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色を塗らぬはなにゆえか、と

「ゆかり先輩って、下絵ばっかり描いてますよね。色は塗らないんですか」


 太陽がさんさんと降り注ぐうっとうしい時期。そういえば、と前置きをして、七緒さんが小さな疑問を口にした。


「ああ、あんまり色を塗るのは得意じゃなくて」


 ゆかりが苦笑いをした。場合によっては色をつけることもあるが、基本的に彼女の絵は鉛筆書きで終了する。花の絵を描くときは特に。


「――なんていうのかな。センスがないの、私」


 うん。それは同意せざるを得ない。ゆかりの下絵は、それだけで完成品として提出しても問題ないほどに上手いけれど、色を塗ると……こう、おしい、というか、ハズレ、というか。とにかく不思議な作品になってしまうのだ。


「明良、今小さく頷いたでしょう」


 ゆかりが眉根を寄せて文句を言う。俺は小さく咳をし、もごもごと曖昧なことを言ってそっぽを向いた。それを見て七緒さんがカラカラと笑う。


「じゃあ試しにあたしと明良先輩で、ゆかり先輩の絵に色を塗ってみましょうよ。いいでしょう?」

「私は構わないけど……」


 俺は構う。大いに構う。というのも、一年生の頃、俺はゆかりの作品に色を塗ったことがあったからだ。勿論、彼女には内緒で。残念ながらあまり良い出来にはならず、そっと俺の自宅に持ち帰って証拠隠滅した。だから誰も知らないとは思うが、今ここで似たようなことをすれば、どんなボロが出るかわからない。出来れば避けたいのだ。


 だが。


「いや、俺は……」

「明良先輩もやりましょう! せっかくの美術部ですし!」

「ああ、うん……」


 パワフルな後輩に、結局は押し切られるような形で、俺は絵筆を手にしたのだった。




「む……」


 七緒さんが右手を小刻みに震わせながら、そっと色を画用紙にのせる。気迫だけは画家の様だ。そして、どうにか完成に至ったとほっとした笑いを見せて、幼子のように俺たちを見た。褒めて、と言わんばかりに。


「できました!」


 一つだけ言わせてもらうならば。できてない。なにもできてない。


 ゆかりは空気を読んで「やっぱり色があった方が映えるね」という、一般概念を口にしているが、頬が引きつっていた。どうやら彼女も同じようなことを思っているらしい。


 ゆかりのセンスの比じゃない。というか、センス云々の話じゃない。


「いやあ、お褒めにあずかり光栄です」


 褒めてもいない。


 俺は周囲をざっと見廻した。机の上には絵具が散乱し、なぜか使わないはずの黒い絵の具が机にべっとりとついている。彼女が描き始めてすぐに危険を察したゆかりが俺たちのカバンを避難させたが、残念なことに、七緒さんのカバンにはこれまた使う予定のない黄色い絵の具がすでに飛んでしまっていた。小学生じゃあるまいし、絵具が飛ぶって、普通あるのか? 


 いくら水性とはいえ、乾くと中々落ちないのが絵具。途中から応急処置にとゆかりが濡らしたティッシュで後輩のものを拭っていたが、美術部唯一の一年生はそれに気づく気配も見せず、ひたすら色を塗っていた。さらに飛び散る紫とオレンジ。やはりどちらも使うはずのない色。とりあえず何でも出しておけ、というのが彼女の信念なのか。それはともかく、素晴らしい集中力だ。本当に、集中力だけは。


「ほら、明良先輩もよく見てください。結構いい感じになりましたよね」

「そう、だね?」


 疑問形になったのはご愛嬌だろう。七緒さんが色をつけたのは、桜の絵だった。だが、誰しもこの場にいれば大方の予想がつくように。


「この赤と青がいい具合に引き締めてると思うよ」


 自分で言っておいてなんだが、引き締めるって、何を。そもそも、通常桜に原色の赤や青は色づかない気がするが。


「ですよね。それに、細かいところにも結構上手くいったとおも――って、明良先輩!」


 急に大声を出す後輩にたじろぐ。


「な、何」


「右側の頬のとこ、緑色ががっつり付いてます! って、机がすごいことに!!」


 七緒さんがはっとして周囲を見た。ぐちゃぐちゃの机、床に広がる絵具の花畑。ゆかりの頑張りによってバッグはどうにか色が落ちたらしく、少し濡れているにとどまっていたが。


「……そうだな」


 バッグに飛ぶくらいなら、顔にも付くか。俺は少し苛立ちながら、手の甲で頬を拭う。それが失敗だった。感触でわかった。鏡を見るまでもなく、絵具がのびた。ヘコむ。


「あー、もっとひどいことに……ごめんなさい」


 二人でヘコむ。


 そんな中、まごまごしている七緒さんと俺に向かって、不意にゆかりが口を開いた。


「二人ともそんなに落ち込まないで。

 明良、それ以上顔を触っちゃダメだよ。今ハンカチを濡らしてくるから待っていて。七緒ちゃんは紙か何かで絵具をぬぐっていてね、広げないように」


 まさしく女帝。


 こういうとき、ゆかりは本当にしっかりしている。役立たずの俺たち二人にてきぱきと指示を出して、一旦美術室から姿を消した。恐らく水を取りに行ったのだろう。取り残されたのは、棒立ちになっている男女二人。


 片方がもそもそと口を動かす。


「……あたし、思うんですけど」

「何を」

「明良先輩たちが結婚したら、先輩は尻に敷かれますね」


 そんなことはない、と言いたい。しかし、現状を思うに。


「……だろうな」


 頷くほかなかった。





 二人で床に舞った絵具を片付けていると、ゆかりがバケツに入った水と濡れたハンカチを持って戻ってきた。


「重かったですよね? 迷惑かけてすみません」


 気の利く七緒さんが謝るが、ゆかりはふふ、と笑ってバケツを足元に降ろした。心底面白そうな笑顔。


「どうして? いかにも部活、って感じがして、私はすごく楽しいよ」


 そうか? 


 心の中で応戦する。


「だって、今までは間違ってもドタバタすることなんてなかったから。友達同士の集まりみたいで、すごく楽しい」


 ゆかり先輩……! と、感激したような七緒さんの声が隣から聞こえる。シンパか。


 まあ確かに、俺とゆかりだけでは、こんな騒ぎを起こすことなんてなかっただろう。それを楽しいというのなら、俺も楽しい。疲れるけれど。


 ただ一つ、俺たちは友達では無く恋人同士のはずなんだが。


「さて、じゃあ七緒ちゃんは雑巾で水拭きして。明良はこの椅子に座って」


 そんな俺の心中もいざ知らず、ゆかりは再び俺たちに指示を出し、自分は椅子を引っ張り出した。腑に落ちないものを抱えながらも、俺は黙って椅子に座る。


 すると、ゆかりが突然俺の顔を触った。


「な、っ」

「じっとしていて。明良じゃ落とせないでしょう」


 それはそうだが。右の頬と耳を掴むようにして顔を寄せるゆかりに、俺は少し身を引いてしまう。


 近い。


 人とこれほど顔を近づけることなど、そうそうない。そうそうないからこそ、この距離は、どうしてもあの夕暮れのことを思い出させた。俺が散々泣きわめいたあの日のことを。


「明良?」


 ハッとした。ゆかりが不思議そうに俺を見つめている。


「いや、なんでもない」


 そう言うと、再び彼女の顔が近づいてきて、火照った頬にひんやりとしたハンカチがあてられた。優しく擦る感覚がする。


「痛くない?」

「あ、ああ」


 胸がドキドキと高鳴り、それだけ言うのが精一杯だった。ゆかりはそんなつもりは毛頭ないだけに、俺一人動揺しているのが恥ずかしい。だが、時折唇の端に触れるハンカチは、否応なく俺と彼女の唇が重なった時を想起させる。


「うん、とれた」


 そう言ってゆかりが離れる頃には。俺の顔は、自分でも驚くくらいに熱くなっていた。心配そうな声が降る。


「明良、大丈夫? 顔が赤いけれど」

「ああ、うん。平気」


 恥ずかしいからそれ以上言わないでくれ。ゆかりは基本的には聡いくせに、時々妙に鈍いことがある。残念ながら、今回は後者だった。再び手を頬にあてられる。


「すごく熱いし。本当に大丈夫?」


 世間には古典的なセリフというものがあるが、そしてそれらは大変嘘くさいと言われがちだが、古代から人間が咄嗟の場面で使ってしまうから古典的なセリフになるのだと、俺は今日、初めて知った。


 すなわち、俺の口から出た言い訳は。


「夕日のせいだから!」


 夕日が差し込まない位置にいるくせに、超古典的な名台詞が、口から飛び出たのだった。




 きょとんとする沼野ゆかりの後ろで、床を拭きながら萩月七緒が小さく呟いた。


「恋人同士のはず、なんですけどねえ」



 恐らく明良が誰よりも乙女。

 そして七緒と明良、互いが相手に呆れていたり、いなかったり。

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