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紫苑の花は後宮に秘する  作者: 荻原もも
物言わぬ花

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第2話 雪解けの水は千の針となる


「さあ、お手をどうぞ」


 差し出された手に己の手を重ねながら、紫苑は遠くを見つめた。だいだい色に染まる太陽が山稜さんりょうの彼方、沈んでいくのが見える。大地を走る長い影を追いかけ、次に東の空を見上げると群青が闇を引き連れてきた。


(もうこんな時間なのか)


 過ぎゆく時間も忘れ、黄皇太后との会話を楽しんでしまった。昼過ぎに訪れ、まさか夕刻までいるとは思わなかった。

 用意された鳳輦ほうれんへ乗り込もうとした時、右半身に強い衝撃が走る。咄嗟のことで紫苑は地面に倒れ込んでしまった。


「誰?」


 さっと体を起こして、周囲を伺う。侍女達は憤怒にかられた表情で、宦官に拘束された一人の女を睨みつけていた。

 年齢は二十半ば。女にしては長身で痩せ細った顔や体付きをしている。纏う衣裳は女官にしては高価だが、季妃や皇后、皇太后付きの侍女のものとは違う。

 ぱっと見て、女の所属が分からないため紫苑は眉をひそめた。安否を問う侍女を片手だけで制すると、「あなたは?」と女に問いかけた。


「名前と所属はどこ?」


 ここは金暘殿の門前。多くの侍女や宦官に囲まれ、鳳輦に乗り込もうとする紫苑にぶつかるなど、わざとでしかない。

 気でも触れているのか女は虚ろな目で紫苑を見定める。周囲が非難の声をあげても、何も感じないのかその目は凪いでいた。


「なぜ、私にぶつかったの?」


 それでも紫苑の言葉は通じているようで女はゆっくりと瞬きを繰り返し、ついっと視線を地面へ。紫苑もその視線を辿り、息を飲み込んだ。


(——紅玉の帯飾り)


 女の視線の先にはあの夜、紫苑と英峰をつけ、自害した宦官、林大勇が所持していた帯飾りと酷似したものが落ちていた。——否、房の長さや太さ、飾り玉、紅玉石の大きさ、その全てが同じ代物だ。

 帯飾りを拾いあげた紫苑が女の元へ近づこうした時、女は覚醒したかのように叫び声をあげて、自らを拘束する宦官の腕に噛みついた。腕に爪を食い込ませ、悪鬼のように顔を歪め、口の端からは唾液と血液が混ざり合ったものが伝い流れる。

 宦官が痛みに叫ぶ。驚いた侍女が悲鳴をあげる。

 騒ぎを聞きつけた者達が金暘殿から走り寄ってくる。


「待ちなさい!」


 拘束が緩んだ隙に女は駆け出した。その細い足にどんな力があるのかと問いたくなるほどに、力強く地面を蹴り上げ、裙が捲れても気にせず、一心不乱に駆けていく。


(どうする?! せっかく掴んだ手がかりをみすみす逃すのか?!)


 紫苑は自分に問いかける。皇后としてなら宦官に命じて、自分は殿舎で報告を待つべきだ。


(いや、誰が敵か味方も分からない。拘束損ねたりしないためにも、私が行くべきだ)


 そう考えると同時に紫苑も駆け出した。皇后としての矜持など知るものか。自分は崔大将軍の孫、慶王のほこでありたてである。外聞を気にして大人しくするよりも、慶王にあだ名す者を捕まえるのが最優先事項だ。

 先が反り上がった蒲沓くつでは満足に走ることができないため、脱ぎ捨てる。ひらひらと無駄に長い肩巾ひれも重たいだけの装飾品も。女を追いかけるのに不必要なもの、全て捨てた。


「待て!!」


 喉奥から言葉を発する。女の耳には届いていないのか小石が敷き詰められた小径こみちを駆けていく。裸足はだしではないにしろ、布帛ふはく製のしとうずでは痛みは和らがない。足裏を刺す痛みから目を逸らしながら紫苑は女を追いかける。

 気がつけば、庭園に辿り着いていた。


「どこにいるんだ?!」


 周囲を見渡しながら庭園の奥へと進んでいく。


「私を突き飛ばした理由を教えてくれ」


 密集した高木こうぼくが夕日を遮り、じわじわと闇が深くなる。紫苑は歯を食いしばり、背の高い茂みをかき分けてさらに奥へ進む。庭園は広く、名前も知らない木々が植えられている。庭師が頻繁に手入れをしているのか、どこかしこも美しく手入れされていた。

 だが、今はその美しさに気を留める余裕はない。

 何かが動いた気配を感じ、そちらへ一歩踏み出すと、目の前に広がるのは池だった。

 夕日の名残が水面に淡く映り、かすかな風に波紋が浮かんでは消えていく。目を凝らせば澄んだ水の中、優雅に尾鰭おひれをはためかせる魚の陰影も見える。

 紫苑は息を整えながら、池の周辺を見渡した。


「……ここにいるのか?」


 水際の柳がかすかに揺れた。垂れ幕のような枝の向こう側に女の影が浮かび上がる。


「そこか……」


 声を低く呟くと、紫苑は足をさらに速めた。

 女は逃げない。紫苑が辿り着くのを待っているようだ。


(ここに私を連れて来たかったのか?)


 後宮にはいくつもの人工庭園が存在する。紫苑の記憶が正しければ、今自分がいるのは歴代の慶王が狩場として利用していた彩花園さいかえんだ。庭師の手は入っているが妃嬪が好むような花々は植えられていないため、常日頃から人気がないと聞いている。密談にはもってこいの場所といえる。


「なにかあったの?」


 垂れ枝の向こう側にいる女へ優しく語りかける。女は腕を抱えて震えているようだ。しばらく待つが言葉を発しないので紫苑は枝を掻き分けるため手を伸ばす。

 次の瞬間、女は「逃げて!」と叫んだ。


「くっ……!」


 紫苑の後頭部に鈍い痛みが走った。鈍器で殴られたのか、脳が揺れて、視界が二重になる。


「誰だ?!」


 追撃が来る前にその場を駆け出し、距離をとった後に振り返ると一人の男が石を手に、肩で大きく呼吸をしていた。身長は平均より低く、宦官らしい体付きをした優しげな面立ちをした男だ。

 男は血走った目で紫苑を睨みつける。


「俺を殺しに来たんだろう!!」

「何を言っているんだ。私は彼女と話をするためにきただけだ」


 紫苑はうずくまり泣きじゃくる女に一瞥を投げる。 


「嘘だ! お前は俺を殺しにきた!!」


 男は岩を紫苑に向かって投げつけると掴みかかってきた。


「落ち着け! 話をしよう!」


 何度も言葉を投げかけても平常心ではない男には届かない。紫苑は自らの喉に向かって伸ばされた手をはたき落として、足払いをして、距離をとって、女の安否を気にしてながら武器となるものはないかを探す。

 去勢された宦官とはいえ、純粋な力の分配は男にある。祖父に力をいなすすべや素手での戦い方は教え込まれているが頭に受けた衝撃のせいで思うほど満足に動けない。


(雨蓉達が来るまで持つだろうか)


 自分を探しているであろう侍女達が宦官を引き連れてやってくるのを祈っていた時、一層、視界が大きく揺れた。立てなくなり、地面に膝をつく。

 その隙に男は紫苑の腕を掴んだ。


「俺はまだ死にたくない……!」


 まるで小石を投げるかのように、男は紫苑を池へと放り投げ、——雪解けの水は千の針となり、紫苑の肌を突き刺した。


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