黒猫と白猫
その世界において黒猫は不幸の象徴。
誰にも廃すことはできず、拒否もできない不幸を司る。
その世界において白猫は幸福の象徴。
何者にも縛られず、独占できない幸福を司る。
その時代、黒猫は髪に黒を宿し、誰からも忌み嫌われるぼろぼろのローブを纏った幼い少女であり、白猫は髪に白を宿し、誰からも好かれる美しい少年であった。
ぼろぼろのローブをきゅうと握り締めて黒猫は薄暗い道を歩いていきます。古ぼけた靴が石畳をたたく音がやけに耳に響いていました。
ほんのちょっとだけローブの裾からはみ出た尻尾は黒。毛並みの色は茶色などが圧倒的多数を占めるこの世界においてはもっとも忌み嫌われる色。
この女の子は黒猫と呼ばれる不幸を運ぶ存在でした。
黒猫はどうして自分が黒猫になったのかわかりません。ただ、気づいたら黒猫と呼ばれ、本能としか言いようのない衝動で村から村へ町から町へ国から国へと旅を続けていました。
黒猫は不幸を運びます。黒猫がいると不幸がそっと忍び寄ってくるのです。
それをとめることも拒むことも誰にもできません。しかし、誰だって不幸にはなりたくありません。だから黒猫はどこにいっても嫌われました。
邪険にされたり罵倒されたり石を投げつけられたことも何度もあります。だけどどんなに痛めつけられても黒猫は怪我や飢えることはあっても死ぬことはありません。
どうして死なないのか黒猫は知りません。お前が不幸を運んできたせいだと見知らぬ人間に延々と殴り続けられたときも子を失い錯乱する母親に腹部を刺された時も一時的に息や心臓が止まってしまっても時間が立つと黒猫はまた、動き出すことができました。
死ぬこともなければ老いることもなく世界を流離う黒猫はある日、何の前触れもなく立ち止まり空を見上げました。
青い空を映した黒い瞳からきれいな涙が一粒こぼれていきます。
黒猫は知りました。
遠い遠い空の下で自分とは全く対極なでも誰よりも近い背中あわせの存在が消えてしまったことを。
白を宿したたった一度だけ出会った幸福司るあの白い猫はもういないのです。
代わりに新しい白がこの世界に響かせた産声を黒猫は確かに聴いたのです。
黒猫は旅を続けます。不幸を巡らすために世界の隅々まで旅を続けていきます。ずっとやってきたことをこれから先も続けていくのでしょう。
あの白猫が消えるまで世界中を巡ったように。
幸運と不幸。
この二つは一つの所に留まることはできないのですから。
黒猫が涙を流してから十数年の月日が流れました。黒猫は違和感を覚え始め、思案していました。
黒猫は己が司る「不幸」を感じることができます。それと同じように「幸福」もまた彼女には感じられるのですが少しずつ少しずつ「幸福」の流れが澱みはじめているようなのです。
「不幸」は黒猫が旅をすることで循環するように「幸福」は白猫が旅をして世界にめぐらせていくものです。
その一方が澱み一箇所に停滞するとつられるようにもう一方の流れもうまくいかなくなるのです。
これは黒猫が旅をして促しても根本的にもう一方が流れない限り解決には至らないのです。
実際に経験をしたわけではありませんが黒猫はそういう知識を最初からもっていました。
停滞している流れを放置し続けることは理を乱しやがては世界そのものに悪影響を与えてしまうのです。
無視することも拒否することもできません。理を正すのは「黒猫」の本能。存在理由そのものでした。
黒猫は感じるままに流れの停滞する先へと歩き始めました。
黒猫が辿り着いたのはひとつの大国。
慈悲深く賢い王様が納め、近年まれに見る豊作に恵まれる幸福にも欲に駆られることなく他国にも積極的に作物を流通させ民からも周辺国家からも慕われている国。
王様には王子様がいました。十数年前王妃様が命と引き換えに残したお世継ぎの王子でした。
しかし体が弱い王子様は人前に出ることはできず城の奥深くで療養しているとのことでした。
黒猫は遠くに見えるお城を見上げます。
「幸せ」と「不幸」。
背中合わせのようなこの二つ。
暗闇に差し込んだ光と差し伸べられた手。
殺せない「黒猫」を遠ざけるために森の奥深くの洞窟に繋がれとらわれた自分に手を差し伸べ宿命に誘ったのは……。
そこまで考えて黒猫は瞳を閉じました。
黒猫は静かに闇を待ちます。彼女の稀な色を隠してくれるそのやさしい時間を。
「きみはだれ?」
幼さを残した声は自分の宿す黒を見ているでしょうに嫌悪の響きはありませんでした。
黒猫は厳重な警備を潜り抜け忍び込んだ王宮の奥の部屋にいた少年の宿す色に驚きとそして……少しの落胆を感じていました。
今代の「白猫」は先代と同じ見事な白を宿していましたがその姿は黒猫と同じぐらいの年頃で記憶の中の大人の姿の彼とは当たり前ですが全然違っています。
そんな落胆を押し隠しながら黒猫は白猫に向き合います。
「あたしは「黒猫」。不幸を運び世界をさ迷うもの」
「くろねこ……?ふこう?」
不思議そうに白猫が首を傾げます。
「きみがふこうなの?」
「そう」
白猫は理解できないといった顔で首を振ります。
「そんなにきれいな毛並みなのに?」
黒猫が固まります。
「とてもきれいな黒。みているだけでうれしくなる。それなのにきみがふこうだなんて信じられないよ」
にこりと年の割りには幼いたどたどしさを感じさせる口調でしゃべりながら白猫がフードをかぶっておらず開けた窓から吹く夜風になびく黒猫の髪に手を伸ばしていきます。
『綺麗な黒だな。黒猫の宿す色は不幸を運ぶとは思えないぐらい見事だ』
どうして、と黒猫は思います。
どうして、あの人(前の白猫)ではないあなた(今の白猫)が同じことを言うの?
わたしは貴方に宿命と言う名の「不幸」を運んできた「黒猫」なのに。
「どうして、なくの?」
白猫が尋ねます。
「あなたに不幸を運ぶことがかなしい」
黒猫が泣きながら答えます。
白猫の家族は彼が白猫と知り、嘆きました。白猫は一箇所に留まることが許されません。世界を廻り続ける定めなのです。
そしてそれは家族とは一緒にいられないということでした。
家族と別れ、命の流れからはぐれてただ世界をさ迷う運命を黒猫は彼に運んできたのです。
家族に愛されているであろう白猫をこの逆らえない流浪に巻き込んでしまった、運命などというのは言い訳に過ぎません。
黒猫はただ、妬ましかったのです。
自分にはない庇護してくれる家族を持つ白猫が不幸を運び人に忌み嫌われる自分とは正反対の白猫が妬ましくてうらやましくてたまらなかったのです。
なのにこの白猫はそんな自分をきれいだと言いました。
長い長い黒猫の生きてきた中でたった一人、「不幸」ではなく個としての黒猫を見てくれた人と同じことを言ったのです。
黒猫は思いました。
自分なんかより、白猫の心のほうがずっとずっときれいだと、そう心から思いました。
そして自分はなんて汚いのだろうとそう、痛感しました。
不幸を運ぶ黒猫。
それにふさわしい。
「あなたは一人になる。ひとりでずっと世界をさ迷うの。老いることも朽ちることもできずいつくるかわからない終わりを迎えるまで気の狂いそうになる長い間ずっと……あたしがその運命をあなたに与えてしまうの」
「ひとりじゃないよ」
白猫が言います。
「きみがいる。くろねこがいる。だからぼく、ひとりじゃない」
白猫が笑います。
「ずっとまってた。だれかがくるってわかってた。それにきみはぼくが家族とすごせる時間を少しでも長くできるようにとがんばってくれていたのも知ってる」
黒猫の頬を新しい涙が流れました。本当はもっとはやく白猫のもとへいくことも可能でした。だけどどうにもならないぎりぎりの事態になるまで黒猫は動けなかったのです。
「行こう」
白猫が手を差し伸べました。
あの時のように。
あの人が差し伸べたたった一度の救いの手のようでいてまったく違う手を。
一緒にいようと差し伸べられた手を黒猫は生まれて初めて見ました。
彼は「白猫」と「黒猫」が一緒にいられないことを知らないから無邪気に一緒に行こうと言えるのです。
その言葉に伸ばされた手に黒猫がどれだけ魂がゆさぶられているのか知らないのです。
たとえ、すぐに離れてしまう手でもそれでも黒猫はたった一瞬の「一緒」のためにその手を掴む勇気を出して手を伸ばしました。