第一章④
自室に戻り、お仕着せを脱ぎ捨てたジャックは、寝台に倒れ込む代わりに床に跪いた。
窓から差し込む月光だけが頼りの、狭く殺風景な使用人部屋。
バローが「お前にはまだ早い」と渋るのを、ロランヌが「私の従者なのだから」と押し通して与えられた、初めての自分の居場所だ。
ジャックは、じっと自分の両手を見つめた。
昼間、ミセス・ヴィレットの庭で、ロランヌの手を汚さぬよう汚れを取り除き、ピーの路地裏で薬の紙袋を受け取った、何の変哲もない、少し骨張った少年の手。
「……咲け」
微かな、祈るような呟きと共に、ジャックは精神を集中させる。
彼が視るのは、現実の部屋ではない。薄いベールを隔てた向こう側、自分自身の魂が根を下ろす「冥界の庭」だ。
そこは、ロランヌの語るような可憐な野薔薇が咲き誇る場所でも、ミセス・ヴィレットのスミレのような健康な場所でもなかった。
ただ、黒い土が広がり、霧が立ち込める、静寂だけの場所。
その中心に、一本の木が立っている。
葉もつけず、幹は灰色で、まるで死に絶えた古木のように見える。けれど、ジャックにはわかっていた。この木は生きている。生きようと、必死に地下へ根を伸ばしている。
その、灰色の枝の先。
そこに、ひとつだけ、膨らみかけた蕾があった。
「……っ」
ジャックは、思わず息を呑んだ。
蕾は、青かった。
それは、空の青でも、海の青でもない。
真っ白な紙に、濃い青のインクを派手にこぼしてしまったときのような、不自然で、毒々しい、悍ましい青だ。
この国の人々は、薔薇を愛する。薔薇は王族の象徴であり、気高さの証だ。
けれど、青い薔薇なんて、この世に存在しない。存在しては、ならないのだ。
「なんで……なんで、こんな色が……」
ジャックは、震える手で、自身の冥界にある青い蕾に触れようとした。
触れれば、その指先が青く染まってしまいそうで、怖かった。
もし、この蕾が花開いたとき、それはこの国の秩序を乱す、悪しき呪いの花になるのではないか。
自分は、ロランヌを守る従者ではなく、彼女の愛する庭を、この国を、根こそぎ刈り取るための「鋏」として、生まれてきたのではないか。
得体の知れない恐怖が、背筋を駆け上がる。 ジャックは、現実世界の床に爪を立て、あかぎれだらけの手を、月光から隠すように強く握りしめた。
青いインクのような蕾は、ジャックの目の裏に焼き付いて、離れようとしなかった。
数日後、ジャックはロランヌと連れ立って三番街を歩いていた。ちょうど近くで仕事があって、その帰り道だ。
本当なら、何日も心待ちにした楽しい時間のはずなのだが、今ふたりの間には若干気まずい雰囲気が流れている。
件のお菓子屋へ行こうと誘ったときの、ジャックの誘い方が悪かったのだ。「美味しいと評判のお菓子屋があるそうです」と言えばよかったのを、「若い女性に人気のお菓子屋があるそうです」と言ってしまったため、それでロランヌの機嫌を損ねてしまった。
思えば数日前から少し不機嫌なように感じていて、それで機嫌を直してもらえればと考えて誘ったのだが、うまくいかなった。「どうせ〝秘密のお散歩〟のときにでも見つけたのでしょう? そのときに女の子に教えてもらったのかしら」と、ロランヌはぷりぷり怒りだしてしまった。
もともと、時々ジャックが屋敷からいなくなるのをロランヌはよく思っていない。散歩だと言っているのだが、それもよくないらしく、その曖昧な表現ゆえいろいろと疑いをかけられてしまっているようだ。
さらにいけなかったのが、そうやってロランヌが怒りだしたとき、ジャックはつい笑ってしまったのだ。
ロランヌの怒りはあきらかにヤキモチ、もしくは独占欲によるものだ。大好きな主人がそんなふうに自分に対して激しい感情を抱いているというだけでも愛しくなるのに、美貌の少女は怒る姿まで愛らしい。そのせいでジャックは笑みを浮かべるのを堪えることができなかった。
仕事中こそ平静を装っていたものの、ロランヌはずっとジャックに対してぷりぷり怒っている。その姿を見てジャックは大いに楽しんでいるが、そろそろ機嫌を直して欲しいとも思っていた。
不機嫌でもお菓子屋には同行してくれるのだから、そこのお菓子が評判通り美味しければ状況は改善するだろう。
「ロール様、もうすぐ着くと思いますよ。住所はこのあたりのはずですから」
新聞の切り抜きで番地を確認して、ジャックはロランヌに声をかけた。もうすぐ着くと聞いたロランヌは、あからさまにそわそわし始めた。怒っているのは、どうやらポーズだったらしい。
「……若い女性に人気のお店って、どんなものかしらね。チョコレートのお菓子はあるかしら。でも、その店の実力を知るには焼き菓子を食せというし……」
「それなら、チョコレートも焼き菓子も買いましょう。それ以外にも、気になるものなら何でも。ロール様が食べきれなかったものは、俺でもバローさんでも引き受けますから」
「そうね。みんなで食べればいいものね」
どんなお菓子があるのか想像すると楽しくなったのだろう。ロランヌは不機嫌を装うのをやめ、うきうきとしだした。その無邪気な様子に、ジャックはほっとすると同時に愛しくてたまらなくなった。
「看板が見えてきましたよ。おそらくあちらでしょう」
嬉しくなったジャックは、少し前を歩いてロランヌを先導した。その後ろをロランヌも足取り軽くついてきていたのだが、不意に跳ねるような足音が止まった。
「ねえ、ジャック」
「なんでしょう、ロール様」
「あれを見て……」
〝あれ〟と言ってロランヌが指差すのは、店と店の間の狭い路地だ。そこに何かある。それが人間だとわかった瞬間、ジャックとロランヌはどちらともなく駆け出していた。
「おい、大丈夫か!?」
「ジャック、揺らしてはだめ。──わたくしが見るから」
倒れているのは、まだ若い男性だ。
その人のそばまで行って、助け起こそうとするジャックをロランヌが制した。そしてその人の体に両手をかざすようにして、冥界を覗き込む。
薄いベールを一枚隔てた向こうに見えるのは、ごく普通の緑の庭だ。特に荒んでいる様子も、枯れている様子もない。空気が淀んでいるわけでも、悪い虫がついているようにも見えない。
ただ、そこに植わっているのは、見たことがない植物だった。
「ロール様、この植物は……?」
「わからないわ。でも傷んだところは見られないし、それ以上に、このいたって普通の土壌にしてはよく育っているの。蕾までつけているし」
ロランヌは青々とした葉に触れ、裏返して確認し、それからぷっくりとした蕾に触れた。
ロランヌの指先に突かれ蕾はふるふると揺れたが、それ以上の変化はなかった。クインガーデナーが意思を、意味を持って触れたのに、蕾は蕾のままだ。
まるで、自分の正体を明かすのを拒むかのように。
冥界の花樹は普通の植物と違って、花は花としてある。その持ち主が生まれたときから、そこにあるものだから。蕾の時期がないわけではないが、クインガーデナーに〝咲け〟と命じられて咲かないものは本来ないはずなのだ。
体のほうが弱っていても、花樹に働きかけて力を強めることができれば、きっと意識が戻るとロランヌは考えていたのだろう。いつもはそうだ。だが、目の前の人はぴくりとも動かない。
「花樹になんの問題もないはずなのに、この人の意識は戻らないわ。どういうことなのかしら……」
「脈も弱いです。このままでは危ないでしょうから、病院へ運びましょう」
「……そうね」
自分たちにできることはない──ジャックはそう見切りをつけようとした。
それでも、内心では目の前の出来事に言い知れぬ不安を覚えていたし、ロランヌも自分と同じくらい不安になっているだろうことを感じ取っていた。




