第8話 未来と現実
帝都中央、帝国陸軍本部。大理石の床が陽光を鈍く反射するその廊下を、一人の男が軍靴の音を響かせていた。
──帝国陸軍兵器局長、ザルム・ラキネル少将。
無言のまま、人事局本館の執務階を歩く。通告なしの訪問。だが、立ちはだかる若い士官をラキネルは一瞥するだけで押し通った。
開いた扉の奥では、人事局人事部大佐──人事部の次長格が誰何の声を上げかけたが、それは言葉にならなかった。
「時間は取らせてもらう。これは兵器局長としての職責だ」
室内には数名の幕僚がいたが、ラキネルの眼差しはひとりの人物を正確に捉えていた。
人事局長。恰幅のよいその男は、軍務畑出身の冷徹な統制者として知られていた。
「本件、リィエン・スィリナティア研究員の帰郷に関して──これは誰の裁可によるものだ?」
ラキネルは、人事局からの連絡票を掲げた。その表情には怒りが滲んでいる。
ラキネルの顔を見た人事局長は、一瞬、眉を動かしたが、すぐに冷静な声で答えた。
「帝国陸軍人事局として、派遣期間の短縮は自治領との協定に基づき、しかるべき手続きを経たものだ。兵器局への事前通告は義務ではない」
「それは形式の話だ。私は技術的観点から、重大な損失が発生しうると言っている。あの研究員の言語的特性は、既存の魔導理論を一変させる可能性がある」
ラキネルの声音は決して荒ぶらない。だが、静かな怒りが言葉の端々に滲んでいた。
「……貴官らは、組織の秩序や統制だけを見て、目の前の可能性を潰したのだ」
だが人事局長は、椅子に背を預けたまま、僅かに口角を上げた。
「ラキネル局長。貴官の言いたいことは分かる。だが、我々は『人』を管理しているのであって、『夢』に仕える部局ではない。個人に未来を託すのは、技術屋の悪癖だよ」
沈黙が落ちた。
その静寂のなかで、ラキネルは帽子の庇をわずかに持ち上げ、局長を真正面から見据えた。
「……ならば貴官は、その理に従って、帝国の未来そのものを見落とすことになるだろう」
振り返りもせず、ラキネルは部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
その翌日、参謀本部に通達が届いた。
「兵器局による手続き上の非礼」「人事局業務への干渉の疑義」──
名指しこそ避けていたが、書かれた内容に迷いはなかった。
参謀本部中将は、ラキネルを個別に呼び出していた。
「……局長。人事局との件、いささかやりすぎたな」
重厚な木製の椅子に腰掛けたラキネルは、黙って一礼したのみだった。
中将はため息交じりに、眼鏡を外して机に置いた。
年齢は五十代後半。現場叩き上げの軍務経験者で、決して頭ごなしな人物ではない。
「兵器局長としての想いは分かる。私も──彼女の詠唱には並々ならぬ何かを感じていた。だが、帝国陸軍は軍であって、研究所ではない」
「……そのことは理解しているつもりです」
ラキネルは、声を押し殺すように言った。
「だが、彼女のあの言葉には、かつての魔法語を超える『なにか』があった。式を構成しない語彙で、現象が動いた。……その証左は、閣下も報告で確認しているはずです」
中将は、机上に置かれた一枚の記録紙を指で叩いた。
「──あの詠唱が、本当に古代の祖語である可能性。確かに、異常値も観測されている。だが同時に、あれは検証不能な〝偶然〟かもしれん」
ラキネルは沈黙した。
その沈黙は、半ば同意であり、半ば抗議でもあった。
そして、彼は、絞り出すように口を開いた。
「……偶然かもしれません。だが、そうでなかった場合、我々は百年分の回り道をすることになります」
中将は、ふと目を細めた。
「もし、それが真実だった場合──貴官はどうする?」
「……私ではない。次代に、それを残します」
ラキネルはゆっくり立ち上がった。
「我々が今ここで、未来のために声を上げなければ──彼女が去ったことは、ただの損失で終わってしまう」
中将は、頷きはしなかった。ただ、視線だけでそれを受け取った。
「……分かった。人事局には私の方で話しておく。ただし、再び命令系統を逸脱した場合は、兵器局長としての責を問われるぞ」
「はっ」
ラキネルは敬礼し、静かに踵を返した。
廊下の奥へと消えていくその背を、誰も追わなかった。再び、軍靴の音だけが、静まり返った参謀本部の廊下に響いていた。
その日、ラキネルの机には書類の山があったが、ラキネルはそれらにほとんど目を通さず、ただ手元の記録紙──彼女の詠唱記録を、何度も見返していた。
「名もなき力」「解析不能の意味」
だが確かに、あの現象は、理論になりうる〝何か〟だった。
ラキネルが中将の執務室を去ったあと──
静まり返った部屋に、一歩遅れて入ってきたのは、銀縁の眼鏡をかけた大佐だった。
参謀本部付。報告記録と調整実務を担う、冷静沈着な官僚タイプの将校である。
「……兵器局長は、随分と熱心なようですね。記録紙に残しておきますか?」
「いや、非公式でよい」
中将は椅子にもたれかかり、眉間を指で軽く押さえた。
「彼は職務を逸脱した。だが……無謀な正論には、時に何かを突き動かす力がある」
大佐は無言で頷いた。
それから、一歩前へ出て、低く問いかける。
「……閣下。今回の帰郷措置は、結果的に妥当とお考えですか?」
「……分からんよ。だが、もしも彼女の言葉が、本当に〝意味を持っていた〟なら……我々は、それを追わねばならなくなるだろう」
「兵器局の夢想に付き合う余裕が、今の帝国にありますか?」
中将はふっと目を閉じ、しばし思案した。
「実際のところ余裕はない。だが、未来が欲しいなら──夢を切り捨てすぎてもいかん」
そして静かに眼鏡をかけ直した。
「……しばらく、兵器局の動きを見守れ。あの男が、ただの狂信者か、それとも──時代の火種か、見極める必要がある」
「了解しました」
部屋には、再び静寂が戻った。
記録紙の上には文字列がひとつだけ残っていた。
──〝詠唱パターン:照合および解析不能〟