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第5話 忘れられた遺跡

 ある日の午後。帝都西地区──帝国大学の敷地の端にある、ほとんど訪れる者のない附属文書館。

 陽が傾き始めた頃、カイ・ヴェルティアはその静寂のなかへ足を踏み入れた。


 赤茶色の煉瓦と高いアーチ天井。重々しい扉が閉じると、外界の音はすっかり遮断された。そこには、かすかな古紙とインクの匂いが漂い、時間さえ緩やかに流れているようだった。


 文書館の最奥、窓際の机にひとりの老人が座っていた。机の上に広げられている資料を見ていたその老人の顔が、ゆっくりとこちらを向く。


「……おや。これはまた……たしか……ヴェルティア君だったか」


「覚えておいででしたか、大変ご無沙汰しております、教授」


「ふふ、今は気楽な隠居の身ですよ」


 老人は目を細めた。


 ハルダン・フンベルト。かつて帝国大学文学部で古語を講じていた学者。現在は退官し、文書館の嘱託として静かに資料の整理をしている。

 講義室で彼の言葉を聞いたのは、もう十年近く前になる。それでもその声は、奇妙なほど記憶に鮮明だった。


「今は軍だったね。……技官である君が、ここに来るとは珍しい」


「ええ。今日は、個人的な調査です。教授に、お見せしたいものがありまして」


 カイは鞄から一枚の紙を取り出した。そこには録音記録から書き起こした詠唱の断片が記されている。


『Æ shualé t’retha venor elthia』


 教授は静かにそれを受け取り、眼鏡をかけ直すと、じっと文面を追った。

 わずかに息を止めるような沈黙が流れ──やがて、目が細くなる。


「これを……どこで?」


「ある筋から入手しまして、ちょっと気になったものですから」


「……これは……面白いな。ずいぶんと古い詠唱形式だ。『エイ・シュアレ・トレサ・ヴェノール・エルシア』か。語の配置が連句構造になっている上に、中句に媒介句のような変則的対格が挟まれている。しかも終句──この〝elthia〟という句は……ふむ、現代詠唱では見かけん。まあ、音のための音ではない、明確に〝意味を持たせようとした詠唱〟だね」


「何か、見覚えは……?」


「〝シュナリウム式〟に近い構文だね。古代の教会などで用いられていた詠唱体系の系譜だろう。第一句〝Æ shualé〟は祈祷句の古形、中句〝t’retha venor〟は高位存在への意識遷移、そして〝elthia〟──これは根源語に属する単語で、通常の術式語からは逸脱している。今の標準詠唱とはまるで系統が違う。おそらく、言葉そのものに力を与えようとしていた時代の名残ですよ」


「……ふむ、……ちょっと待ってなさい」


 教授は奥の書庫へ向かい、しばらくして、一枚の羊皮紙を持ってきた。机の上に広げると、それは古地図だった。


 教授が広げた地図には、帝国の北方を横断する山脈と、その南に広がる森林地帯が描かれていた。

 森の縁──帝国領との接点あたりに、かすれた小さな印が記されており、その横には、やはりかすれた文字がある。

『テュラン』──その文字は、まるで忘れ去られた遺跡そのもののように、地図にひっそりと佇んでいた。


「……〝テュラン旧修道院〟──これはね、見ての通り、北部の山脈の南麓から広がる森林地帯、つまりエルフ自治領の南縁部にあった施設です。帝国の辺境と接している境界地帯──テュラン地方にあったことから、そう呼ばれてます。もともとは旧王国の保護下で建てられた修道施設だったんですが、王国崩壊の混乱の中で放棄されたと聞きます」


「……〝旧王国〟とは?」


「帝国建国以前にあった王国ですよ。内乱で滅亡したとのことですが。一説によると魔法的な何かを原因とする内乱だったらしいです」


 窓の外のくすんだ光が、黄ばんだ地図の上を静かに照らしていた。

 誰も知らない過去が、そこに眠っている。


「記録は残っているんでしょうか?」


「なにせ数百年前の話ですからね。資料はほとんど残ってません」


 教授の声は静かだったが、その瞳の奥には学者としての興味が揺れていた。


「……実はね、君がここに記した句、〝elthia〟──これはね、かつて旧教会詠唱において、極々限られた文脈でのみ用いられた語なんですよ。〝高位存在への問いかけ〟あるいは、〝根源に触れる言葉〟とされていた。明確な定義は失われて久しいですが……少なくとも、術式補助語ではない。これを語尾に添える構文は、教会でも特別とされていたらしい」


「……それが意図せず現れたものだとしても──偶然では済まされない。そこにあるべき句、なんだろうね」


「単なる意味だったら〝大いなる存在への祈り〟といったところでしょうが、真意は分かりません。……とにかく、これがもし旧教会由来のものであるならば、テュランに何か手がかりがあるかもしれませんよ」


 ──ふと、あの講義室の記憶がよみがえる。

 冷たい石壁。眠気にまどろむ学生たち。中庭を揺らす古木。

 そして──


「なぜ効かなくなったのか。そこにこそ、魔導の転換点がある」


 あの日、ただ一人背筋を伸ばして聞いていた自分が、今ここにいる。


「……ありがとうございます、教授。おかげで、大きな手がかりを得られました」


 教授は、どこか嬉しそうに微笑んだ。


「私も、非常に興味深いものを見せてもらいました。……言葉は、忘れられても、消えはしない。伝えたいという思いがある限りね」


 教授はそれ以上、口にしなかった。ただ静かに、紙片を整え、視線を窓の外へ向けていた。



 文書館を出ると、夕陽が建物の壁面を朱に染めていた。

 カイの胸の奥には、確かに熱のようなものが残っていた。


 古の修道院。放棄された詠唱。言葉の力。

 それらは、偶然ではなく、ひとつの線で結ばれ始めている。


 石畳を歩きながら、カイはふと立ち止まる。

 視線の先には、講義室から見ていた中庭。そこには、あの古木がまだ同じ場所に根を張っているのが見えた。


 ──あの講義室は、今も使われているのだろうか。


 彼はしばらくじっと木の枝先を見つめていた。枝に、小鳥が一羽とまっていた。風が吹くたびに、枝がわずかに震え、その影が地面に淡く揺れる。


 「なぜ効かなくなったのか」


 再現性、汎用性、数式化──

 開発において求められるそれらは、確かに技術としては正しい。だが、そこから零れ落ちていった何かが、確かにあるような気がする。


 あの詠唱には、確かに意志があった。意味を伝えようとする響きがあった。

 そしてそれは、どんな式にも変換されていなかった。


 ──教授は、今も同じ声で語っていた。


 変わらず、ただ学者としての誠実さをもって、古い言葉に触れようとした。


 カイは上着の内側から、小さな手帳を取り出した。日誌というには拙く、断片的な覚え書きばかりが並ぶが、それでも彼にとっては、思考の痕跡を留める唯一の場だった。


 ペンを取り出し、今日の日付を書き込む。


「トレサ・ヴェノール・エルシア──高位存在への呼びかけ、あるいは祈りか? 意味があるとするならば、なぜそれは今、通じないのか。──そして、なぜ、あの詠唱は通じたのか?」


 そこまで書いたところで、ふとペンが止まる。


 ──意味が失われたのではない。

 おそらく……意味を見ようとしなくなったのだ。


 ならば、自分がやるべきことはひとつ。


 もう一度、〝言葉〟と向き合うことだ。

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