第6話 宿舎の夜
兵器局本部にほど近い地区にある帝国陸軍兵器局宿舎。夜になれば、この建物がある街区は一帯が静まり返る。灯りは整然と配置され、衛兵の巡回が日課となっている。
その夜、兵器局からの帰路。リィエンは、少し歩き慣れはじめた石畳の道をたどり、階段を上り、自室の扉を開けた──その瞬間だった。
ざらついた空気が、首筋に触れた。
椅子の角度、机のランプ、置時計の位置──どれも、わずかな差異すら見せていなかった。
しかし、滞在当初から部屋に仕込んでおいた感知魔法が、侵入者の痕跡を示している。
帝国の宝珠では捉えきれない、仄かで古い魔法。それが、今初めて〝警告〟を伝えていた。
リィエンは扉を閉め、鍵をかけると、ゆっくりと部屋を見回した。
カーテンを開いて窓を開け放ち、何事もなかったように振る舞いながらも、警戒は一層深まる。
夜の帳が降り、街灯の明かりが、石畳に柔らかくにじんでいた。
しばらくして、リィエンは窓を閉め、すっとカーテンを引いた。
静かに机へ向かい、羊皮紙を整えはじめる。
この数日、彼女のなかには拭いきれない違和感が残っていた。
兵器局──その名が示す通り。ここで魔導は、常に「兵器」としてのみ扱われていた。
実験、検証、再現、制御、そして量産。その一つひとつに、確かに整合と美しさはあった。だが──音は、なかった。
技官たちは、有能だった。誠実で、規律を重んじる。
……だからこそ、非情だった。
彼らの言葉は端的で、評価は数値で語られ、発した命令に〝意味〟は必要なかった。
──この地では、魔法はすでに「語られないもの」となっている。
それも理解はしていた。ずっと前から分かっていたことだった。 けれど。
(それでも……やはり、音がなさすぎる)
リィエンは、翡翠色のガラスのインク壺を手元に寄せる。そこへ、ペン先を浸しながら、そっと目を閉じた。
思い出す。
はるか昔。テュラン地方の、緑に埋もれた修道院跡。今では忘れられた祖語の碑文が残るその廃墟で──あの少年と出会った。
金の巻毛を持つ彼は、魔法陣に刻まれた石の文様を、何時間もかけて指でなぞっていた。読めるわけではない。ただ、その線が何かを語りたがっているような気がすると言っていた。
──その眼差しを、リィエンは忘れられなかった。
あの子は、言葉の真理を求めていた。言葉がただの命令や制御のためにあるのではなく、もっと根源的な、祈りのようなものとして在るということを、まだ幼いながら感じ取っていた。
そして今、目の前にある兵器局の魔導技術。それは、あまりにも無機質な体系だった。
(……語られない世界には、祈りもない)
リィエンはゆっくりと目を開け、筆をとった。
口元が微かに動き、何かをつぶやく。そして、ペン先を、羊皮紙の上に音もなく滑らせた。
「やむを得ぬ行為にて、貴意に添えぬこと──深く、お詫び申し上げます」
「詠唱の使用、遺憾ながら不可避なりしこと……」
「人の地よりの障り、兆しあり」
「──帰還、願い奉る」
書くのは、帝国を離れるための要請書。しかしそれは単なる公文書ではない。彼女は、祖語でそれを綴っていた。
この言葉は、術式でも符号でもない。意味を持ち、律を刻み、道をひらくための〝詠唱〟そのものだった。
文字が紡がれるたびに、その文字が淡く光り、魔導的な揺らぎが生じる。
それは目に見えぬ〝伝送〟の術。長い時を生きる一族にのみ伝わる、思念と言葉を共に送る魔法だった。
リィエンは最後の一文を記すと、紙をそっと掲げ、目を伏せた。
「──王なき城の袂へ、我が意を届けよ──」
リィエンが詠むと、羊皮紙がふっと翡翠色の光に包まれ、次の瞬間、霧のように空間へと溶けていった。
その余韻の中で、リィエンは微かに微笑んだ。けれど、それはどこか寂しげだった。
いつの間にか、外の風が窓を揺らしている。
それでも──この部屋だけは、静かだった。