エントランス
長い長い廊下の先に、薄暗いエントランスが現れた。
遥か高い位置に、大きなシャンデリアがあるが、圧倒的な闇に押し潰され、その周辺しか照らしていない。
敷かれた絨毯が、四人の足音を消す。
規則正しく並ぶ柱に、荘厳な階段。
磨かれた窓と、飾られる美しい絵画。
天井絵は何かの神話をモチーフにしているらしいが、アロンダイト達は知らない。解るのは、その絵画の高い技術。渾身の力を篭めて描かれた絵だと言う事だ。
アロンダイトの城も立派な城だが、ここまで荘厳で洗練されていない。
だが、手摺りの装飾が今にも動き出しそうな、この暗黒の気配は、そんな感動を感じる隙を与えない。
「しっかし、静かだねぇ」
退屈そうにダイアが呟く。その声も、エントランスには響かない。
「ここまで静かなのも妙だな」
アロンダイトが続く。
暗さに慣れた目が、壁に飾られる絵に注がれる。
一人の男が剣を天にかざし、立っている。
「父上……」
自分がまだ幼い頃、父もここを訪れた。そして、帰って来なかった。
それでも、ここにたどり着くまで父の生還をどこかで信じていた。
アロンダイトはほとんど父を覚えていない。
父の事は、母や祖父の話の中でしか知らないと言っても過言ではない。
「ふむ、素晴らしい絵だな」
ハスターが細い目で同じ絵画を見ていた。
「誰の作だろうな」
ハスターはカタンと絵を外し、手元でよく見る。
「コ…ボルト?」
「コボルト?」
二人は顔を見合わせ、サインを改めて見る。だがやはり見間違いない。
コボルトは体長一メートルほどの小さな人型の魔物だ。
知力はあるものの、五・六歳の子供程度でしかない。つまりは、こんな繊細な絵を描けるはずがないと言う事だ。
「誰かがコボルトと書いただけかもしれないな」
ハスターは内心の動揺を隠す様に、絵を元に戻した。
そんな二人の様子に気付いたダイアがずかずかとやって来た。
「何見てんだよ! ここがどこか忘れたとは言わせねぇぞ!」
叫び、絵に剣を突き立てる。ハスターが非常に不愉快そうな顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「敵の内情を知るのも、作戦を立てる上で重要な事だ。苛立つのも解るが、落ち着きなさい」
ダイアはチッと舌打ちをして、ドカッと座る。
テレスがビクビクしながらアロンダイト達に近寄ってきた。
「その絵に何かあったのですか?」
刺さった剣で絵は破れ、サインも読めなくなってしまっている。
「何でもない」
アロンダイトは素っ気なく言って剣を簡単に抜き、ダイアに投げて渡す。
と、テレスが鼻をひくつかせた。
「何か……良い匂いがしませんか?」
「ん? ……本当だ。クリームシチューの匂いがする」
アロンダイトとダイアは半信半疑だったが、本当にシチューの香りがどこからともなく漂っていた。
「ハン! 煮て食うつもりか!?」
ダイアが拳を叩く。
ハスターはそんな風には思えなかった。
「テレスはどう思いますか? このクリームシチューに敵意を感じますか?」
問われたテレスは栗色のつぶらな瞳をしばたたかせ、よく匂いを嗅いでから答える。
「感じません。とても温かな気持ちになる香りです」
その時、タタタタタタッと必死に走って来るような足音が聞こえて来た。
警戒に、隊陣を組み何が来ても対応出来るように構える。
アロンダイトはどんな魔物が現れるのかと、武者震いを剣を握って抑える。
やがて現れたのは、コボルトだった。
呆気に取られ、武者震いもどこへやら肩で息をするコボルトを見る。
やがてコボルトは息を整えて言葉を紡ぐ。
「申し訳ございません! お迎えにあがる予定だったのですが……大変遅くなり、心よりお詫び申し上げます!」
本来なら、ぼろ切れを身に纏えばまだマシ、言葉はなく鳴き声としか思えない声を発している。
だが、目の前で深々と頭を下げるコボルトは、きちんとタキシードを着込み、流暢な言葉を話す。
「魔王城にいる位だから、特別なコボルトかも知れません」
ギュッと杖を握り、警戒を緩めないテレス。
アロンダイトとダイアはハッとして再び剣を構える。
ハスターはその横をスタスタ歩き、コボルトに近付いた。
「私達を向かえに来たとは、どういう事ですか?」
「ハスター! 離れろ!」
ダイアの声は無視された。
「魔王様は貴方様方を心よりお待ちしておりました。アロンダイト様とダイア様が旅を始めた時……いえ、もっと前から魔王様はお待ちしておりました」
ハスターが何か言う前に、ダイアが怒鳴り声を上げた。
「何くっちゃべってんだよ! ハスター! お前裏切るつもりか!?」
その怒声にコボルトがビクリと体をすくませる。
ハスターがコボルトの肩を優しく叩き、振り向く。
「ダイア、少し落ち着きなさい。このコボルトに敵意は無い。それに、貴女の実力ならコボルト一匹、一撃で倒せる」
「そういう問題じゃねぇだろ!? 何コボルトに肩入れしてんだよ!」
ふぅ、とハスターはため息をついた。
「今まであたしらが何の為に旅して来たか忘れたとは言わせねぇぞ! 何人の人が魔物に殺された!? 何人の人が魔物に家族を殺された!? ハスター、忘れたとは言わせねぇぞ!」
「ダイア」
剣を納めたアロンダイトが、ダイアの手を掴んだ。
「ハスターの言う通りだ。少し落ち着こう」
言ってアロンダイトは怯えるコボルトに目を向ける。
「話を聞かせて貰えないか?」
アロンダイトは動揺を押し殺していた。
『魔王が何年も自分を待っていた』
いくらでも自分達を殺せるタイミングはあったはずだ。だが、そんな事はせず、ただずっと監視しながら待っていた。
例えようのない恐怖も同時に押し殺していた。
「どういう事か、教えてくれ」
アロンダイトの言葉。ダイアはチッと舌打ちをして、階段にドカッと座り、テレスはオロオロしつつも、アロンダイトの後ろにいた。
「私の口からは、多くを語れません。魔王様自らがお話をしたいとおっしゃっておりますので。ただ一つ。一つだけ私から申し上げたい事があります。魔王様は、貴方様方に危害を加えません」
コボルトは決められた台詞の様に、スラスラと語った。
考える様に、アロンダイトは形の良い唇に手を当てる。テレスはキョロキョロとコボルトとアロンダイトを交互に見つめ、やがて怖ず怖ずと口を開く。
「あの……魔王は、人々を支配するのが目的じゃないの……?」
コボルトは慎重に言葉を選ぶ様に答えた。
「魔王様は、世界を征服する事も、人々を掌握する事もしません」
しばしの沈黙が流れた。
アロンダイトは祖父に何度も言われた言葉を思い出していた。
『魔王は世界の人々を苦しめているんだよ』
『魔王はお前の父を殺した』
『魔王は強い。でも、誰かが倒さなきゃいけない』
『魔王は悪いやつだ。魔王は人間を殺して喜ぶようなやつなんだ』
幼い頃から、何度も何度も魔王はそういうものだと教えられた。
「案内してもらおう。魔王の元へ」
沈黙の後、アロンダイトは重々しい口調でそう言った。