観光地満載であるし、ヒグマが怖いからさすがの俺もキャンプは避けたい。
なにより、北海道ではまだチョウ採集はしたことがない。西表島には大学は無いが、オープンキャンパスも北海道へ行けばどっかあるだろう。
そういう話を息子として、もう一度妻に北海道なら来るか? と誘ったら、今度は嬉々として乗ってきた。そしてこの際だから娘も一緒に連れて家族旅行、となったわけだ。
めんどくさい話だが、要するに俺たちがどっかで何か楽しいことをしていて、自分が家に取り残されているのが死ぬほどイヤだったのだろう。
さて。出発するまでも出発してからも、なんやかやとトラブルもあったが、取りあえずそれは置いておこう。
俺たち一家は、千歳でレンタカーを借り、上川町の層雲峡にある、昆虫に詳しいとあるペンションを目指して走り出したのであった。
途中にあったはずの小樽、札幌、富良野など数多の観光地をすっ飛ばしてまで目指すその狙いはチョウであった。
チョウというと、南国を思い浮かべる方も多いと思うが、北方系のチョウも派手さは無いが、シックな美しさを持つ種が多く、存在感もある。チョウと蛾を収集している息子としては、夏の北海道も外せない場所であったわけだ。
しかし、ようやく旭川に到着したのは午後三時近く。薄曇りで雨もぱらつき、さすが北海道と言うべきか少し肌寒い。
これではまったくチョウは飛ばないだろうということで、妻と娘のためにその日は宿に最も近い観光地へ寄ることにした。一番近くて有名な場所、ということで旭山動物園である。これは、俺も息子も嫌いではない。噂通りの見せ方の巧みさに、娘も妻も喜んでくれたようであった。
一家全員満足してようやくペンションに着いたのは、午後五時過ぎ。
最初の獲物は館内にいた。
息子は、部屋の内外を問わず白壁を見ると、黒いモノが付いていないか探す習性がある。
それが大抵の場合、飛び疲れて休んでいる昆虫であり、その中に思わぬ珍種や希少種が紛れていることがあることを、経験上知っているからだ。
この時も、ペンションの階段上のかなり高い天井にチョウが止まっているのを発見した。チョウは羽を閉じて止まるから目立たない。ド近眼のくせに、一見して黒い線にしか見えない小さなチョウをよく発見できたものだと感心する。これも北海道に足を踏み入れた瞬間から、狩人の目になっているからこそできる神業であろう。
捕らえたチョウはクジャクチョウ。
北方系のチョウで、表面の目玉模様がかなり美しい種だ。
息子にとっては初採集の種類であった。本人は喜び半分、失望半分といったところ。
やはり、そのチョウの生息地である山野で、戦略を立て、待ち伏せし、追跡の末に捕まえるのが本懐なのだろう。
さて、ペンションは部屋、施設ともそれなりに整っており、食事も満足であったが、さすがは昆虫を売りにしているだけあって、変わったサービスが付いていた。
それは『灯火採集』である。
通常、灯火採集というと小型発電機と水銀灯、誘蛾灯、物干し台、シーツを車に詰め込み、昆虫のいそうな山中などに赴き、そこでガンガン灯りをたいて寄ってくる虫を採集する、というものだ。
だがこのペンションは、温泉街の中に建つとはいえかなりな山中にある。
要するにどこにも行く必要は無く、ペンションの目の前の、歩道に面した植え込みにシーツを吊し、水銀灯と誘蛾灯をぶら下げれば準備は完了。
あとは寄ってくる虫を採集するだけという簡便さであった。
ライトを点けたのは夜の七時くらいであった。最初はまだ薄明るく、こんな街中にどれほど飛んでくるかと疑問に思ったが、日が完全に落ちると、虫の数が一気に増した。
だがまあ、夜間飛んでくる虫というと大半が蛾である。
それ以外にも虫はもちろん来るが、ハチやアブの仲間、羽アリ、カメムシなどが多く、コガネムシ、カミキリ、クワガタなど一般ウケする虫は全体の数パーセントであろうか。
息子は蛾が好きなので、この灯火採集はかなり楽しめたようだが、一般の方にはあまりオススメできないサービスかも知れない。
ここでの初採集は、ジョウザンヒトリという派手派手しい蛾くらいであったが、中型~小型の蛾は、よく似ていても違う種がいる。あとで図鑑を見てみないと分からないので、とにかく片っ端から蛾を採った。
ペンションのご主人によると、ミヤマクワガタがとんでもない数飛んでくる年もあるらしいが、今年はどうやら不作らしく、雌が一頭来ただけであった。
その夜は、さらに周辺の街灯やコンビニの灯りを巡り、サザナミスズメという小さなスズメガ(小さいといってもスズメガとしては小さいという意味)を捕まえたりして終了した。
翌日は、早朝から層雲峡ロープウェイに乗って黒岳へ。
登山の用意などしてきていないから、ロープウェイの駅周辺を案内して貰うツアーに参加した。
だが国立公園だから、虫を見つけても採集出来ないというストレスに、息子はあまり楽しめなかったようであった。
そして、午後はいよいよ今回の旅の大本命。オオイチモンジの採集である。
オオイチモンジは、タテハチョウ科の大型チョウでシックな美しさを持つ種類だ。マニア垂涎のチョウ、と評されることも多いが、その理由はほぼ入手しにくさにあるといっていい。
まず、オオイチモンジは北方のチョウであるから本州だと高山にいるのだが、その希少性から特別天然記念物に指定されていて採集はできない。
それが比較的個体数の多い北海道では採集可となるわけだが、北海道といえどもその辺にフラフラ飛んでいるわけではなく、この層雲峡など高山地帯に行かなければ生息していない。
さらにこのオオイチモンジ、生息地であっても普通に歩いていては、なかなか見かけない。何故なら、その辺の草に咲く花からは吸蜜せず、広葉樹の樹液を吸うためである。そうした樹液を出す木々の樹冠、つまりてっぺんあたりを飛び、縄張り行動や交尾行動をするため、普段は十数メートルの高さにいるのだ。
こうなると、そう簡単には捕まらない。
少し前までは、高いところにいるのだからと捕虫網も十数メートルのモノを用意して、樹冠で休むものを捕獲していたようだが、一日かかっても一匹採れれば良い方、という状況だったそうだ。
これでそこそこ美しいのだから、マニア垂涎というのも理解できない話ではない。
もっと言えば、オオイチモンジのメスには黒化個体といって、模様が黒く塗りつぶされたような個体がたまにいて、これがまた珍しいというので、高額取引もされているようだ。
しかし、最近ではそこまでしなくとも捕獲できるようになった。
これは別に生態が変わったわけではなく、樹液に寄ってくるという性質を利用し、発酵させたリンゴを置いて、寄ってきたものを捕らえるという方法が開発されたからだという。
この方法を開発したのが、他ならぬ我々の泊まったペンションのオーナーであるらしく、その日も発酵リンゴの餌を売ってもらい、採集ポイントを教えてもらって出撃することになった。
ネット上で見ていた内容では、『餌』というのは固形のリンゴを発酵させたモノだと思っていたのだが、あにはからんやペンションのオーナーが出してきたのは、ペットボトル入りのリンゴジュース状のモノであった。
話を聞くと、以前は固形だったらしいのだが、それを放置したまま帰ってしまうマニアが多く、それを狙ってクマがやって来るようになって、大変迷惑だったらしい。
そこで、液状にして葉っぱに掛けるだけにしたとのこと。
我々は、教えて貰った林道へレンタカーを乗り入れてみた。オオイチモンジのシーズンは、七月いっぱいだという。俺たちが行った八月上旬は、本来ならもうオフシーズンで、一匹も採れない可能性がある、と宿の予約の際に言われてもいた。
だが、幸いなことにこの二〇一七年は、思いも掛けず季節の進行が遅かったらしく、どうやらそこそこ飛んでいる状況。
そもそも上記のように珍重されるチョウだから、旬の時期には全国各地からマニアが集い、場所取り合戦が始まるほどだというが、オフシーズンがこの時は幸いした。
クマザサの生い茂った砂利道は、いくらか人間の痕跡があったが、採集者は誰もおらず、俺たちはのんびりと採集を始めることができた。
その場所は、ここしばらく多くの採集者が入り込んでいたせいだろう、ヒカゲチョウの仲間やコヒオドシ、クジャクチョウ、キマダラヒカゲ、シータテハなどがわんさかいて、クマザサをかき分けるたびに、それこそ紙吹雪のように飛び立つ。
液状の発酵リンゴ液を、林縁部のクマザサなどに吹きかけて待つ間、俺たちはこれらのチョウを採集した。
とにかく、北海道での採集は初めてなのだ。本州で見かけたような気がするチョウも、捕獲してみると微妙に違う。しかも、これだけの数である。俺たちは一家総出で網を振り回した。息子はもちろんのこと、一番興奮して網を振り回していたのは、なんと妻。こういう時には狩猟本能のスイッチでも入るのか、釣りでもなんでも捕獲するとなると一番頑張ってしまうのだ。
しかし、釣りの時もそうなのだが、とにかくなんでも捕らえては、自分では網から出せないので俺を呼ぶ。おかげで、俺は一匹も捕まえることができないでいた。
それにしても大本命のオオイチモンジは一向に姿を見せない。
これは、ここでこうしていたのでは現れないのではないか、と、俺と息子は考えた。
つまり、妻が黄色い声を張り上げ網を振り回していては、警戒心の強いオオイチモンジは樹冠から降りてこないのではないか、とうことだ。
とりあえずここはいったん場所を休ませるべき、と結論づけ、別の場所に移動。
むろん、そこもペンションのオーナーに教えてもらった場所ではあったが、前の場所がイマイチだった場合に行ってみたら、という程度の場所だったから、めぼしいチョウはいなかった。しかし、その場所までの往復で、三十分程度場所を落ち着かせたことが良かったのだろう。元の場所に戻ると、地上五メートルほどの高さを、見慣れないチョウが舞っている。
「オオイチモンジや!!」
長柄の網を振りかざして息子が走る。
目視したとはいえ、俺なら諦めるかもう少し待つタイミングである。いや、警戒しながら飛行する昆虫を捕らえるのは、かなりな手練れでも難しい。だが、息子は果敢に攻めていった。昔からそうだったが、彼は網の扱いが異常に上手い。
その技とは、決して虫から目を離さず、捕獲するまで何度でも網を振り続けるのである。
単純なコツと言えばコツなのだ。野球のバッティングでも、最後まで球から目を切らないことがコツだったりする。
だが、足元がどんなに不安定でも、たとえば林中でも、草むらでも、砂利でも、水たまりがあろうとも、委細構わず走り続け、目標から目を離さずに何度も網を振り続ける、などというのは、分かっていてもなかなかできることではない。
息子は基本的にヘタレで体力は並み以下。もちろんスポーツは苦手な方なのだが、こういう時は大したやつだと感心する。
その時もそのオオイチモンジは、あっさりと彼の網に収まっていた。
そして、俺がそっとクマザサの茂みを進んでいくとまた一頭。今度はクマザサに止まっている。これも、せっかくなので息子に教えて捕獲させ、その後も何度か場所を休めた結果、メス三頭、オス一頭の成果となった。しかも、どれも傷の少ない個体ばかりである。
予想以上の成果となったのは、やはりオフシーズンということで他の採集者が全くいなかったせいだろうと思う。
結局その日は、俺たち以外の採集者には一人も行き会わなかったし、ペンションにも昆虫目当ての宿泊者は他にいなかった。
初めてのオオイチモンジということで、その時採集した個体は、標本用に持ち帰ることにしたが、それ以上は採りすぎというものだ。もうしばらく粘れば、まだ数匹は採れたかも知れないが、まだ日の高いうちに俺たちは宿に戻ることにした。
その夜は、興奮冷めやらぬまま、夜の街灯巡りをし、ミヤマクワガタのメスばかり五匹も採ったが、これも観察後に放してやった。
翌日以降は、一般的な観光地巡りと北海道大学のオープンキャンパス参加、ということになった。
北海道でもっとも流行の回転寿司に行ったり、定山渓温泉に宿泊したり、『水曜どうでしょう』の聖地であるHTBとその脇の公園などへも行った。
さて、北大のオープンキャンパスは月曜日。
俺は休暇をとっていたので火曜に帰ればよかったが、中二の娘は吹奏楽部に入っていて、その練習だとかで帰らなくてはならない。よって、妻と娘だけ一足早く帰ることになっていた。
そしてせっかくうるさい女性陣がいなくなった俺と息子は、ヤツらがいてはできないようなことを企み、実行したわけだが、それは次話で書こうと思う。




