第7話 夏扇宮
皇后が住まう鳳凰宮を中心に、東西南北を四つの殿舎が囲い込んでいる。四季の移ろいを愛する国故に、各々の名を冠する殿舎には、同じように四季の名を冠する妃が住んでいる。
他国では後宮に住む数千という美姫が皇帝の側室であるというが、慶国では側室は季妃の四人のみ。皇后を含めて妻は五人までしか娶れないと決まっていた。
百年ほど昔、王座を巡って血みどろの戦いを繰り広げられたことから人数は最小限に、各々が象徴する色と宝玉しか身に纏ってはいけないと定められている。
***
宦官が持ち上げる鳳輦と呼ばれる輿に揺られた紫苑は、遠くに見える扁額を見つめた。赤色がうっすら滲む文字は『夏扇宮』と書かれている。照りつく夏の日差しを楽しもうという意味で名付けられた殿舎は、その象徴色が示す通り、屋根瓦、壁、階に至るまで赤を基調に建設されていた。
ここには、紫苑が入内するまで、後宮で一番権力を持っていた女が住んでいた。
その名は葉珠珠。賜った妃位は夏妃で、祖父が宰相、父が大臣と国の中枢に深く関わる家に生まれたためか、まだ年若いが気位は高く、噂で聞けばひどい癇癪の持ち主だという。
(……どんな反応をするのか、考えただけでも恐ろしいな)
延期になった茶会を開くとお達しを出していの一番に承諾した葉夏妃だが、きっとその内心は納得していないことだろう。紫苑のように仮面を被って、朗らかに出迎えてくれるか、それとも朝礼の時のようにちくちくと嫌味を言われるか、どちらにしろ考えただけでも気が滅入る。
できれば、自分に友好的な司馬冬妃や謝秋妃を先に訪ねてしまいたいが、そうすれば葉夏妃は自分が蔑ろにされたと感じてしまうかもしれない。
(とりあえず、今日は探るのをやめて、仲良くなることだけに徹するか……)
鳳輦が近づくと殿舎の前に煌びやかな衣裳を纏った女性たちが躍り出る。先頭に立つのは苛烈な炎の襦裙を纏った葉夏妃だ。袖で顔を覆うように面を伏せている。黒髪を飾る紅玉石が放つ輝きは、離れた場所にいる紫苑の目までしかと届いた。
「——お久しぶり。顔をあげてちょうだい」
葉夏妃がゆっくりと面をあげる。簪が揺れ動き、しゃらしゃらと音をたてる。
「この度は、我が夏扇宮まで遥々お越しくださったこと、心より感謝いたします」
「ごめんなさいね。本来はあなたを鳳凰殿に招待するつもりだったのだけれど、天凱様が嫌がって」
ぴくり、と葉夏妃の唇が小さく跳ねる。
「あの方は、人がお好きではないらしくて……。お詫びに美味しいお菓子をたくさん持ってきたわ。みんなで分けてちょうだい」
傍に控えた雨蓉に目配せすると、揚々《ようよう》とした態度で前に進み出て、腕に抱えた菓子箱を広げた。小麦と砂糖を練って揚げた菓子に砕いた胡桃と蜂蜜を閉じ込めた蒸し饅頭。山査子や葡萄の飴など、若い女性に人気のものばかりだ。
宝箱のように菓子が詰まった箱を見て、葉夏妃は瞳を輝かせる。
「まあ、嬉しいですわ。私も、侍女も、甘いものは大好きなので、後でいただきますね」
「よろこんでもらえてよかったわ」
「お礼に美味しいお茶をご用意いたしますわ。お父様のおすすめですの」
「あら、楽しみだわ」
次に雨蓉とは違う侍女に目配せをする。小柄な侍女は視線だけで意図を察し、鳳輦を担ぐ宦官達に降ろすように命じた。
鳳輦の足が地面に触れてから、紫苑は侍女の手を借りて、地面に降りた。
「では、こちらに。夏扇宮をご案内いたしますわ」
ひらりと袖を舞わせた葉夏妃は、にこやかに紫苑に微笑んだ。
***
——夏扇宮、客庁にて。
紫苑と葉夏妃は向かい合って座っていた。二人の間には大理石の長卓が設置してあり、その上には紫苑が持参した菓子と葉夏妃が用意した菓子とお茶が並んでいる。
紫苑はそのうちの一つ、葉夏妃が用意した菓子をつまむと軽く口に含む。
こういう時は控えた侍女に毒味させるのが通例だが、紫苑は葉夏妃と親交を深めるために来たのだ。幼馴染が面白半分で小さな頃から食事に毒を盛ってくれたため、少しぐらい毒を摂取しても問題はない。まあ、当たっても大丈夫だろうとたかを括り、咀嚼する。菓子は砂糖がまぶしてあってとても甘い。噛む度に甘みの垣間に果物の酸味が滲んでくる。
通常の倍、時間をかけて咀嚼し、嚥下した。舌が痺れる感じもないし、呼吸や脈拍がおかしい様子もない。
(……これが、たまたま外れの場合もあるけれど)
紫苑は湯気がたつ茶器を手に取る。質が良い陶器製だ。こういう時に使用されるのは毒に反応を示す銀製と定められているのだが、あえて陶器製を選んだのだろう。
その証拠に葉夏妃は平静を装っているが、紫苑の動向に注目している。紫苑は試されていることに内心でため息をつくと、茶を飲んだ。渋いが、どこかまろやかな甘みが舌に広がる。
すると、葉夏妃は驚いたように口をあんぐりと開ける。
「……疑わないのですか」
葉夏妃は不思議そうに問うた。
「わたくしが毒を盛ると」
「あなたが私を殺しても、なにも利点にはならないわ」
「慶王様の寵愛を得るために、と考えられませんか?」
端で控えていた葉夏妃の侍女達が悲鳴をあげる。主人の一挙手一投足で首が刎ねられるかもしれないため、葉夏妃の言動を諌め、謝罪を促す。
紫苑が引き連れてきた侍女達も白んだ眼差しを向ける中、葉夏妃は臆せず背を伸ばし、紫苑の言葉の先を待った。
「私が死ねば、あなたに疑いの目がかかるわ。寵愛を得るどころか、ご家族そろって首を落とされるかもしれない。そんな危険を犯すほど、愚かではないでしょう」
「……わたくしが姫春妃様を殺害した、と言っても? そう言えますか」
その告白に紫苑は目を丸くさせた。
「あなたが殺した犯人だという証拠はないし、第一、そう簡単に告白なんてするかしら」
「わたくし、彼女をいじめていましたわ」
「ええ、聞いているわ」
葉夏妃は唇を噛み締める。
「……わたくしは、殺していません」
顔を覆う。細い指先の間から、嗚咽がこぼれ落ちた。
「みんな、わたくしが殺したと言うのです。わたくしが姫春妃を叱りつけていたから……!」
興奮しているのか葉夏妃は早口で話す。紫苑が「落ち着きなさい」と声をかけても聞こえていないようだ。
「次に殺されるのはわたくしよ。たくさんの人を傷つけたんだもの」
「そうならないように、天凱様は犯人を探してくださるわ」
「……慶王様が大切なのは、崔皇后様だけよ」
「わたくしも微力ながら犯人探しを手伝っているの」
こんなことで葉夏妃が抱える不安は取り除けないのを承知で、紫苑は笑む。
「だから、安心してちょうだい。しばらくは朝礼は無くす予定だし、季妃同士の直接的なやりとりも禁止するわ。この殿舎にいれば、侍女や宦官達があなたを守るから」
「彼らはわたくしのことが嫌いだもの。守ってくれるわけ、ないわ」
「なら、ご実家から誰かを送ってもらいましょうか」
「よろしいのですか?」
葉夏妃は花顔をあげる。赤い目尻が痛々しい。化粧が取れるのも厭わず、袖で強く涙を拭う。
「人数はこちらで制限させてもらうし、男子禁制はさすがに破れないけれど」
「い、いえ! 十分ですわ!」
勢いよく席を立つと葉夏妃は紫苑の膝に縋り付いた。その狼藉に両方の侍女達が気色ばみ、葉夏妃を引き剥がそうと動こうとする。
紫苑は手をかざして、その動きを止めた。納得がいかない表情を浮かべているが紫苑は皇后。その命令に刃向かう者はいない。
「ねえ、葉夏妃。お願いがあるの」
「は、はい。わたくしで出来ることなら」
「犯人を早く見つけるために状況をよく整理する必要があるわ。当時のあなたの行動、あなたが知っていることを話してくれる?」
下ろした手を白粉が取れた頬に当てる。興奮しているからかやや高い体温を辿るように指先で触れる。英峰が他者を堕とす時に浮かべる仕草、笑みを思い出して。
そうすると恐怖で憔悴した葉夏妃は安堵の表情を浮かべ、まるで母親に報告する子供のように、唇を開くのだった。




