書斎
沢山の照明と大きな窓が部屋を明るく照らしていた。
古い本独特の湿り気を帯びた臭い、厚く積もった埃、擦り切れて文字の読めなくなった背表紙、誰かが読んでいたらしく、開いて置かれた本が数冊、綺麗に磨かれた机の上に乗っている。
書斎は食堂と比べ物にならない程広く、天井はエントランスと比べ物にならない程高い。
本が壁の代わりなのかと思う程に、隙間無く壁を覆い、それが本なのか認識出来ない程まで遠く、高いところまで古い本と新しい本が並んでいる。
大きな観音開きの扉を開け、イリアが書斎に入った。
先頭のアロンダイトは大量の本に圧倒され、言葉を失って立ち止まった。
立ち止まったアロンダイトの背中に顔をぶつけ、少し赤くなった鼻を摩りながら、テレスは書斎を見る。
「わぁ……。こんな沢山の本、見た事ないです……」
目を輝かせてそう言った。
ハスターはその言葉に反応し、硬直するアロンダイトの後ろから背伸びをして中を見た。
「これは……素晴らしい……」
古い本の匂いに目を輝かせ、アロンダイトを押し退けて中に入って行く。テレスもハスターに着いて行き、中で待っていたイリアは喜ぶ二人を笑顔で向かい入れた。
「なんだいこりゃあ!?」
最後尾のダイアは驚きに叫んだ。
「こんなに本があるところなんか見た事ないよ!」
驚きしかないダイアに、アロンダイトは頷き、言った。
「世界中の本がここにあるみたいだ」
ダイアと同じくアロンダイトも、天井を探す様に見上げた。
一般的な民家なら、何件この書斎に入るのだろうか?
そんな考えが頭を過ぎった。
いや、民家程度じゃない。
フィンの様な小さな城ならば、この書斎に二つは入る。
「どうしました?」
入口で唖然と本を見上げる二人を見つけ、イリアは声をかける。彼女にとってはこれが普通で、二人が驚くのは理解出来ないらしい。
「凄い蔵書だ」
アロンダイトはぶっきらぼうに言い、はしゃぐテレスとハスターの元に歩く。
「ありゃ良いってモンじゃないだろ? あんた、どこに何があるのか把握出来てんのかい?」
頭を掻きながら、ダイアは思わずイリアに言う。イリアは気を悪くした様子もなく、穏やかに紫の瞳を細めて微笑む。
「はい。一度は全部目を通していますから。それに、この本を管理しているのは私だけではありませんからね」
『一度は読んだ』と言う言葉に、ダイアは見えない天井と見えない壁を探し、何冊あるのかを考えてみるが、結局はよく解らず眉間にシワを寄せた。
「……んで、誰と管理してんだい?」
頭に痛みを感じ始めた辺りで、ダイアは気分を入れ替えようと言う。
イリアは言われて、本棚をコンコン、とノックする様に叩いた。
「魔王様、いかがなされましたか?」
どこからともなく低い声が響いて来て、ダイアとアロンダイトは思わず身構える。
「もしかして、ダンスツリーですか?」
テレスの言葉に、イリアは笑みで答える。
「この城が建てられてから、ここで本を守ってくれています。ご挨拶して下さいね」
本棚を優しく撫でて促すと、再び声が響いて来た。
「我輩はオラクル。魔王様の知識の源を預かる者である。読みたい本があるならば声をかけよ」
尊大な口調に、イリアはクスクス笑う。
「気にしないで下さいね? こう言う話し方しか出来ないんですよ」
言いながら、目を丸くするアロンダイトとダイアを見て、おかしそうにまた笑った。テレスとハスターも笑い始め、二人は少し恥ずかしそうにしながら姿勢を直した。
「すっかり話が逸れましたね。この本ですよ」
イリアは言いながら、机の上に広げて置いてあった本を指した。
その本は、アロンダイト達の為に広げて置いておかれていたらしく、栞も挟まれてる。
テレスとハスターが一緒に本を読み解き始める。
「これは、日記だな」
ポツリとハスターは呟き、テレスは眉間にシワを寄せる。
アロンダイト読んではみるが、古語は読み慣れていないので、ニュアンスしか解らない。ダイアに至っては一瞬本を見ただけで、読み解こうと言う気はなくなってしまったらしい。
「この年号がいつを示すのかは解らないが、恐らく十五年前。この城にアレクサンダーと言う名の男がやって来た日の事が書かれている」
名前を聞いたアロンダイトの顔色が変わった。アレクサンダーは、アロンダイトの父親の名前だった。
「何と書かれているんだ?」
そう枯れた声でアロンダイトは先を促す。期待、不安、希望、絶望……。様々な感情が入り混じり、表情は硬く強張っている。
ハスターは慎重に言葉を選び、アロンダイトに伝える。
「アレクサンダーがここに来たのは、話し合いが目的だったらしい。武器はおろか、防具も身に着けず、両手を上げて城に来た」
想像していた事と違う話に、アロンダイトとダイアは眉を潜める。テレスは先が読めなくなったらしく、日記から目を反らした。ハスターは何度も何度も読み返してから、慎重に言葉を紡ぐ。
「丸腰のアレクサンダーは、イリアさんの元に案内され、名を名乗る前に言った。『この城は寂しい。貴女は寂しくないのか?』」
イリアが語った言葉と一緒の言葉が、そこにも示されていた。
「文化言う物のさしてない魔の者に対し、アレクサンダーは歌を歌い、踊りを見せ、漫談などをして笑わせた。初めて見る物に、魔の者は強い興味を示し、いつしかアレクサンダーの周りに集まり始めた」
ハスターとダイアの目にはそれが思い浮かぶらしく、思わず頷いている。
「人間と触れ合えばもっと素晴らしい物が見れる。争いを止めて、手を取り合わないだろうか? アレクサンダーはそう提案した」
アロンダイトの顔色を伺う様にハスターは言葉を切る。ダイアもそれを察知してアロンダイト見る。
俯き、震える手を拳握る事で誤魔化して居るアロンダイトの顔を覗き込む事は出来なかった。
「続けてくれ」
ハスターはアロンダイトをチラチラと見ながら日記を読み解く。
「文化に興味はあったが、人間と交流を行う事に魔の者は躊躇いを感じた。アレクサンダーは会議にも参加し、非難を受けながらも説得を繰り返した。同じ世界に住む者同士、手を取り合って生きて行こう、と」
イリアの語った事と変わらない内容に、ダイアはテレスの行動に疑問を感じる。
先程聞いた物なのにそこまで動揺すると言うのは、どう言う事だろう? と。
ページをめくったハスターは小さく悲鳴を上げ、前のページに戻って確認してまたそのページへ戻る。
「……アレクサンダーと仲間達は、根気強く説得を試みた。実力で排除しようと言う者も現れ、何度も重傷を負ったが、それでもまた丸腰で城にやって来た」
ハスターの顔は青く、声も僅かに震え、アロンダイトとダイアに不安をもたらせる。イリアの表情は変わらず、ニコニコと朗らかなままだ。
「一週間に及ぶ説得の末、イリアさん含め、魔の者達は人と交流を持つ事に納得した。アレクサンダーはここでやっと自分がレスター国の王族であると名乗ったらしい」
はぁ、と息を吐き、ハスターは気持ちを落ち着かせる様に二・三回深呼吸する。
「この時点ですっかりアレクサンダー達を受け入れていた真の者達は、身分が高い事もさして気にはならなかったらしい。むしろ、人々の説得の為にはその方が好都合だと喜んだ位らしい」
ふぅ、と気持ちを鎮めるようにハスターは息を吐く。辛そうなハスターを見兼ね、イリアが声をかける。
「私が読みましょうか?」
心配する様な面持ちのイリアを見て、ハスターは首を横に振る。
「大丈夫です。アレクサンダーがここで何をしたのかを、アロンダイトに聞かせるのは私の仕事なのだろう」
ハスターの答えにイリアは小さく頷く。
ハスターは日記に目を落とし、読み解きを再開する。
「魔の者達はイリアさんの命令に速座に従い、捉えていた人々を解放した。中には従わない者もいたが、イリアさんの再度の命令に従わない訳にはいかず、全ての人々が解放された」
聞いていたダイアが反応した。
「そんな話、聴いた事ないよ。それを聞く限りじゃ、随分いた様だけどさ」
「そうだな。レスターにもそんな報告は来ていない」
首を傾げるダイアとアロンダイトに、ハスターは無視をして先を読み始めた。
「次に、イリアさんに封印を施す事を提案した。アレクサンダー達があった時の状態では、魔族並みに強い魔力の持ち主でなければ、触れるだけで燃えてしまう。それでは人々と会話もできず、文化に触れる事も出来ない」
アロンダイトは無意識に先程イリアが触れて赤くなった頬を触った。もう赤みも熱さもないが、じわじわと炙られる様な熱さはハッキリ思い出せる。
あれ程の魔力で封印を施しているとは、信じられない。
「イリアさんは快諾し、封印を喜んで受けた。それでも魔力は強過ぎて、城の中でしか効果を発揮出来ず、強い魔力の持ち主でなければ触れた瞬間に酷い火傷を負わせてしまう。それでも、言葉を交わす事は出来る、とイリアさんは喜んだ」
その時の事を思い出したか、イリアの表情は嬉しそうな物になった。
「魔の者側の準備が整い、アレクサンダー達はレスター八世、ランスロットに報告に行こうと、城を出て行った。イリアさんは同行出来ないが、代わりに魔族であるサタンを一人同行させた」
ハスターはページをめくり、ざっと読んで次のページに行く。次も何も言わず、次のページをめくる。
「……ハスター?」
話そうとしない彼を疑問に思い、アロンダイトが声をかける。
「あ、ああ。アレクサンダーが城を出て行ってしまってから、イリアさんはコボルトに教育を施し、魔の者達に料理を教え、ある者には絵画、ある者には音楽、芝居、カラクリなど、見よう見真似の文化を築いて行った、と言う内容なのだよ。アレクサンダーに関する事と言えば、便りがない事を心配する事くらいだ」
「城を出て行ってから、ずっとそうなのか?」
「そうだ」
アロンダイトと言葉を交わしながらページをめくっていたハスターの手が止まった。
じっくりとページを見ているハスターに、アロンダイトとダイアは見ている事しか出来ない。先が気になるが、テレスが早々に目をそらしてしまった事に重大さを感じているので、ハスターとは言え、慎重に言葉を選んでいるのは解った。
「アレクサンダーに同行していたサタンが戻って来た」
唐突に、ハスターは言った。
「酷い怪我をして、助けを求めて戻って来た」
掠れた声で言った。
「何度も手紙や伝言を送ったのだが、一向に返事のない事を気にしながら、旅をしていたアレクサンダー達は、サタンを庇いながら、各地の王達と話をしながらついにレスターに戻った」
アロンダイトは王達に会って来たが、そんな話は聞いた事がなく、疑問を感じる。
「城に着いてすぐ、アレクサンダー達は牢に入れられた。戻って来るまでに幾度となくされていたので、誰もさして驚かなかった」
アロンダイトは、それがいつの事なのだろうか、と考える。魔王城へ行くと言ってから、ふつりと途切れた手紙。てっきり魔王城から出てこれなくなった、そこで命を落としたと思っていた父は、世界を思い、魔王を説得して信頼を得ていた。ならば、なぜ父は魔王城で命を落としたと伝えられているのか、なぜレスターに戻って来た事を教えてくれなかったのか。
アロンダイトは浮かび上がる疑問に、足元から崩れていくような不安を感じ始めている。
アロンダイトの小柄な体が震え始め、ダイアが心配そうな顔をする。ハスターは息苦しさを紛らわせる様に深呼吸をする。
「アレクサンダーはランスロットに必死に訴えたが、魔の者に魅入られたのだと、聞く耳を持たれなかった。各国から届いていた報告には、アレクサンダー達とサタンに対する恐怖しか綴られていなかった。彼らが力を振るえば、街は消し飛んでしまう、それを回避するには、従うしかない、と」
ハスターの顔は青ざめ、唇は小刻みに震えていた。ダイアも言葉を失い、アロンダイトは魔王であるイリアを信用しきってはいけない、と自分に言い聞かせて自分を保っていた。
「ランスロットは、アレクサンダーの言葉を全く聞かなかった。戯言だと、取り合わなかった。アレクサンダーは無力感にやがて口を閉ざす様になり、サタンは見兼ねて脱出を提案した。アレクサンダーは国に盾つけない、と拒否したが『処刑』という言葉を聞いて、サタンは無理矢理にアレクサンダー達を連れて脱出した」
父の無念を思い、アロンダイトの目から涙が零れた。信じたくはない。だが、そこに書かれている父の姿は、あまりにも世間から見放されている物だった。良かれと思った事が全て裏目に出ている。まるで、誰かがそうし向けた様に。
「アレクサンダー達を連れてサタンは魔の者の手を借りながら魔王城を目指した。ランスロットはそんな一行を捕らえ様と兵を放った。人々を傷付けたくないアレクサンダーは兵達に攻撃されようとも、攻撃する事はしなかった」
アロンダイトは、次々と兵が出陣して行った時期を知っていた。あの時、祖父のランスロットは何と言っただろうか? 母は?兄は? 思うが思い出してはいけない予感に、無意識に考える事を拒絶する
「仲間が囚われ、処刑されて行く中、アレクサンダーは己の無力さを呪った。実父であるランスロットを裏切ってしまったと、己を責め、レスターに戻りたいとサタンに懇願した」
テレスは本棚の向こうで啜り泣き、イリアが宥めに向かった。ダイアはもう、どうして良いのか解らず、全身の力が抜けて椅子にもたれ掛かっている。
「サタンはアレクサンダーの身を案じ、レスターにはーー人間達の世界から遠ざける様に逃げ続けた。アレクサンダーはそれに気づく事もない程に弱り果て、サタン一人ではどうにもならない程になって行った」
ハスターはもう、日記に書かれている通りに読んでいる。誤魔化しも、遠回しな表現も使わない。アレクサンダーが歩んだ道を、息子であるアロンダイトに伝えていた。
「……嘘だ。デタラメだ!」
アロンダイトは気力を振り絞る様に叫んだ。年相応の子供がみせる様な、駄々をこねるような叫びだ。
「お爺様はそんな事、一言も言わなかった! 父は魔王に殺された! それは変わらない事実だ!それが全てだ!」
アロンダイトの叫びに応える者はいない。
彼らは理解していた。
『イリアの綴った日記が真実だ』と。
アロンダイトの叫びに耳を貸さず、ハスターは日記を読み続ける。
「サタンが城にたどり着いた時、アレクサンダーは虫の息だった。兵に追われ、攻撃を受け、海に落ち、命からがらサタンが引き上げたが、回復を待つ事が出来ない程の怪我に、サタンは持てる力の全てを使って魔王城にアレクサンダーを運びこんだ。イリアさんの姿を見て、サタンは意識を失った」
「聞きたくない! そんなデタラメ! 兵が束になった所で、サタンに傷などつけられないはずだ!」
アロンダイトは耳を塞ぎ、頭を抱える様に叫んだ。父を死の淵に追いやったのが人間だと、亡き父に代わって育ててくれた祖父だと信じたくなかった。
「アロン、精霊王はなんと仰ってホーリー・オブ・ホワイトを授けた?」
ハスターは日記から目を離し、激しく動揺するアロンダイトに問いかけた。背負った装飾も美しい白い剣を見て、アロンダイトは思い出す。
「この剣は、罪無き者を救う為に生まれた。罪無き者を斬れば、刀身は黒く、暗黒に包まれるだろう」
その言葉は、スルリと滑る様に出た。
「違う、その前だ」
ハスターは首を横に振る。アロンダイトは意図が読めず、ハスターを見る。
「祖父の名はランスロットだったな? そう仰ったはずだ」
戸惑うアロンダイトにハスターは続ける。
「アロン、この先の真実を知りたいか?」
その言葉は重く、アロンダイトにのしかかった。
ハスターは何もかもを知ってアロンダイトとの旅に同行した。
『全ての事柄には理由があるのだよ』そう言って事をはぐらかす事も随分あった。それは、アロンダイトと違う視点に立って物事を見ている事を伺えた。
ハスターは、その違う視点に立つ覚悟はあるのか? そうアロンダイトに問いかけていた。
「……少し、考えさせてくれ」
アロンダイトは掠れた声で呟く様に言った。
ハスターは息を吐き、日記を閉じた。ショックに呆然と天井をみているダイアを見て、落ち着いて来たテレスの傍にいるイリアに言った。
「イリアさん。『彼』に会わせては頂けないでしょうか?」
ハスターの言葉に、イリアは紫の瞳を伏せる。
「最初は、アロンダイトさんにしてあげたいんです。すみません」
「いいえ。謝らないで下さい」
イリアに軽く頭を下げた後、ハスターは書斎から出て行った。
テレスは打ちのめされているアロンダイトを見つめる。
椅子に深く座り、重くのしかかった言葉に負ける様に俯き、ピクリとも動かない。
「アロン……」
テレスは心配で呟く。
旅の中で幾度と困難な事があった。それでもアロンダイトは拳を握り、仲間を励ましながら前を向いて歩いていた。ファンジが死んだ時も、最初に立ち上がったのはアロンダイトだった。無言で立ち上がり、言葉少なにテレスとダイアに声を掛け、暮れて来た夕陽の光を浴び、黙々と、それでも前を向いて歩いていた。
そのアロンダイトが言葉も出ない程に打ちのめされ、項垂れている。
「イリアさん」
「はい?」
魔王を倒すと誓い、長い旅に出た。その魔王は争いを止めて手を繋ごう、互いの発展を目指そうと提案して来た。
その理由は、アロンダイトの復讐心の根源であるアレクサンダーが説得し続けていたから。魔王に殺されたと言われていたアレクサンダーは祖国の兵に追われ、瀕死の状態でこの城に逃げ込んだ。
聞かされていた事と全く逆の事が真実だと突きつけられ、なすべき事を完全に見失って居る。
「私達を憎いとは思わなかったんですか?」
テレスは呆然としながら言った。
「一度も思いませんでした。むしろ、悲しいなと思いました」
「そう……ですか……」
その会話の後、誰も言葉を発さなくなった。突きつけられた真実は、思考を止めてしまう程に衝撃的だった。
イリアはこうなる事を予測していた。だが、アロンダイト達を信じれたから、真実を見せることが出来た。旅の過程で犯した罪も、イリア達は流して来た。アレクサンダーの息子だからと、自分達と人間の架け橋になってくれると信じていた。それは今、この瞬間も変わらない。
イリアは泣き止んでアロンダイトを心配そうに見ているテレスの手を軽く握る。
「テレスさんは、世界が平和になったら何かがやりたい事がありますか?」
イリアの細い声は静かに、染み込む様に書斎に響く。テレスは意外な問いかけに眼をパチクリさせた後、答えた。
「私は、孤児なんです。臍の緒が付いたまま、道ばたに捨てられていました。十歳の時に魔導の道に歩む事を決めるまで、孤児院で過ごしていて、そこで沢山の子供達と一緒に生活していて、とっても楽しかったんです」
テレスの声は、僅かながら明るい色を宿し始める。将来についての話は、旅の中でも幾度となくして来た。
アロンダイト達はお互いの夢を知っている。何故その夢を描いたのかも。
「世の中には、私と同じ孤児が沢山いるんです。平和になったからと言って、いなくなるという訳でもないですから、私は世界が平和になって、魔導の力が必要なくなったら、孤児院を開きたいんです。子供達の笑顔で溢れていて、毎日毎日騒がしくて、忙しくて、それでも子供達の笑顔を見てまた頑張れる。そんな生活を送りたいんです」
テレスの浮かべた笑みに応える様にイリアも微笑む。
「良い夢ですね。私もコボルト達に教育を施している時はそうでしたよ。騒がしくて大変でしたけど、充実した毎日でした。コボルト達の成長を見るのはとても楽しかったです」
イリアは言って、ショックから大分立ち直っているダイアに目を向ける。
「ダイアさんは?」
日記の内容を聞いてしまった今、先程まで持っていた復讐心は半減し、ダイアはイリアに戸惑いの表情を浮かべながら言った。
「あたしは……武術の腕を上げたいね。平和になった世界にゃ必要ないってのは解るけど、あたしは当たり前の家庭に入って生活するってのは考えられなくてね」
照れる様に、困る様に、ダイアは腕を組んだり頭を掻いたりしながら言った。
「んでもって、旅する元気も無くなったら、弟子でもとって死ぬまで武術に携わっていたいもんだね」
ダイアの答えに、イリアはクスクスと笑う。
「良い夢ですね。次の代に何かを残す事を考えているなんて、素晴らしいです」
イリアは言い、アロンダイトに視線を向ける。気づいたアロンダイトは嫌がる様に視線を逸らした。
「……実は、あなた達の夢が何か知っていました」
イリアは悪戯っぽく笑う。テレスはキョトンとし、ダイアは開けっぴろげなイリアに半ば呆れる様な顔をする。
「アロンダイトさん」
名を呼ばれ、アロンダイトは顔を上げてイリアを見る。ニコニコと笑っている表情に、自然と緊張が解れていく。
「改めて、アロンダイトさんに尋ねてもよろしいですか?」
イリアの言葉に、アロンダイトは再び俯く。
「聞かせて頂けますか? 世界が平和になったら、何をしたいのか」
アロンダイトは言葉に困り、ただ無言で俯く。
イリアは知っている。
将来について話をしている時、アロンダイトだけは話に参加していなかった。それは『魔王を倒す』と言う大きな目標に集中する為にあえて考えていない、とアロンダイトは語っていた。
「……俺は、三男だ。王位には就けないだろう」
俯き、ポツリとアロンダイトは言った。ダイアとテレスは黙って様子を見ている。
「俺は、物心つく前から魔王を倒す事を目標に、日々鍛錬をして来た。兄達の様に政治については全く知識がない」
本当に何も考えていなかったアロンダイトは、冷静に自分の置かれた状況を確認しようと口に出す。
「魔王を倒して、世界が平和になって、レスターに戻っても、兄達の補佐は出来ないだろう。武術以外、俺何もは学んでいないのだから」
居場所が無いように思え、アロンダイトは急に不安に襲われる。
「旅をしている時も、ここに来てその日記を読むまでこんな気持ちにはならなかった! 父上を殺した魔王を倒せば世界が平和になると信じて来た魔王が、こんな、こんな……」
不安に、アロンダイトの双眸から涙が溢れる。肩書きを剥ぎ取られた、まだまだ子供な顔が露出し、ダイアは意外そうな顔をしてから、心配そうな顔をする。
「俺は何の為に戦って来たんだ? みんなは俺に真実を語らなかった。母上も、お爺様も」
膝の上に置かれた拳に涙が落ち、アロンダイトは慌てて乱暴に顔を拭いた。
「俺はーー」
言いかけたアロンダイトは、人の気配に振り向く。ハスターは四人の雰囲気が変わっている事に気づき、居辛そうに苦笑いを浮かべる。
「お邪魔だったかな?」
「いえいえ、そんな事はありませんよ」
イリアは微笑み、ハスターに席を勧める。
「今、みなさんに夢を聞かせていただいたところなんですよ」
「夢を?」
それだけで事情を察したハスターはアロンダイトに視線を送りながら椅子に座る。
「それならば、私も語らなくてはいけませんね」
ハスターは笑い、溢れる涙を必死に堪えているアロンダイトを見ながら言う。
「私の夢は世界の驚異を見て回る事です。ガルレアの登り滝や、ロビングットの瞳、紅色の湖、それにランバートの川。話には聞いても見た事の無い驚異、人々の知らない驚異は世界に溢れています」
ハスターの話に、イリアは目を細める。羨ましそうな、そんな表情だ。
「もし見て来たら、私にも聞かせて頂けますか?」
「ええ、もちろんです」
ハスターも笑い、答える。ここに至るまでの旅の中でも、ハスターの寄り道は多かった。それでもそれらは貴重な体験ばかりだったので、三人に不満は無かった。
ハスターとイリアがひとしきり笑い、自然と四人の視線はアロンダイトに向けられた。俯いたままで、表情は解らない。
「アロン、どうして答えられないか解るか?」
沈黙するアロンダイトにハスターは言う。
「ハスターは、何を知っているんだ?」
アロンダイトは掠れた声で言う。テレスとダイアも気にはなっていたが、アロンダイトの様子に聞く事が出来ないでいた。
「ハスター、アンタはアレクサンダーに会ったって言ってたよな? その時の話もあたしらは知らなかった。なんでそんなに話たがらないんだい?」
ダイアは腕を組み、問いかける。ぶっきらぼうな言葉と横柄な態度ではあるが、詰問する口調ではない。
「私は、アレクサンダーから家族の話しを聞きました。『一番下のやんちゃ坊主』をとても心配なさっておられました」
ハスターは重い口調で話しを始めた。日記の内容を知っているテレスは顔を伏せ、イリアは心配そうな表情をアロンダイトに向ける。
「それから、実父であるランスロットを警戒なさっておられました」
「……なぜ、お爺様を……?」
嫌な予感にアロンダイトは顔を上げ、悲しそうな、辛そうな表情をするハスターを見た。
「ランスロットは野心家だからなのだよ。利用出来る物ならば、実子だろうが使う。そう言う人だとおっしゃってたよ」
「それは、どういう意味、なんだ?」
アロンダイトはハスターが言わんとして居る事に気づき、顔を蒼白にする。
「アレクサンダーはランスロットに利用される事を恐れ、王達に会いに行くと言って旅に出た。アロン、君にはなんと語っていた?」
震えるアロンダイトは、ハスターの問いかけに答えない。
「アロン、しっかりするんだ!」
ハスターは怯えるアロンダイトに喝を入れ、つかつかと近寄る。
「私達は全員君に導かれてここまで来た! それは事実だ!」
両肩を揺さぶり、ハスターは叱責をあびせる。ダイアとテレスも同じらしく、ハスターを止めようとしない。
「お爺様は、父は魔王を倒しに旅に出たと……帰って来れない覚悟を決めて旅に出たと言っていた……」
いつもの真っすぐな眼差しは影を潜め、怯える子供の様にアロンダイトは言葉を紡ぐ。
「俺は……父は……お爺様に殺される、のか?」
「アロン、良いか、良く聞きなさい。ランスロットは君を死なせ、各国から同情を買って事を上手く進めるつもりだ」
ハスターはそれでも真っ直ぐにアロンダイトを見る。幼さ故の脆さを乗り越え、生来の強さと輝きを取り戻せると信じて。
「それが嫌なら、イリアさんと手を結んだ方がより得策だと伝えるんだ。アレクサンダーは説得に失敗した。でも君には私がいる」
アロンダイトはそれでも反応を示さない。
「ハスター」
見兼ねたダイアが口を開く。
「少し時間をやりな。あたしも気持ちに整理つけらんないんだ。アロンならもっとだろ?」
「それも、そうか」
ダイアの言葉に頷き、ハスターはアロンから手を離す。
力を失い、アロンダイトは人形の様にがっくりと俯く。
「あんた……」
ダイアが恐々とイリアに向けて言葉を放つ。イリアはニッコリと笑って振り向き、はい? と言いたげに首を傾げる。
「ハッキリ言うけど、この日記を全部は信じられない。いや、信じたくはない」
ダイアはそれでもキッパリと言う。戦場を駆け回った精悍さが彼女の人となりを表している。
「疑うとはまた違うんだけどよ。この日記が真実だと言う証が欲しいんだ。なんかないかい?」
どこか申し訳なさを含む言葉に、イリアは何度かゆっくりと頷く。ハスターは咎める様な視線を向けるが、イリアの表情を見て何も言わない。
「そうですよね。ふふっ、でも貴女が単純に信じてくれなくてホッとしました」
クスクス、とからかう様にイリアは笑う。
「テレスさん」
「は、はいっ!」
突然名前を呼ばれ、ジッとアロンダイトを見ていたテレスはハッとして慌て、杖を落とす。
「何をやってんだい?」
慌てて杖を拾うテレスを見てダイアは思わず呟く。
「テレスさん、可視幻影を使って頂きたいんですけど、出来ますか?」
慌てるテレスを見て笑いながらイリアは言う。テレスは下級魔術を要望され、目をぱちくりさせる。
「可視幻影……ですか?」
しかも術者の想像した物を見せるだけの魔術であるため、何に使うのかが解らない。
「はい。あれにとっておきの道具を使ったら、外部から干渉出来るんですよ」
テレスの表情を見てイリアは説明し、ハスターとテレス、ダイアまでも驚いた顔をしてイリアを見る。そんな事が出来るなどとは今まで考えた事すら無かった。
「ここではそれが出来ませんので、場所を移動しましょうか。アロンダイトさんには辛い物でしょうから、ここにいて下さい」
スッと立ち上がり、イリアは軽く手を叩く。すると、書斎の扉が開き、タキシードを着たコボルトが入って来た。
「お呼びでしょうか?」
うやうやしく頭を下げながらコボルトは言う。
「私達は通信室に行きます。アロンダイトさんの側に居て下さい。あの部屋以外なら、どこでも見せて構いませんし、話しても良いです」
「かしこまりました」
イリアの命にコボルトは再び深々と頭を下げる。
「みなさん。行きましょうか」
ニッコリと微笑み、イリアは三人を案内すべく歩き出す。
テレスは心配そうにアロンダイトを最後まで見ていたが、ダイアに呼ばれて書斎から出て行った。