第4話 羹の味
——バシャリ。
顔を濡らす羹は魚介で作られているのか海の香がした。
長いまつげの先から、顎から濁った水が滴り、膝の上で握られた拳へと落ちていく。急ごしらえで仕立ててもらった官服が台無しとなってしまったなぁ、と紫苑はどこか他人事のように思った。
そして、せめてもの救いは羹が冷えていたとも思った。これが作りたてなら紫苑の顔は大火傷を負っていただろう。
紫苑は顔を拭くでもなく、ただ平然と目の前で笑う天凱を見つめた。その手には空になった器が握られていた。
***
日中、慶王は琴洛殿にて政務をとる。各省、各部の重鎮及び文武百官が集い、慶王に奏上を述べる。内容は税制や国内情勢について、近隣諸国の動きなど。
(暇そうだな)
国を支配するために必要不可欠な会議をすっぽかした天凱を、紫苑は少し離れた位置から見守っていた。
天凱は特にすることはないのか自由気ままに庭園を歩いていた。時折、紫苑の様子を伺うような仕草をするが文句は言わない。居づらそうにはしているが、大衆の面前で護衛として採用したのは自分だからだろうか。
(うーん、どうやって性格を叩き直すべきか)
相手が英峰なら力づくで叩き直していたが、いかんせん相手は慶王だ。力づくなんてもってのほか。しつこく口頭で注意しても、怒りを買えば一族郎党が生活に窮するだろう。
特に相手は愚王とまで言われた人物だ。慎重にいかなければならない。どうやって行動するべきか紫苑が迷っていた時、午後を告げる鐘が鳴った。
「紫翠。昼餉を取りに行くぞ」
天凱は鐘楼の方角を見ながら、紫苑に言葉を投げかけた。
慶王が食事を摂るのは天華宮の房室に戻る必要がある。護衛兵は毒見を終え次第、別の者と交代し、食事を摂りに行くのが通例だ。
けれど紫苑が知っている限り、今現在、天凱の護衛をしているのは自分だけ。あの最低人間が自らの金銭をきってまで他にも護衛を雇っているとは考えにくい。
(昼抜きか)
最低人間の我が儘に付き合っていたおかげで丸一日何も口にしなくても動くことはできるが、朝食べているのと食べていないとでは身体の動きが異なる。護衛の交代や時間など詳しいことを聞いていなかったので自己判断で朝食は多めに摂取したのだが間違いなかったと胸を撫で下ろした。
「お供します」
天凱は鼻で返事をすると庭園を突き進む。慌てて紫苑も後を追った。
どうやら、庭園を突き抜けた方が天華宮に早く着くようだ。まだ城内の構図をいまいち理解できてない紫苑は、頭の中で素早く記憶する。異常事態の時にいち早く天凱の元へ行くために。
庭園を通り過ぎ、いくつかの回廊を歩いていると眼の前に朱色の門が待ち構えていた。掲げられた扁額には力強い文字で『天華宮』と書かれている。天凱の登場に門兵が緊張の面持ちで姿勢を正した。天凱は何も言わず門をくぐり、回廊を歩いていく。
房室に入っていくのを見届けてから紫苑は扉の横へと移動した。天凱が食事を終えるまでここで待機しようと思ったのだが、何を考えたのか天凱は「一緒に食べるぞ」と出迎えてくれた。
妙に優しく言われたので違和感を覚えるが、紫苑は黙って入室した。朱塗りの柱と白塗りの壁に囲まれた空間は、まるで一枚の絵画を見ているようだ。染みひとつ、くすみひとつすらない。不安になるほど整然とした空間を前に紫苑は微かに目を見開く。慶王が住まう城は外だけではなく、中も荘厳として美しい。
「お前はそこに座れ」
天凱は空いている座席を指さした。ちょうど、天凱の前の席だ。
紫苑は首を左右に振った。
「いえ、慶王様の食卓に同席するわけにはいきません。私は端のほうでじゅうぶんです」
「予に一人で寂しく食事をとれと?」
天凱の眉間に皺が寄る。
「慶王として命を下す。共に食べろ」
怒りが滲む口調で命じると空席を指さした。
王命は絶対だ。何者にも覆すことができない。紫苑は断りを入れると指示された席に腰を落とした。
「最初から諦めればいいものを」
天凱は手を叩く。
「持ってきてくれ」
時間を置かずして数人の宮女が膳を手に房室に入ると素早く料理を配膳しはじめる。紫苑の分もあるので最初から同席させるつもりだったらしい。
配膳し終わった宮女に「すみません」と声をかけるが、彼女達は紫苑には一瞥もくれずにそそくさと房室から出て行った。
「愛想がないだろう?」
「えっと、そうですね。私がいるからでしょうか」
「いや、違う。この料理に毒が仕込まれていれば配膳した者も罰せられるから恐ろしいだけさ」
天凱は箸の先で料理をかき混ぜる。せっかく美しく整えられていたのに、料理はぐちゃぐちゃだ。
「彼女達にとって予は疫病神に等しい存在なんだ」
箸で肉を摘むと天凱は迷わず口に運ぼうとし、
「紫翠よ。お前、本当に馬鹿だな」
止めた。
「——えっ」
代わりに紫苑の全身がびしょ濡れになる。
愉快そうに笑う天凱が腕を払い、何かを遠くに放り投げた。皿だ。紫苑の視界の端を銀製の大皿がカラカラと音を立てながら転がっていく。
紫苑の記憶が正しければその皿には羹が入れられていたはず。
つまり、今、自分の全身を不愉快に濡らす水は——。
「申し訳ございません」
紫苑は急いで席から立つと床に跪く。羹を頭からかけられたという侮辱を受けても、かけた相手は慶王だ。怒りに任せて非難の声をあげるわけにはいかない。
怒りと動揺を隠すべく、面を伏せ、謝罪の言葉を発すると天凱はまたもや愉快そうに笑った。
「お前は、予が何に怒っていると思っている?」
「卑賤な身でありながら、慶王様の食卓に同席いたしました」
「いいや。違う。予は同席を許した」
「……それは」
紫苑は言い淀む。何に対して天凱が怒っているのか分からない。
とりあえず何もわからないまま謝罪するべきか、理由を考えるべきか。紫苑が悩んでいると、頭上から誰かが鼻で笑う気配を感じた。
「ただの暇つぶしだ」
頭を下げた状態なので天凱の表情は読めないが声はいたく軽快で、怒りなど微塵も感じさせない。それどころか楽しげに音を紡いでいる。
(暇つぶしで人に食べ物をかけるな!)
紫苑は心の中で罵声を浴びせた。奇想天外男と仲がよく、そのため理不尽になれていても料理を顔にかけられた挙げ句、高々に笑われたことはない。
顔を上げるよう言われたので、苛立ちを拳を握ることで相殺しながら紫苑は面をあげる。こうしなければ、その面をぶん殴ってしまいそうだ。
紫苑と目が合うと、天凱は笑い声を止めて床に転がる皿を見た。ゆっくりと開く唇に、次に続くのは死刑を告げる冷酷な言葉か。はたまたその両方かと紫苑が恐怖を感じているとわざとらしい欠伸をこぼす。
「すごい表情だな。崔家の令息には過激すぎたか?」
目尻に溜まった涙を指先で拭い、紫苑を見るやいな天凱はまた吹き出した。
「ふふっ、こんなに笑ったのは初めてだ。一生分、笑ったよ」
上気し、桃色に染まった頬が火照るのか天凱は左手で風を送りながら、右手で並ぶ皿を持ち上げる。乱雑な動作で床に落とすとにこやかな笑顔を浮かべた。
「同席を許すのはここまで。お前は床で食べろ」
「仰せの通りに」
屈辱を噛み殺し、紫苑は床に跪く。天凱が次々と落とした料理は、落下の衝撃で形は崩れているがほとんど溢れることなく、皿におさまっていた。
(床に落ちた料理を食えと言われるよりかはマシだ)
そう自分に言い聞かせていると頭上から「早く食べろ」と声が降ってくる。
覚悟を決めた紫苑は一番手前にあった皿を引き寄せた。野菜と羊肉の羹のようだ。匙を浸し、一口分を掬い、舌の上に乗せるととろみと共に細かく刻まれた野菜の風味が広がった。
(美味しい、んだろうな。多分)
多分とつけたのは緊張で味がしなかったからだ。
「どうだ?」
「美味しいです。とても」
天凱は嬉しそうに「そうか。もっと食べろ」と豚肉の炒め物を紫苑の前に落とす。その行為に不満を言えるわけがなく、紫苑は匙を置くと箸に持ち替え、口に入れた。これも味はしなかった。




