第7話 王なき城の庭
森の端、北の山脈の麓。
谷あいの渓流が、永い時をかけて岩を穿ち、峡谷に深く静かに流れていた。峡谷にはうっすらと霧が立ち込め、長い時を生きる民の様相を隠しているかのようだった。
その断崖の中腹に、まるで岩にしがみつくように建てられた古の宮殿がある。灰白の石造り。長い年月を経て苔むしたその壁面には、風化しかけた古代文字が彫り込まれていた。いまやそれを口にする者すら、森の奥にはほとんど残されていない。
太古にはエルフを統べる王が住まい、神託の場として使われていたというその宮殿は、今では自治領の最高評議の場──族長たちが集う、ただそれだけのために存在している。
宮殿の袂、川面を見下ろすその一角に、ひっそりとした庭園がある。木々に囲まれたその奥、古びた藤棚の蔓が絡む、灰色の石造りのあずまや。季節ごとに咲く花がほのかに香り、吹き抜ける風が渓流の水音と混じり合っていた。
そのあずまやの中に据えられた石椅子に、族長たちがそれぞれ一人ずつ腰を下ろしていた。誰一人、口を開かない。長きに渡って、沈黙はこの合議において最も重い意志を表すものとされていたからだ。
椅子は六つ。それぞれがかつての王の座所を囲むように円を描き、灰色の床石に静かに影を落としている。
椅子の背は高く、硬質な彫り物に古代の紋が刻まれていたが、もはや誰もその意匠の全てを語れる者はいない。
あずまやを囲む木々は深く枝を張り、葉の重なりが光を遮り、合議の場にわずかな陰翳を落としている。
鳥の声さえ遠く、ここでは風と水音だけが時を刻んでいた。
やがて──沈黙を破ったのは、最長老だった。
「……スィリナティアのリィエンが、詠みおったわい」
誰も驚きの声を上げなかった。ただ、風が一層強く吹き抜け、木の葉を揺らす音が、その言葉への応答となった。
「やはりな……」
対面の椅子から、壮年の、黒い長髪の族長が低くうなった。
「だからこそ、私は反対だったのです。あの娘を帝国に送ることそのものに。『リザエルの孫』というだけで、特例を重ねすぎた。──あなたがたは、あの娘を甘やかしすぎているのです」
その語気には怒りというより、苛立ちと諦めが混ざっていた。
「情を排し、定めを守ることが我らの務めのはずだ」
「だが、我らは見届ける者でもある」
「見届ける者が危険にさらされていては、本末転倒だ」
隣の椅子に座る、壮年の族長たちが次々に口を開く。
柔らかな声が別の椅子から割って入った。中年の女性族長。長い白銀の髪を、きつく編み込んで背に垂らしていた。
「干渉はよくない。しかし、定めに抗うこともまた、定めのうち。そうしてきたではありませんか」
「──抗うことと、逸脱とは違う」
石肌のようにざらついた声が、あずまやの奥から応じた、声の主は、長い白髭を胸に垂らした老族長。目を閉じたまま、庭の小川の流れに耳を傾けていた。
「言葉は、力だ。詠唱は、封じたはず。それを破ったとなれば──むろん、それは軽きことではない」
最長老が静かに頷く。
「じゃが……あの娘は、なんと言って帝国へ向かったんかの」
一瞬、再び沈黙が支配する。
やがて、控えていた若い書記官が一歩前に進み、巻かれた羊皮紙を広げた。
「……〝神の定めが忘れられようとしているなら、私はそれを記しに行きます〟──との言葉を残しております」
「記す、か……」
白髭の老族長が呟いた。
「記すという行為は、記憶を裏切ることでもある。個の視点が介在する限り、真理は歪む」
「それでも彼女は、行った。記すために、ね。──かつてのリザエル様のように……」
白銀の女性族長が目を伏せる。
「それは希望と見るか、傲慢と見るか。どちらにせよ、いまこの森から離れた者が、真理に触れようとしているのです」
彼女は、座を見渡した。
──壮年の族長が舌打ちに近い息を漏らす。
「詠んだという事実だけで十分だ。しかもそれが、帝国の監視下であれば──事態は複雑になる」
最長老は、誰の顔も見なかった。ただ、風の流れに耳を澄ませるように、ゆっくりと目を閉じ──
「……ならば、呼び戻さねばならんのう」
──と、ひとこと呟いた。
その一言に、異論は出なかった。声を重ねる者もいなかった。
かくして、決定は下された。
合意を求める声も、票もない。あずまやでの判断は、静かで、それゆえに確固たるものだった。
この決定は、数日後には帝国陸軍人事局に届くことになる。文面にはこうあった──「自治領内における人事上の都合により、交流研究員リィエン・スィリナティアの任期を繰り上げ終了とする」
それは帝国陸軍人事局にとって想定の範囲だった。人事局にとって重要なのは、つつがなく次の交代要員が着任し、制度の継続に支障が生じぬことであった。
件の実験を知らない人事局は淡々と手続きを進め、兵器局への通達は、事務的な文言のまま届けられた。
だが──
リィエン・スィリナティアが森に帰ることはなかった。
──風がまた、あずまやを通り抜ける。
あの石椅子の族長たちは、感じていた。この決定が、どこかで何かを変える予兆であることを。
あずまやに残されたのは、風と、眼下の川のさざ波の音であった。