〈モノ・クロームの記憶〉
記憶は唐突に始まる。
微睡みから覚めたら、なぜか剣を握って戦っていた。
経緯も場所もわからないのに、どういうわけか戦いの術だけは心得ていた。
襲ってくる相手は、獣形の魔物だ。
四つ脚を持つ俊敏な種族で、営利な牙と爪による攻撃を得意としている。
数は、幾分か減らしたものの、まだ五頭ばかり残っており、こちらの出方を伺っているようだ。
退くべきか?と僅かに考えたものの、"己れの技量と残存体力を以ってすれば殲滅は難しくないだろう、と答えが返ってくる。自分のことだというのに、思考はひどく他人行儀だ。
頼みの武器は、簡素な造りではあるものの、どうやら相当な業物のようだ。
魔獣を片っ端から斬り伏せていくというのに、いささかも切れ味が衰えない。
剣には、様々な目的と形状のものがある。斬撃を得意とするもの、鈍器のように振り回すことを得意とするもの、関節や防具の隙間を掻い潜り細い剣身で突きを得意とするものなどが代表的な代物だ。
男が持っているのは、片手持ちの長剣だ。短くない時間を戦ってみて、自分と相棒には斬撃が向いていることを悟る。
野性の獣よりも魔獣が厄介なのは、僅かながら再生力も持っていることと、毒などの被害をばら撒く点である。しかし、男が片手剣を振るうと、魔獣の再生を待たずに絶命せしめることが出来た。毒については、爪や牙の攻撃を回避すれば、ダメージを負うことはない。
魔獣には野性の獣以上の知能があるはずなのだが、仲間を悉く屠られて激昂しているのか、不利な状態だというのに撤退する様子を見せなかった。
刃を濡らす赤黒い血液を振り払い、男は飛びかかって来た魔獣を一撃で返り討ちにする。
気がつけば、十頭もの死骸が足元に転がっていた。
衣服にも肌にも、被害はひとつもない。
碌な防具を身につけていないのは、回避行動に優れているからなのだろう。
敵がすべていなくなったことを悟り、男は改めてて己れのことを振り返る。
手繰ることが出来る記憶は、やはり先ほどの戦闘の最中が始点となるようだ。
それ以前のことは、なにも思い出せない。
しかし、戦い方や、魔獣の生体、世界の仕組み、生きていく方法などは、知識としてしっかり息衝いている。
「…どうやら、自分自身に関することだけが欠落しているようだな」
どんな人間なのか、どういう生い立ちなのか、どういう人間関係を築いていたのか、そういうことは一切思い出せない。
装備品や手持ち道具を点検したところで、手掛かりはなにもなかった。
とりあえず、戦闘に従事する人間だったのだろうとは察せられた。
身に纏っている武器も防具も、一見すると質素なのだがつぶさに確認すると優秀な品物であるとわかる。
携帯食糧や野営の道具が揃っているところから、旅慣れた様子でもある。
流れの剣士か、ギルドに加盟する組合員といったところだろう。
自身に関する記憶がなにひとつ残っていないのは不便だし、不可解だが、生きることに不都合はない。
「ただ、名無しは落ち着かないな…」
日暮れ間近の森の中、男は一人唸る。
記憶喪失についの悲壮さは微塵もなく、ただの事実として受け止めているようだ。それは、上着のボタンの糸が切れていて不便だな、という程度の感覚でしかない。
「適当な仮名でもつけるか」
今はまだひと気のない森の中だから不自由はしないが、街に出て、名乗る名前がないのは不便だ。
ありがたいことに、知識だけは人並み以上に蓄えているようだ。
脳裡に翻る様々な情報の中から、男はひとつの単語を選びだした。
「モノクローム」
どうしてその言葉を名乗る気になったのかは、わからない。
ただ、なぜかそれが今の自分には相応しいと思えたのだ。
この日、男は〈旅の剣士 モノ・クローム〉となった。
とりあえず登場人物が少なくて、申し訳ないです。