〈モノ・クロームの取引〉
剥いだ魔獣の皮を手に、モノ・クロームは野営場所を発った。
十頭もの魔獣の皮はかなりの重量があるはずなのだが、彼は上等な絹を持つかのように軽々と、背嚢とは反対の肩に引っ掛けていた。
剣は一考ののち、鞘に収めたままにすることにした。危険を察知してから抜剣しても、十分に間に合うだろうと思えたからだ。
獣道と呼べるほどの道もないので、小川の流れを頼りに下流へと足を進める。
予想していた通り、モノ・クロームは相当な健脚で、丸一日歩き詰めでも苦にならなかった。足場の悪い森の中だというのに、その歩みには危なげがまったくない。類稀なる平衡感覚の持ち主なのだろう。幸い、森といっても山中に位置するわけではないようだ。多少の起伏こそあれ、平地に近い。
ただ、歩いても歩いても、鬱蒼とした樹々が目に入るのには気が滅入る。
退屈を紛らわせるように、生のままで食せる果実を見つけると、適当に捥いで口に放り込んだ。季節が実りの秋ということもあり、辺りには食べ頃を迎えた木の実や果実が溢れていた。量も種類も選り取り見取りで、気儘に食べ歩きをしていたら、昼食を摂らなくても十分に腹が満ちてしまったほどである。特に赤くて丸い果実は、水分と糖分が豊富な上に腹持ちも良かった。国によっては医者要らずとまで呼ばれる貴重な実なのだが、ここでは食べ放題と言って良い。
夕方近くなると、ところどころ切り倒された樹木を見かけるようになって来た。樵の活動領域に入ったようだ。残った切り株から察するに、炭ではなく建築資材として用いるるために切り出しているのだろう。どれも、立派な年輪を示していた。
旅の道しるべとしてきた小川も、すでに川幅は三倍ほどに広がっている。
森の中にも、人間が踏み固めたと思しき道が現れていた。町か村か規模はわからないが、人里に続いているのは間違いがない。
目的地が近いことを悟り、モノ・クロームの足取りはさらに軽くなった。
樵たちが作った道に繋がっていたのは、小規模ながらも町と呼べそうな集落だった。
冒険者組合の支部があるかどうかは微妙なところだが、魔獣の皮の買取をする素材屋くらいはあるだろう。むしろ、森に近い町ならば、素材屋や雑貨店は繁盛しているはずだ。冒険者が街まで直接運ぶよりも、専門の店に卸すほうが効率が良い。個人の冒険者が荷馬車を所有していることは少なく、運べる荷物に限りがあるせいだ。大きな街で買取を依頼したほうが高く売れるだろうが、嵩張る素材を持って移動するのは骨が折れる。モノ・クロームも、重量自体は気にならなかったが、常に片手が塞がった状況が続くのは不便であった。
日が暮れかけているので、悠長に店を探している時間はない。
町の形状から、店舗が並んでいそうな道に当たりをつけて大股に歩き出す。
当てずっぽうの行き当たりばったりだったが、幸運なことに、いくらも進まないうちに雑貨店を見つけることが出来た。店構えは小さいが、店の周囲は清潔に保たれており雑然とした印象を受けない。店主の手腕か店員の努力かはわからないものの、どちらにしても真っ当な取引を期待出来そうではある。
通りにはほかの店もありそうな雰囲気だったが、モノ・クロームは己の直感を信じることにした。
店じまいの札が店頭に掛かっていないことを確認し、年季の入った木製の扉を押し開ける。
「すまない。
素材の買取を頼みたいんだが」
「おやまあ。こんな時間まで、狩りをして来たのかい?
張り切るのはいいけど、気をつけなよ。
最近は、森に魔獣が出ることもあるらしいからねえ」
ふくよかで年配の女性が、店の奥からカウンターに出て来た。
店主が女性だったことよりも、掛けられた言葉に関心が向く。
「そんなに頻繁に魔獣が出るのか?」
「今のところ、影を見かけたとか、鳴き声を聞いたって程度さ。
ただ、新しい〈紫炎の魔王〉が現れたって話が出てるから、用心に越したことはないだろうね」
老眼なのだろう。喋りながら、前掛にしまっていた眼鏡を取り出す。
「さて、素材はなんだい?」
尋ねられ、モノ・クロームはもったいぶることなく、手にしていた魔獣の皮をすべてカウンターに置いた。
「な…っ!!!?」
店主は、無造作に置かれた黒い毛皮に絶句する。長い雑貨店経営の中でも、実際に自分の目で見たことは数えるほどしかない代物だった。
「あんた、これ、魔獣の毛皮じゃないのかい!?」
「黒爪狼の毛皮だ。傷は最低限にしてあるから、使える場所は多いはずだぞ」
「こりゃあ、本当に見事な腕前だ!
兄さん、ただ者じゃないね。
…いや、そうじゃないだろう!!」
ついうっかり口車に乗ってしまったが、老婦人はすぐに我に帰る。
「ま、ま、ま、魔獣が出たってことかい!?町の近くに!!」
「近くというほどでもない。
森に詳しい狩人が三日かけて、ようやく辿りつけるくらいの場所だ」
「声を聞いたやつらも、そんなようなことを言ってたかね…。
ああもう、びっくりさせるんじゃないよ!!!」
憤慨しつつ、豊満な胸を撫で下ろす。忙しい人物だ。
「申し訳ないことをしたな。
ところで店主、そろそろ買取をしてもらえないか。
このあと、泊まる場所と飯屋を探したいんだ」
「そんなもの、お仲間に頼んでおけばいいだろ」
「あいにくだが、俺に仲間はいない」
「……気の毒なことを聞いちまったねえ」
死別か離散を想像したのだろう。
どちらでもないと言ったところで、今度はその理由を尋ねられるだけだ。モノ・クロームは相手の空想に対して、肯定も否定もせずに置いておくことにした。本人にもわからないことを、他人に説明出来るはずがない。また、獰猛な魔獣の毛皮を持ち込んだことで、店主は激しい戦闘が起きたと思い込んでいるようだ。仲間は、この魔獣の餌食になったのだ、と。もちろん、そんな事実はない。戦闘の最中に意識を取り戻したモノ・クロームだが、周囲には魔獣以外の死体はなかった。斃した黒爪狼の体にも、剣による傷跡は残っていなかった。
青年の悲しみに触れないようにという配慮なのか、老店主は持ち込まれた品物を目の前に掲げたり、手で触れたりと、仔細に検分している。
「これだけ見事な毛皮だ。首都のバッシェヴィータで売ったほうが良い値段になると思うが、どうする?」
老婦人が口にしたのは、商立国家ヴィッハバートの首都である。夕べ、星で確認した森の場所は間違いなかったようだ。
「助言はありがたいが、嵩張る荷物を持っての旅は避けたい。ここでの買取が難しいなら、無理にとは言わないが」
「兄さんが拘らないなら、うちで買取るよ。こんなちっぽけな店でも、ヴィッハバート商業組合の端くれだからね!
じゃあ、組合員の証を出してくれるかい?」
「重ね重ね、すまない。
どうも、戦いの最中に紛失したらしい」
組合員がなにを意味するかわからないが、嘘も方便だ。
「兄さん、いくらなんでもうっかり過ぎるだろう?!
組合員の証は、あんたたちの命綱だろうがッ!!」
適当に誤魔化しておこうとしたのが裏目に出たようで、店主が激昂した。
てっきり狩猟資格かなにかだと思っていたのだが、店主の様子からするともっと重大なものらしい。
身分証あたりが妥当だろうか。
「まったく。
組合員の証がないなら、買取価格が下がるよ?
証の有無で、信用度が桁違いに変わるからね。
もったいないから、隣街の互助組合支部でさっさと新しい証を発行してもらいなよ。多少は手数料を取られるけど、長い目で見たら絶対に持っていたほうが得だからさ。証さえあれば、他の国に行くことも、海を渡ることだって出来るんだからね」
即座に損得の勘定をするのは、さすがヴィッハバート商人だ。
ヴィッハバート商人はがめついが、他人の利益にも目敏い。周囲が潤えば、回りまわって自分にも潤いが還元されるという考えが根付いているためなのだそうだ。軍費に大金を充てるところからも、ヴィッハバート商人がただの吝嗇家でないことは推し量れる。
「ちなみに、兄さんの組合員ランクはいくつだい?」
「それも買取価格に響くのか?」
「いいや。あんまりにも、仕留め方が見事だったんで、あたしの興味さ。
十頭全部、一撃で斃すなんて、並外れた腕前だよ。
雑貨店家業30年やってるけど、うちに卸しに来る組合員にこんな腕前のはひとりとしていないね。やつらの中には三ツ星だって居るのにさ」
「それは仕方がない。黒爪狼は、三ツ星レベルの冒険者が一人で倒せる相手じゃないからな」
「まあねえ。
…しかし、兄さん。冒険者だなんて、古い言い方をするもんだね」
「そうか?」
「今でも使う人は居るけど、兄さんみたいな若い人には珍しいと思うよ」
少なく見積もっても二十代半ばを、果たして若いと呼んでいいものなのか。だが、相手は五十から六十代と思われる酸いも甘いも噛み分けた商売人だ。下手に逆らって、勝てる相手ではない。
「周囲の影響のせいか癖で使ってしまうんだが、これからは気をつけよう」
言葉遣いは大体が周りに左右される。おそらく記憶を喪う前の自分の近くでは、古風な話し方が罷り通っていたのだろう。
「別に使うのが悪いわけじゃないけど、相手によっては通じない可能性もあるからね。逆に、年寄り相手なら喜ばれると思うよ」
記憶というか意識が明確になって以降、モノ・クロームは自分が持つ知識に疑問を持たなかった。自分自身に関する記憶がないことを不思議に感じても、それ以外の部分では不便を感じなかったのだ。
しかし、目の前の女店主と話していると、微妙な違和感を拭えない。
会話から察するに、冒険者は現在「組合員」と呼ばれる存在になっているようだ。同時に冒険者組合も、「互助組合」と思って良いだろう。ただし、在籍する者のランク付けは、モノ・クロームの知識からは逸脱していなさそうである。
「組合員の証」というものにも心当たりがないのだが、これは冒険者組合が互助組合に変わった際に作られた制度と推測された。
冒険者組合は、各国が独自に設けていた組織だ。ランク付けも、当該国の基準に則っていたため、身分証にはあまり重きが置かれていなかったはずである。
しかし、店主との会話を反芻してみると、組合員が持つ証には絶大な信用が与えられているようだ。紛失したと告げた際の店主の激昂ぶりが、雄弁に語っている。
「装備品にしたって、そんじょそこらの店ではお目にかかれないもんを身に着けてるしねえ」
「中古品を譲り受けたんだ。俺の稼ぎでは、到底買えない代物だ。
それにしても、よくわかったな」
さすがヴィッハバート商人を豪語するだけのことはある。モノ・クロームと会話しながら、装備品もちゃっかり品定めしていたようだ。熊亀などという希少な魔獣の素材を見抜かれるとは思わなかった。
身体への馴染み具合を鑑みても自分専用に誂えた防具なのは確実だが、入手経路や要した金額についてはさっぱりわからない。ボロを出さないためにも、本当のことは黙っておくのが良策だろう。
モノ・クロームの言葉に気を良くしたのか、カウンターを挟んだ先で女店主は誇らしげに胸を張る。
「今はこんな田舎に引っ込んでいるけど、若いころには首都の大店に奉公に出ていたこともあるんだよ!
じゃなかったら、兄さんの黒爪狼の毛皮の鑑定も出来やしないさ」
「頼もしいな。その調子で、査定を続けてくれ」
さりげなく自分のランクについての言及を逸らし、モノ・クロームは買取をせっついた。窓の外から見える空は、すっかり夜の色に染まっている。それなりに裕福な町なのか、民家からも惜しげもなくこぼれていた。
これだけ賑わいがある町ならば、宿屋を探すのは無理でも、酒場か食堂には滑り込めそうだ。
若い頃の話しを続けたかった店主だが、相手に聴く素振りがないので諦めて本来の仕事に戻ることにした。
結局、黒爪狼の毛皮は大金貨2枚と少量の消耗品に化けた。
店主はもっと上乗せしようとしたのだが、あいにく店にはそれ以上の大金貨の備えがなかった。彼女は我が身の不甲斐なさを嘆いていたが、モノ・クロームは、田舎の雑貨店に大金貨2枚もの大金が所有されていたことに驚嘆した。
世界に四種類ある硬貨のうち、日常に流通しているのは銅貨と銀貨である。
平民がもっとも頻繁に手にする硬貨は銅貨だ。銅貨一枚があれば、焼きたて高級パンをふたつ買うことが出来る。
他の貨幣については、
銀貨……銅貨十枚相当
金貨……銀貨十枚相当
大金貨…金貨千枚相当
庶民の平均月収入は銀貨200枚から300枚だが、一家が食べていくのに精一杯の額であり、貯蓄に回せるような余裕はまずない。ちなみに、労働者の賃金は金貨ではなく銀貨で支払われるのが一般的だ。細かい計算がしやすいし、使うときにも、いちいち換金する手間が要らないためである。そういった利便性からも、特定層以外には金貨はあまり出回らないのだった。
反対に、大きな金額を動かす層は、銀貨でのやりとりをほとんどしない。大量の銀貨を持ち運ぶのは嵩張るし、商談の度に銀貨を1000枚、10000枚と数を確認するのも面倒だ。ここで価値を発揮するのが、金貨の存在である。
主要都市に店を持つ商人や、組合員の中でも特注装備を誂えるようなレベルは、日常的に金貨を使う。
そのために、銅貨銀貨は庶民のカネ、金貨は商人のカネとも呼ばれているのだった。
その大店商人や中堅組合員にしても、大金貨を手にしたことがある者は稀だろう。
資産として大金貨に相当する蓄えを持ってはいるだろうが、それらを取引の場には持ち出せまい。もし機会があるとするならば、破産したときか、財産を擲った大勝負に出るときくらいだ。どちらも非常事態に違いなく、金貨をわざわざ大金貨に換金したりはしない。
大金貨一枚の価値は、庶民の年収の半年分を軽く超える。
そんな大金を無造作に財布に入れているのは、貴族か大商人か組合員の高位者くらいだ。
そもそも、大金貨は、国家からの恩賞、大商人間の取引、高位組合員の討伐報酬くらいでしか放出されることがないのだ。
モノ・クロームは、改めて店の中を検分した。店構えの清潔さを気にいって選んだのだが、よく見ると店内には高価な装備がさりげなく吊るしてある。町の規模から考えると、ずいぶん水準の高い品揃えだ。
もっとも、眼前の女主人は、モノ・クロームの防具の素材を見抜いたほどの人物だ。首都の大店に奉公していただけでなく、この町でも辣腕を奮っているのだろう。
「それにしても、大金貨2枚は多くないか?」
良い稼ぎになるだろうとは予想していたが、まさか大金貨が出てくるとは思いもしなかった。
「仕方がないだろ?
あんたが持ってきた黒爪狼の毛皮が、これから貴族が欲しがる贅沢品だし、その上どれも無駄な傷がない極上素材なんだからね。ひとつあたり、金貨200枚は下らないよ。
これが組合員の証持ちで、取引を依頼したのが首都なら、250枚も夢じゃないね」
「200枚でも十分だ」
「欲のない兄さんだよ、まったく」
しかし、商売っ気のないモノ・クロームを相手にしても、足元を見て値切らない店主も相当な人物だろう。
「大金貨は2枚しかないが、その代わり、うちの商品をいくつかつけるよ。
旅をするんなら、必要だろ?」
「正直に言うと、俺としてもその方が助かる。大金貨なんぞ持っていても、おいそれと使えないからな」
「そうさねえ。
この付近なら、互助組合支部の窓口が一番近い換金所になると思うよ。大きな買物をするなら、隣街の武器屋で使えるけどね。防具屋はだめだよ。あそこは低レベル帯の物しか扱ってないからさ」
「覚えておこう。
……なにからなにまで、世話になる」
「こっちも良い取引をさせてもらったから、お互いさまさ!
黒爪狼の毛皮なんて、滅多にない出ものだからね」
礼と自分の名前を告げて、モノ・クロームは雑貨屋をあとにするのだった。
残された女主人は、半ば呆然として彼の背中を見送った。
「………あの兄さん、色付きの名前の意味を知らないのかね?」
若い頃には店の看板娘として名を馳せた女性は、青年の正体を思うと微妙な気分にならざるを得ないのだった。
〈貨幣制度〉
銅貨……焼きたてパンをふたつ
銀貨……銅貨の十倍
金貨……銀貨の十倍
大金貨…金貨の千倍
日本円換算→
銅貨……………百円
銀貨……………千円
金貨…………一万円
大金貨……一千万円
☆大金貨は、感覚的には小切手クラスかもしれません。
〈追記〉
雑貨屋の主人の台詞を追加しました。
今後に関わってくる要素となります。