第12話 疲れは癒えない
風呂は好きだが、誰かの手を借りるのは窮屈で仕方ない。雨蓉がいるからと他の侍女達を追い出した紫苑は行儀が悪いと思いつつ、浴槽のへりにもたれかかった。いつもなら雨蓉の叱責が飛んでくるのだが、今日はそれがない。それをいいことにほんの少しの息抜きを楽しむ。
「ゆっくりお休みください。あ、でも寝てはいけませんわ。溺れてしまいますから」
胸元まで浸かる湯はちょうどいい温度で、うとうとしていると雨蓉の心配そうな声が飛んでくる。
「うん。わかってる」
「お疲れですわね」
「うん、まあね。やっぱり、慶王様のお妃様って疲れるね」
後宮のしきたりに礼儀作法、勢力、紅琳の行方、宦官の恋人、姫春妃の殺害について。覚えることも考えることも多すぎる。それに三人の季妃も自由気ままで、制御ができない。
どれだけ山や野を駆け回り、体力を積んでいても精神的に追い込まれた分も疲労は蓄積していく。
「わたくしとしては、ほっとしましたけれど」
無意識に呟いたのか、雨蓉ははっと口を手で覆う。
「いいよ。思っていること言っても。たぶん、私も同じこと、考えているから」
「……あのまま紫翠様として仕えるよりも本来の性別に戻ったほうが紫苑様も生きやすいと思いまして」
「そうだね。確かに性別が知られたらと思ったら怖くて仕方がなかった。私一人ならともかく、家族や雨蓉達を巻き込んでしまうと思うと安心する暇もなかったね」
途中から半ばヤケになっていたけど、とは思っても絶対に言葉にしない。
「慶王様が紫苑様をお見初めし、寵愛を一身に注ぐお姿を見ていると安心いたします。お世継ぎが楽しみですわ。紫苑様の御子なら男の子でも女の子でも可愛らしく、逞しく、美しい御子になるに違いありません」
見初められていないし、寵愛は注がれていないし、子供ができる予定なんて一寸たりともありえないため、紫苑は唇を引き攣らせる。
「あはは、そうだね」
「御子が生まれても雨蓉は紫苑様の侍女として精一杯お世話いたしてみせます!」
「あーうん、でも、子供は授かり——」
紫苑は言葉を止めると入り口へ顔を向けた。少しずつだが足音が近付いてくる。雨蓉も気付いたのかそっと立ち上がると入り口の前へ移動した。
「何用ですか? 紫苑様はご入浴中ですよ。……ええ、そうですか。予定よりずいぶんとお早いのですね。少しお待ちいただくよう、伝えてくださいませ」
苛立ちが滲む雨蓉の横顔を眺めながら、紫苑は立ち上がる。もう少しゆっくり入浴を楽しみたいが天凱が待っているのなら中断しざる終えない。
「紫苑様、慶王様が臥室でお待ちになっているそうです」
「分かった。すぐ準備して向かおうか」
水を含み色濃くなった黒髪を手拭いで覆いながら、雨蓉が用意した夜伽の衣裳に腕を通した。
***
「……あなた、自由にしすぎじゃない?」
入室早々、飛び込んできた光景に紫苑は眉をひそめた。見慣れた変装姿をした英峰がどこからか用意した菓子を頬いっぱいに頬張っている。それも紫苑の臥台の上で、寝そべりながら。ぽろぽろと食べかすが散っているが本人は気にすることなく食べることに集中していた。
「まあまあ、許してやってくれないか? 英峰は吏部の仕事を優先して食事も満足にとっていないようなんだ」
「……慶王様は椅子に座ってください。なんで床に座っているんですか」
紫苑は呆れた表情で、床の上で胡座をかく天凱を見やる。
「椅子には英峰の荷物があるから、それに私はどこでも気にしない」
そう言われて椅子を見れば、確かに風呂敷に包まれた物体が置かれている。
「荷物なんてどかせばいいんですよ」
乱暴な手つきで風呂敷を掴むと英峰が「あー!!」と声を荒げた。
「うるさい。外に聞こえるから声抑えて」
「おい、それを適当に扱うな! 駄目にしたら俺の給金に関わる!!」
「給金? あなた、何を持ってきたの?」
紫苑は風呂敷を持ち上げた。大きさはちょうど巻子本を包んだ程度。竹や紙と比べてどっしりと重いため、木でできているようだ。
「私も知りたいな。英峰にしてはとても丁寧に扱っていたから気になっているんだ」
「戸籍だよ。借りてきたんだ」
「……それは、戸部が管理する最重要機密では? 吏部侍郎とはいえ、他部署に貸し出すことは禁じられているはずだ。戸部所属でも上席しか閲覧はできない、はずなんだが」
「借りてきた」
「借りてきたのか。慶王はなにも聞いていないが」
天凱は悩ましげに腕を組む。
「まあ、借りてきたのなら仕方ないな。うん、英峰だし」
笑う天凱に紫苑は頭痛を覚えた。話せば話すほど、天凱という人物は温和で寛容。英峰の自由を許してしまう懐の広さを併せ持つ。
それが英峰の性格の悪さを助長しているのは本人も理解しているが「まあ、英峰だし」で済ませてしまう。
(……まあ、私もその一人ではあるけどね)
人のことは言えないと紫苑は思考を中断させることにした。
「それで、英峰は戸籍を盗んできてどうしたの?」
「盗んでない。借りてきただけだ」
「……借りてきた戸籍、どうしたの」
「ほら、自害した宦官いたじゃん? 仕事の合間にあいつの身元をさらっていたんだけど、やっと姓名や所属とか分かってさ」
さらっていた——もしや、戸部に忍び込んで? さすがに最重要書類を何日に渡って盗めば足がつく。英峰は気配を察知することに長けているから、戸部の目を掻い潜り、忍び込み、誰かが近づけば、さっと荒らした形跡を元通りにして姿を隠す……紫苑はまた思考を中断させる。これ以上、考えてはいけない。
(考えても仕方がない。だって、英峰だし)
ただ、天凱はほのぼのと笑っているが、ことの一件が解決したら警備を強化するよう進言しようとだけ思った。
「それで誰だったの?」
英峰は紫苑の手から戸籍を奪い取ると「丁寧に扱え」といった割には乱暴な手で開封した。
「林大勇。二十六歳。家柄は下流。よくある、金のために宦官になったみたいだ。蚕室付きから、一年ほど前に皇太后付きの宦官となる」
去勢を施す部屋を蚕室と呼ぶ。
「仕事態度、能力、人柄、全てが高評価。蚕室付きでも大勇を慕う者は多くいたそうだ」
宦官にとって、蚕室は思い出したくもない恐怖の象徴。そこに勤める宦官は痛みを与えた《《原因》》として、畏怖されるのだが大勇は珍しくみんなから好かれていたようだ。
「やつの与えられた室をひっくり返して調べ尽くしたが書簡のやりとりも賄賂と思わしき金も見当たらない」
「なぜ、蚕室の宦官が皇太后付きとなった?」
天凱の問いかけに英峰は肩を持ち上げる。
「さあな。皇太后直々に指名されたそうだが、理由や経緯までは分からない」
「皇太后に聞いてみても、きっと答えてはくださらぬだろうな……」
「あの女狐が言うわけない。聞くだけ時間の無駄だ。とりあえず、俺からの報告は以上」
英峰が戸籍を仕舞うと、次は天凱が手を挙げる。
「私は冬桜宮に忍び込んできた」
朗らかにいうものだから紫苑は一瞬、何を言っているのか分からなくなった。
「お前もやるようになったな」
英峰が嬉々として笑う横顔が腹立たしいが、我慢して「司馬冬妃の宮に?」と問う。
「ああ、彼女は妙に紫苑さんに固執しているように見えてね。君と彼女が茶会の際に忍び込んで、調べてきた」
「……なるほど、だから時間を稼げと私に言ったんですね」
頭痛がする。英峰と違って、悪意がない分、叱りづらい。
「昔、英峰が作った抜け道があるから誰にも知られてはいないさ。安心してくれ」
徐々に増す頭痛を抑えるべく、頭を抱え込んだ紫苑を天凱は不思議そうに見る。「体調が悪いのか」という問いかけに頭を振るので精一杯だ。
「妙なんだ。妃として、所持している装飾品が極端に少なすぎる」
「司馬冬妃の生家は遠いし、そこまで裕福ではないからな。身を飾るものは全て国が季妃としての矜持を保つために与えたやつだけ。それが少ないとなれば、報酬として侍女に配ったか、または賄賂として使用したかのどっちかだ」
「なら、私がそれとなく調べてみる」
司馬冬妃は後宮から外に出られない。調べるなら紫苑が適役だろう。
「私からもいい?」
「言え。今は少しでも情報がいる」
「末の皇子様が臥せていらっしゃると、司馬冬妃が言っていたの。なにか知らない?」
英峰と天凱は視線を交わす。
「聞いているか? 俺は知らない」
「私のもとにもそのような報告はない」
口元を手で覆いながら天凱は唸る。異母弟である天鳴は、彼が物心つく前は紅琳と共に遊んだりしたが、どちらが慶王に相応しいか周囲が争うにつれ、次第に疎遠になっていった。
天鳴に関する情報は風の噂で流れてくる程度しか知らない。体調不良であっても、医官が口を噤めば、一切流れてこない。
「私に、弱味を見せないため報告しなかった?」
「お前、慶王の癖に舐められすぎだ」
「……耳が痛い」
「天凱でも知らないそれを、なぜ司馬冬妃が知っている」
英峰は紫苑を見た。
「司馬冬妃は後宮中を探し回っているからその過程で聞いたのだと思う。彼女、朝から夜遅くまで、食事もとらず、探すことを優先しているから」
なにを、と言わなくても司馬冬妃の親友が誰であったかを知る天凱は顔を顰め、英峰は興味なさげに鼻を鳴らした。
「俺はもう少し大勇をさらってみる。天凱は末皇子の状態を、紫苑はそのまま後宮を調べろ」
そう言うと眠気が勝ったのか英峰は衾を持ち上げ、体を滑り込ませる。大きくあくびを噛み締め、うとうととまぶたが開閉するのを見て、紫苑は「あっ」と声をあげた。
「謝秋妃に馬と剣を与えてもいい?」
「紫苑さんの好きなようにすればいい。必要なものがあれば手配するよ」
声ほぼ眠りの世界に旅立っている英峰の代わりに天凱が答えた。
「他にも必要なことがあればすぐに言ってくれ。君には迷惑ばかりかけているから」
「私は自分の好きなようにしているのでお気になさらないでください」
「気にするさ。美しかった君が日に日にやつれていくのを黙って見守ることはできない。こんなことでしか君に償えない」
天凱は悲痛な面持ちで紫苑を見つめると、そっと腕を持ち上げた。
「いつも、気を張り詰めていて満足に眠れていないのだろう? 今夜は私が見張っているからゆっくり休んでくれ」
紫苑の頬に手を添えて、親指で目尻を撫でる。
「慶王様、私は崔大将軍の孫です。あなた様に仕える部下にすぎません」
紫苑はその手をそっと振りほどくと、静かに微笑んだ。
「あなた様が優しいことは知っています。けれど、今は清賢長公主様の行方と姫春妃殺害の件を第一に。全てが終わってから私はたっぷり休みますので」
少し冗談めかして言うと、天凱はでかかった言葉を飲み込む。しばらく、紫瞳を見つめ、深い溜息をついた。
「君は、本当に強いな」
「ええ、こき使ってください。さあ、私達も寝ましょう」
普段の傍若無人ぶりからは予想もできない英峰の穏やかな寝顔を見ながら、紫苑は天凱の分も布団を敷いた。




