第五章⑦
「いやぁ、楽園は追放されるのではなく出立するのがいいよね」
女王と温室で顔を合わせた日から数日後、飛空城を出て街まで降りてすぐピーは言った。
あの戦いの夜から十日ほどしか経っていないというのに、ずいぶんと長い時間が過ぎた気がする。
「ピーの言うことはよくわからないわね」
「わかりませんか。確かに僕の発言は掴みどころがないって言われます」
意味がわからず笑うロランヌに、ピーも説明することなくごまかしていた。だが、ジャックは彼が言いたかったことがわかる。
庇護下に入ってから捨てられたりいなかったものとされたりするよりも、庇護下に入らずにいることのほうが安全だと言いたいのだろう。
女王を敵にするつもりはさらさらないが、味方だと思うこともできそうになかった。
だから、ジャックたちはこれから旅に出る。
「さあ、これから忙しくなりますよ。まずは屋敷に戻って荷物をまとめて、そのあとは東方への船が出る港まで移動です」
「素敵ね。……わたくし、どこかへ行けるなんて考えたこともなかったのだわ」
ジャックの言葉に、ロランヌは目を輝かせて言った。
何の気ない発言だったのだろう。だがそれはロランヌのこれまでの人生を表しているようで、ジャックの胸は苦しくなった。
「どこへでも行けますし、何をしたっていいんですよ。ロール様は、自由なんですから」
これは誰かが言ってやらなければ成らないだろうと思い、ジャックは言った。
何にも怯えず何にも縛られず生きる権利があると、教えてやらなければならない。そうでなければロランヌは、そんなことを考えることなく生きてきたのだから。
「そうね……そうよね! じゃあわたくし、屋敷に戻る前に三番街へ行きたいわ。例のお菓子屋さんに、まだ行けていなかったんですもの」
ジャックの言葉にひらめいたのだろう。ロランヌは、嬉しそうに言う。
そういえばそうだったなと思い出し、ジャックも頷いた。この機を逃せばもしかしたら、一度も行く機会がないかもしれない。
「ええ、行きましょう。お嬢様が行きたい場所へならどこへでもお供します」
少し格好つけて言えば、ロランヌは満足そうに笑った。
どこへ行ったとしても、この笑顔を守るためだけに生きていくのだ──ジャックはそう、決意を新たにした。
ジャックは三番街へと向かう辻馬車を拾うべく、大通りで手を挙げた。幸いにもすぐに一台の馬車が速度を落とし、石畳を鳴らして三人の前で止まる。
乗り込み、腰を下ろしたジャックが行き先を告げようと口を開きかけた、その時だった。
「一番街の、サジュマン邸へお願いします」
ロランヌが、鈴を転がすような声で先に告げた。ジャックは目を丸くして彼女を振り返る。
「ロール様? 三番街の菓子屋へ行くのではなかったのですか」
「……やっぱり、寄り道をせずに真っ直ぐおうちに帰りましょう。そうでないと、またあなたがバローにひどく叱られてしまうでしょう?」
ロランヌは悪戯っぽく微笑んで、ジャックの頬を指先で軽く突いた。三日前、バローの拳を受けた場所だ。そこにはもう痛みはないが、彼女がそれを自分のことのように案じていた事実に、ジャックの胸は熱くなる。
「同感だね」
向かい合わせに座ったピーが、背もたれに深く身を預けながら同意した。
「心配してくれる人が待っているなら、まずはその顔を見せて安心させてやるのが筋だ。僕らみたいな『はぐれ者』には、そういう場所は貴重なんだからさ」
「……そうですね。お二人がそう言うなら、異論はありません」
ジャックは窓の外を流れる王都の景色を眺めた。確かに、評判の菓子も魅力的ではある。だが、今のジャックが何よりも恋しいのは、繊細な砂糖細工などではなく、不器用な養い親が焼く少し硬めのパンと、温かいスープの味だった。
馬車がサジュマン邸の門を潜り、玄関前で止まる。
扉が開くよりも早く、屋敷の中から一人の男が飛び出してきた。朝の光を背負って現れたバローは、馬車から降り立つ三人の姿を認めた瞬間、その険しい顔を劇的に弛ませた。
「……お嬢様!」
「バロー、ただいま戻りました。ジャックが、立派に従者としての務めを果たしてくれましたよ」
ロランヌの誇らしげな言葉に、バローは深々と頭を下げた。
「よくぞ、ご無事で……よくぞ」
次にバローはピーに向き直り、節くれだった拳を胸に当てた。
「貴殿も、お嬢様とジャックのために尽力してくれたと陛下から伺っている。心から感謝する」
「よしてください。僕は同族は大事にしたいだけなんだ。お嬢様もジャックも危なっかしいから、年長者の僕が面倒見てやらなきゃなって思っただけさ」
ピーは照れ隠しにペストマスクの縁をいじり、大袈裟に肩をすくめて見せた。
そして最後に、バローはジャックの正面に立った。
十日前と同じ、逃げ場のない沈黙。ジャックが身構える暇もなく、バローの太い腕がガバッとその身体を掻き抱いた。
「……無事でよかった、ジャック」
「い、痛い! 痛いってバローさん! こっちは怪我人なんだぞ!」
岩のような胸板に顔を埋められ、ジャックは藻掻きながら叫んだ。だが、その声はどこか弾んでいる。その様子を見て、ロランヌとピーが堪えきれずに吹き出した。
「……さて、戻ったのならさっさと朝食の支度を手伝え、どら息子。お前がいない間、台所が寂しくてかなわん」
バローは照れ隠しのようにジャックを解放すると、いつものぶっきらぼうな口調で命じた。
「仕方ないなぁ。……わかりましたよ、父さん」
四人で囲む食卓には、焼きたてのパンの香りと、温かなスープの湯気が満ちていた。
ジャックはスプーンを動かしながら、意を決して切り出した。
「バローさん。俺、話があるんだ。俺たちの、これからの旅立ちについて……」
「陛下から聞いている。行くのだろう? 知らないことを、知るために」
バローは淡々と答えた。ジャックは呆気にとられ、それから苦笑した。
「……筒抜けなんですね。やはり女王陛下は、すべてお見通しだ」
自分たちが選んだ「自立」さえも、もしかしたら彼女の手のひらの上の出来事なのかもしれない。不気味なほどの全能感に背筋が寒くなる。けれど、隣で楽しそうにスープを運ぶロランヌと、パンを千切るピーの体温が、それを否定してくれた。
「見聞を広めてきます。自分のルーツを、東方の国で確かめるために」
ジャックが真っ直ぐに見据えると、バローは静かに頷き、その大きな手でジャックの肩を叩いた。
「忘れるな、ジャック。お前が世界のどこへ行こうと、お前はサジュマン家の従者であり──私の、たった一人の息子だ」
ジャックは何も言わず、深く、静かに頷いた。
その言葉がすべてであり、それだけで十分だった。
窓の外では、新しい一日の太陽が昇り始めていた。
サジュマン家の庭を、黄金色の光が優しく塗り替えていく。
本当の物語が、今ここから始まるのだと告げるように。
〈END〉




