プロローグ。
新しい価値
真昼の陽光さえ遮る深い深い森林で瀕死の男が、一人いた。
歳は十代半ば、まだ少年である。 大きく呼吸を繰り返すその身体中から血を流している。
血を多く失ったその少年の眼前には大小様々な魔獣達が肉食草食問わず群れ成し、取り囲み牙を剥き出しに怒りと恐れを交えた威嚇の声を鳴らしているのだが、一頭たりとも瀕死の少年に襲い掛かろうとはしなかった。
それは、何故か?血を流す少年の両の手には肉厚のある短い剣が二本、力なく握られ案山子のように立っているだけの人間だ。
そんな一人に森中の魔獣達が縄張り、種族を問わず集まる数は三桁を軽く超えている。これだけの魔獣達が、少年からやや距離を開けるだけで近く事さえしないのだ。
本来なら、少年はとっくに殺され、魔獣達に喰われている。
何故そうならないのか…それには理由があった。
少年の身体から流れ出る,黒い血,が地面に落ちる度、ジュ!! ジュ!! と、短い音を出して大地を腐らせ汚しているからだ。
少年の身体は強力な,呪毒,によって侵されていた。呪毒に汚された血が、森と大地を腐らせる度、魔獣は、怒りのような、嘆きに似た声を洩らすが、その反面少年の意識は永の中へ沈もうとしていた。
「……はあ……ぁ……はあ……ぁ……」
息さえ苦しく、身体中の感覚がなくなっていく、血が混じった涙で視界が黒く染まり定まらない。脳に酸素も足りない。血も足りない、ただ時間と共に命を溢すだけ----これが魔王を打ち破った英雄の一人であるのだから………最後が、これか…と、ほんの少しだけ自分が情けない。
「……も……ぃ…」
もう、死んでいいか,そう声に出そうとして出来なかった。
短い人生だったけど、仲間に恵まれた。身分が低い田舎者の自分を対等に扱ってくれた。優しくしてくれた。だから、自分も命を張れた。友達もできた。想い人もできた。告白は出来なかったが世界は救った……上出来だ。
魔将軍の一角に掛けられた呪いの毒で仲間達を死なせるより、一人深い森の中で死んだ方がいい。森の中で暮らす生き物達にとっては迷惑千万では済まないが、他に思い付かなかった。
「…………ツ!」
突然、少年が吐血し膝を着いた。それを皮切りに身体中から流れる血が霧状に噴出し少年の姿を覆い隠す。
少年を中心に黒く広がる死の霧が散布され森も大地も大気が呪毒に汚染される。
少年が死に絶えれば呪毒の霧は爆発的に広がって森の大半を呑み込み向数百年は、命の種が芽吹くことはない死の森と化してしまう。
魔獣達の恐怖の叫びが獣達の嘶きが恐怖のに拍車をかけるように森中に響き渡って大混乱を巻き起こす。お互いに押し退け我先に霧から離れようとするが逆効果しか生まれない。身体をぶつけ転倒しては怪我を負い、他の魔獣に踏みつけられ命を落とす。それでも逃げる選択肢しかないのだ。
『………………』
そんな中、たった一頭の獣が、他の魔獣達と逆方向----呪毒の霧へ向かっていた。幾重にも枝分かれする二本の大角と黒天の瞳を霧の中心に向け歩む金色の体毛を持った体長四メートル程の牡鹿であった。
牡鹿は呪毒をものともせず、霧の中心へ歩み立ち止まると長い首と視線を下げ倒れ伏した少年を見つけ、迷うことなく枝分かれした大角で少年の身体をそっと掬い上げた。
角を伝い滴る黒い血がポタポタと頭に落ち毛皮を焦がすが、牡鹿は動じることなく、金色の蹄で大地を蹴りつけ少年と共に空へと舞い上がった。牡鹿は少年を角に乗せたまま空中を走りとある場所を目指した。
少年は、意識を完全に失っていたが、まだ微かに生きている。少年が、死に絶えればこの森は終わる。
少年の心音を僅かに感じ取りながら、牡鹿の視界に目指していた場所を見つけた。牡鹿は、空中を蹴りながら高度を下げ泉の畔へ足を着けた。
透明度の高い泉は然程大きくはない。水面から底は牡鹿の倍程の深さだ。牡鹿は少年を乗せたまま泉の中へ入ると少年と共に泉の中へ身体を沈めた。
水に少年の姿が沈むと黒い血が勢いよく水に溶け出し、ボコボコと気泡を立て水面を揺らす。水は瞬く間に呪毒によって汚染され黒く染まり立ち上る気泡は泉周辺の空気を汚した。
少年の身体が大角を離れ、水中を漂い牡鹿はそれを静かに見つめた。牡鹿が少年を連れ、この泉に運んだのは呪毒を抑え込む為ではない。水に沈めた位で封じ込められる程度なら大した呪いではない。牡鹿がここに少年を運んだ来た理由、それは浄化の為。但し条件はある。
『……………………』
牡鹿の身体がぼんやり光、頭部に備わる二本の大角が、ガコンと根元から外れ水底へ落ち金色の輝きを放つ。光は一気に強まり天まで届く光の柱を作り出した。
天へと、伸びた光量はものの数秒で泉の底に戻ってしまう。しかし、どす黒く濁った泉の水も大気も何事もなかったかのような静けさを取り戻していた。
しかし、驚異はまだ残っている。水中を漂う少年の姿は相変わらず死に体のまま身体に植え付けられる呪毒は一時的に抑えた状態だ。
少年が、このまま死ねば抑えた呪毒は爆弾のように身体事破裂して毒は広がる。
角を失った金色の牡鹿は水底を蹴り水中漂う少年の襟首をくわえ水から引き上げ少年の身体を水に浸けた状態で畔の縁に少年の頭を置いて呼吸を確保した。牡鹿は泉から上がると全身を震わせ水飛沫を飛ばして少年の側に巨体を横たわらせた。
無機質な黒天の大きな瞳で浅く息をする少年をじっと見つめた。血は止まって傷は癒えたが毒で蝕まれる身体は呪毒の黒い斑模様が浮かんでいる。
少年が助かるのは厳しいだろう。 だが、救わなければ全てが終わる。
ふと、牡鹿の頭にこんな考えが浮かんだ。
強力な呪いを受けた破滅の人の子が、何故この森へ来たのだろう? これ程恐ろしい呪いは千年以上生きるこの身でも初めて見た。
解呪が、可能なのは自身を含むごく一部の聖獣やハイエルフ、それも理の外に生きる者だけだ。少年が助かるつもりでこの森に来たとは思えない。
死に場所を探しさ迷い、たまたまこの森に来たとすれば、なんと言う運命力の持ち主。
詳しく話しをする必要がある。 どのみち少年の解呪回復には面倒を見なければ…数年…数十年程の時間が必要だろう。
牡鹿は少年を見つめたまま少年の意識が戻るのを静かに待った。
価値